席を譲った形の今回の企画展は、床の間に飾る掛軸ではなく、会場で展示する大作主義を川端龍子が標榜したからで、2階中央の大部屋にはいつもと違って7点のみの展示となった。

筆者は10月30日にひとりで訪れ、11月24日に家内と見た。龍子の作品を京都で見られる機会はめったにない。期待していた京都国立近代美術館にある「佳人好在」も展示され、また青龍社の現在はほとんど知られない弟子たちの作品が1階別室で紹介され、大規模展ではないが、龍子の真髄を知るにはとてもいい機会であった。満65歳以上の京都市民は無料であるので今後はこの美術館で開催される企画展は全部見たいと思っている。それは去年6月にリニューアル・オープンしてからかなり企画に意欲が見られるようになったからだ。本展もそう位置づけてよい。堂本印象宛ての1955年から亡くなる6年前の60年までの龍子の年賀状が展示されたが、賀状を送り合う以外に、印象と龍子がどの程度親しかったは知らないが、どちらも個性がきわめて強く、独自の道を進んで大成した点では東西の雄で、本美術館での龍子展はふさわしい。ところで、前述の「佳人好在」は筆者が初めて画集で龍子の作品として注目した作品で京都南禅寺の瓢亭内部から庭を見通した絵で、湿り気がいかにも京都らしく、それもあって京都国立近代美術館の所蔵はふさわしい。この作は細密描写に優れ、日本の部屋や庭の空気をあますところなく表現し、また龍子にすれば比較的小さな作品でもあって、掛軸を描く才能が十全にあったことを伝える。つまり、龍子は最先端の日本画の技術を持ち合わせながらそれにとどまらず、床の間から会場へと躍り出た。今の日本画の公募展は100号の作品を出品することが求められるが、ほとんどすべての画家は掛軸にまとめる才能がないだろう。そこが龍子とは決定的に違っていて、優れた小品を描く才能がないのに、100号以上の大作をまとめようとするから空疎な内容になる。また100号の絵を個人の家に飾ることはほとんど不可能で、現在の絵画を市民生活に浸透させるには、もっと小さな絵を数多く描く努力をしたほうがよい。その思いからは、龍子が唱えた会場本位の大作主義にはよくない面も見える。美術館を最初から意識する作品を筆者は好まない。特に前衛を自認する人は美術館での展示を第一義に考えているが、彼らの作品が美術館がなければ展示されないという現実はおかしい。美術館によく行く人でも前衛となると二の足を踏む人が少なくない。そのため、美術館で展示される現在の前衛作品は何らかの宣伝が功を奏さない限り、注目されず、また注目されなければ彼らの自尊心は満たされないが、そういう前衛が古典となる確率はほぼゼロに近いだろう。箱物行政国家の日本には美術館は腐るほどあり、その膨大な壁面や場所を絶えず埋め尽くす作品が必要で、美術館本位の中身のうすい作品が量産される。
筆者の友人の日本画家のYは、かつて龍子は大嫌いだと言った。昔のことだが、たぶん今もそうだろう。京都人なので東京の日本画家を好まないのかと言えば、そういう理由ではないようだ。龍子の作品を好まないのは、大作主義はいいとして、その大げさなところやまた大作を素早く描き切るその技術達者な側面だろう。技術達者という特長は、筆者は画家としては必須と思うが、達者なあまり、じっくり考えて描くという面において軽薄になりやすい。つまり、映画の看板や銭湯の壁を専門に描くような職人技になりやすく、芸術性が乏しいと感じるというのがYの思いだろう。龍子にそういうところがないとは言えないことには同意するが、呆れるほどに技術は巧みで、また軽薄と言えないことは「佳人好在」から明らかだ。同作ほどの絵を描く人がその後駄作を量産することはあり得ない。また龍子ほどの技量を持った画家は現在おらず、今後も出現しないと筆者は思っているが、その理由はネットの悪い面の影響だ。今後も紙に筆で描く才能がなくなることはないが、デッサンの基礎があって素早く的確に描ける才能については悲観する。一見それらしい才能は、みなアニメの型に嵌った悪い影響を受けていて、龍子とは比べものにならないほどに軽く見える。だが、それも龍子以降のひとつの必然的な結果と言うことも出来る。若い頃の龍子は新聞社で挿絵を描き、また絵本を描くなど、商業的な絵から出発した。たとえば本展に出品された目の大きな男女の子どもが象を取り巻く「百子図」で、これは少女漫画雑誌のイラストのようなかわいい絵だ。挿絵を描いていたことは小川芋銭に通じるが、芋銭は文人画に接近し、隠遁者としての孤高の味わいを作品に付与することが出来た。龍子はたとえば児童をかわいらしく描く延長上に、自身を含め、大人を驚くほど写実かつ軽妙に描く才能を発揮したが、そうした人物像は線主体の日本画でありながら、洋画に負けない存在感や色気がある。ところが、こう描けば人は好むということを熟知している商業主義の匂いが混じっている。万人受けを狙っていると言ってもよい。新聞や雑誌に描くことから出発したことが、会場で多くの人に見てもらおうという思いにつながったであろう。そうした、人々を驚かせ、呆れさせる思惑は、今もそのとおりに人々を反応させるはずで、そこを好きか嫌いかで評価が分かれる。Yはその商業分野で培った手慣れた職人技が嫌いなのだろうが、さりとて今の日本画家で龍子ほどに巧みかつ素早くて的確な筆致を感じさせる腕前を持つ画家はいない。つまり、龍子は今のアニメ世代が好む絵を描いたと言えるが、アニメ世代では絶対に追い着けない技術を持っている。それは食うために真剣に努力した結果の手技で、指先操作のパソコンを使っては得られない。龍子の大画面は体全体で描いた迫力があり、実際龍子は大柄で貫禄があった。そこは村上華岳とは対照的だ。

青龍社は所属していた大観の院展を辞めてからで、そこから一匹狼的な龍子の気風がわかる。2階へ通じる長い廊下の壁に、1959年作の「逆説・生々流転」と題する高さ48センチ、長さ28メートルの絵巻が展示された。2,3メートルずつに分断されていて、桟のない襖や屏風のような表具がなされているが、どのパネルも絵は左右がきれいにつながる。これは同年の伊勢湾台風の発生から日本への到来と被害、そして復旧までを描いたもので、大観の「生々流転」に対する反論、パロディといったものではない。「絵空事」ではなく、災害から立ち直る人間の逞しさを描こうとしたもので、戦争で息子を亡くすなど、さんざんな経験をした龍子が、日本の戦後の成長を願って描いたものと見ることが出来る。戦前に龍子は渡米するなど、行動的であったが、1937年にはサイパンに赴いて写生している。その時の経験がこの絵巻に活かされた。冒頭は南洋の島人の生活風景で、その地から台風が発生し、やがてそれが日本を襲う様子を、「ダイナミック」という月並みな言葉しか思い出さないほどに迫力満点で描く。かなり速筆であったと思われ、最後の場面に登場する復旧工事をするトラクターでようやく一息がつける。またこうした文明の利器を描くところは、床の間芸術を嫌った面目が伝わると同時に、日本画の世界を土木工事で一新したかったのではないかと思わせる。となると、台風が暴れ回る様子は龍子の比喩であって、古い瓦屋根の民家が押し潰される様子は、古い日本画の体質や画壇を壊したい思いの反映とも読み解けそうだ。題名冒頭の「逆説」は、大観に敬意を表しながら、自分なら、今なら人間の生の絵巻はこうあるべきという意志の強さが感じられる。とはいえ、大観の名声は揺るぎなく、龍子のこの新しい実際の出来事に取材した作品は、即席に思いついて即席に描いた感があって、古い新聞の挿絵を見るような懐かしさを感じさせる。そういう新奇さを狙ったようなところは印象の抽象画にも感じるが、それを言えばおそらくどの作品もそうだ。台風の被害を受ける人々の服装やトラクターの型など、当時最先端のものを描いても、すぐにそれらは古びてしまい、画家あるいは作品は時代性から逃れられない。とはいえ、「佳人好在」の畳部屋から庭を見通したような狭い空間から解き放たれて、これ以上はないほどの大きく広い世界を描こうとした意欲があって、それは戦前の一部の人たちが大陸へ侵攻しようとした思いと根は同じと言ってよい。つまり、狭いところに満足出来ない思いで、それがあったので院展に留まることなく、自分の会を作った。青龍会に所属した画家は50名ほどで、龍子は生活に困る弟子に自作の絵を与えて換金を勧めるなど親分として世話を焼いたが、龍子亡き後、遺言にしたがって解散し、彼らは今はほとんど知られない。後述するが本展では5名の弟子の作が展示された。
2階に展示された7点には、先月書いたように、「金閣炎上」があって、同作を見たその日の夜に首里城が燃えた。その様子を早速絵画にする人がいれば、今は不謹慎と謗られるだろう。龍子は率直に金閣寺が燃える様子は華やかといった意味のことを書いた。そこにはどのような悲惨な出来事でも何らかの視覚的な美を見ようという画家らしい本能がある。それは戦争を体験したからと言ってよい。本展のチラシの表に印刷された1939年の作品「香炉峰」は、中国の有名な山を俯瞰するようだが、画面全体に龍子が乗る戦闘機がはみ出す形で描かれる。また飛行機の下に描いた香炉峰が少し透けて見えていて、最初は戦闘機を描くつもりがなかったのではないかと思わせるが、俯瞰図であるので、龍子が飛行機に乗っている図が前面に出ているのは合理的だ。そして飛行機ばかりが目立って、眼下の風景は中国かどこかわからなくなっている。戦争末期に描かれたこの絵は当時の有名画家が国から描かされた「戦争画」のように思えるが、龍子は求められずに日本軍を鼓舞する思いで描いたのだろう。大観は自作の絵で戦闘機を買うことを画策したが、それとは対照的で、龍子は自分が戦闘機に乗って中国へ飛ぶ様子を描いた。それはともかく、この作品も気宇の大きさの表現を意図し、大画面であることを含めて他の日本画家には真似が出来ないものであった。ただし、この絵を見て、戦後の漫画世代は、漫画なら見開きのページで充分同じことが表現出来ると言うだろう。そう思われるほどに、龍子の大作は、本来は大画面で描かなくても表現可能なことを引き伸ばしている大味さがあるとも言える。1947年に「虎の間」は、南禅寺の虎を描いた襖の前にたたずむ龍子やまた寺の小僧、若い女性観光客などを、実物より少し大きく描き、スナップ写真をそのまま拡大した臨場感がある。女性は顔を見せないが、顔や体の輪郭線は美女を想像させ、迫真的な色気がある。襖絵の虎は龍とセットだが、龍を模写する代わりに龍子自身の姿を描いたとされ、機知にも富む。また京都観光ブームがすでに始まっていたことも思わせ、当時の南禅寺がこの作品をどう思ったかが気になる。堂本印象と違って龍子には宗教画がないようで、寺を描いても「金閣炎上」のような派手な色合いや、「龍安泉石」のように石の配置の造形性に関心があった。とはいえ、そのことで印象よりかは信心深くなかったとは言い切れない。「春炉峰」や「虎の間」など、高さ2・5メートル、横7メートルほどの作品は、青龍社展に出品されたもので、龍子が住み、没後大田区立龍子記念館になった施設が所蔵し、絵具の剥落はなく、保存がよい。筆者は同館を訪れたことがないが、大作主義の龍子の作品を全部は展示出来ないはずで、たまには本展のように出張展示をするのだろう。
本展は1階の小さな新館にも龍子の作品が展示された。そこで目を引いたのは、大田区の自宅の畑が爆撃を受け、大きな穴が開いたことだ。そこは後に池になったが、食料不足の中、龍子はその畑で作物を育てた。それらを描く作品は若冲を思わせ、またさすがの技術の達者ぶりを伝えた。1932年「後圃蒐菜」は水墨主体で、収穫出来た野菜を仏前に供えるような雰囲気がある。1945年の「爆弾散華」は背景に爆発の火花を思ってのことか、金粉を振り、緑色主体で描かれる南京の実や葉は半ば散り散りになって散華のようだ。ここにも何事にも負けない気概、楽天性が感じられるが、龍子は戦争で息子を亡くし、妻も病気で失った。同じ新館の1室は龍子の弟子の作品が並び、青龍社の実態の一端がわかった。弟子の作品は大田区立龍子記念館にはなさそうで、各地から集められた。それらを列挙すると、東京国立美術館、京都市立芸術大学芸術資料館、京都国立近代美術館、安井金比羅宮、鉄道博物館で、こうした施設に保存されるとまず忘れ去られることはないが、それでも展示の機会はめったにないだろう。彼らが青龍社展に出した作品は龍子のような大作であったのかどうかは知らないが、戦時中であれば絵具もままならず、有名でない画家は大画面を描くことは無理であったろう。本展では展示室の狭さもあったので比較的小さな作品が選ばれたと思うが、それぞれに力量と個性を見せ、面白かった。だが、彼らの名前を知る人はほとんどおらず、作品が市場に出ても注目する人はいないだろう。あるいは本展のようなきっかけで注目する人が出て来る可能性は充分にあるが、それがある程度は大きな力にならない限り、絵画市場は反応しない。そこに大画家の弟子になることの薄幸さを思うが、龍子のように一匹狼で大物になれる画家ばかりではない。それはどの分野でもそうで、大物がいればその裾野に無数の無名がいる。無名は有名になることに命を賭けるが、多くは満足な生活もままならない。画家で有名になるには絵の才能だけでは無理で、政治家的な行動や経済力が欠かせない。それはさておき、展示された画家は山崎豊、事塚英一、池田洛中、亀井玄兵衛、松宮左京で、この中には京都で栖鳳に学び、東京で龍子の弟子になった者がいる。池田の「一口村」(イモアライムラ)は印象も描いた巨椋池の畔の村で、埋め立てられて今はない景色を描く。日本のどの田舎にもあったようなのんびりとした村の家と庭、そこにいる人や鶏などの小動物を描く。松宮の「操車場風景」は、今は鉄道博物館になっている京都のJR梅小路にある機関車を回転させる台を斜め上から描き、その油彩的な感覚が面白い。その油彩的タッチは亀井の文楽人形を描いた「阿古屋」ではもっと顕著で、龍子の作風とはまるで違う。彼ら弟子の作をまとめて展示しても客が入らず、したがって論評する人もおらず、そのまま埋もれて行くのだろう。