夷顔でいると金が儲かるのか、儲かるから夷顔になるのか、ともかく夷顔と福とは関係があるとされる。一方、2年前に亡くなった筆者の知り合いのKさんは、いつもニコニコして愛想のいい人は曲者だと思っていた。
ニコニコかへらへらか、人によって相手の笑みの受け止め方は違うが、人との対面時に夷顔の人が自宅ではしかめ面をしていることはよくあるだろう。その反対のほうが何となく信用出来る気がするが、Kさんもそう思っていたのではないか。必要以上に夷顔の人は胡散臭いもので、実際胡散臭い人は金儲けがうまい。詐欺師になるのも才能だが、美術や音楽、文学といった芸術方面の才能で食べて行きたい人も時に詐欺師のようなことをする。昔聞いた話がある。40歳くらいの女性が知り合った年下の抽象画家の男にかなりの金を貸し、そのままになった。男は自分の才能を自慢して接近したのだろう。男は何度か寝たことで借りた金は帳消しになったつもりで、女性は社会勉強代として金は諦めた。その抽象画家のその後を聞かないので、たぶん画家で生きることは諦めたのだろう。芸術を目指す者の心がきれいということはあり得ず、普通の人と同じく、色も金も猛烈にほしがっている者が大半だろう。何しろ芸術を続けるには金がかかる。食べて行くだけでも精いっぱいなのに、そこに製作の時間と費用が必要だ。金をむしり取れる異性と近づきになれば、その機会を活かそうとする考えが少なくないのは想像にあまりある。また金目当てでなく、体目的は世の中にはあたりまえにある。新人芸能人は必ず目上の引き立て役の何人かと寝ることを強制されるし、芸術家も同じで、若手に「作品を公にしてやる」と言って肉体関係を迫ることは、世間に話が広がらないだけで、ふたりの間の秘密として無数に存在する。前者はある芸能関係者から直接聞き、後者の例については富士正晴の本に書いてあったが、セクハラやパワハラをされても、あるいはしても何とも思わない人がより有名になる。それくらいの逞しさが一流には必要だ。それは鈍感ということでもあるが、芸術行為にそれがあっては困るかと言えば、強い鋭敏さを持つ人はどこかで鈍感でもある。それはともかく、ネット時代になって自分で宣伝することが出来るようになったが、それは動画、画像、音楽や文章であって、またそれ自体は無料であるので、金儲けにつなげるには実際の作品を買ってもらう必要がある。装身具などの小物であればネット上の画像でだいたい判断出来るが、芸術作品となると実物を前にしなければ本当の魅力は味わえない。その実物を展示し、見てもらうためには場所が必要だ。それには金がかかるし、また有名人でなければ人集めは難しい。ネットが登場しても相変わらず芸術を目指す若者は生活が困難だ。そこに目をつける人がいて、作品を公募して賞を与えようという催しがある。
9月7日に家内と
「山口蓬春展」を見に大阪に出た時、中之島近くのとある場所で今日書く入場無料の展覧会のチラシを見つけ、早速その足で出かけた。会場は心斎橋大丸で、午後5時20分頃に着いた。作品を見始めると、展示室のひとつのホールの奧で5時半からの「アワード発表と表彰式」が始まった。大勢の出品者がその様子を見ていて、筆者は人の隙間から作品を見たが、その部屋の作品は半分以上は見られず、隣りのもっと大きな部屋に移って展示を見た。今回の出品者は90名弱で、そのうち10数人の作品の図版がチラシ裏表にデザインされている。この公募展がいつから開催されているのかは知らない。グランプリは30万円の賞金で、次年度は招待出品出来る。次点の奨励賞は5万円が3人だ。5万では制作のわずかな足しにしかならない作家がほとんどだろうが、ないよりましだ。また筆者も何度も経験があるが、受賞気分はいいもので、多くの中から選ばれたことは励みになる。今回の審査委員長は
絹谷幸二で、審査委員に兵庫県立美術館の蓑豊、ドミニク・ルトランジェという画家、それに会社社長の田崎友紀子が名を連ねている。絹谷の画風に近い作がグランプリを獲得しやすい気がするが、去年のグランプリ作品は大きな男の顔を描いた作品の一対で、全く絹谷風だ。本展の面白い点は「企業・ギャラリー賞」があることだ。「関西・大阪21世紀協会」や「MBS」「FM802」「ホルベイン」、「駐大阪韓国文化院」など、有名どころが混じる22企業のロゴがチラシ裏面に並び、「それぞれの企業が独自の視点で選出します」とある。これだけの企業数であるのに賞金30万円はあまりに少ないが、大丸に会場費を支払うためでもあるだろう。チラシ表面には、後援として「関西経済連合会」「大阪商工会議所」など、また協賛は「サントリー」「DAIKIN」「がんこ」の会社名がある。さらに、「ふるさと寄附金制度の助成を受けています」ともあって、やはり30万円では1桁少なく、夷顔になれない気がするが、それだけ関西では美術に金を出さない。これまで何度も書いたが、中之島に土地を確保してまだ近代美術館を造らない。バブル期からいったい何年待たせる気か。だいたい市長も知事も芸術のゲもわからず、口先だけは人一倍の小者で、大阪に芸術が育つはずがない。「そんなものは京都や東京に任せておけ」で、一方で吉本が国家事業に深く関与する大企業にのし上がり、大阪は醜悪の最たる都市になっている。とはいえ、「アートの殻を突き破る表現者たち 未来の才能に出会う展覧会」と銘打つ本展を開催する気概があるのはましか。同様の公募展が東京にあるのかどうか知らないが、公募展は無数にあるから、本展は斬新な作品を求めるもので、それは未熟ないし素人的な作品を求めていると言える。ならば30万円は妥当で、またその金額に見合う程度の作品しか集まらないだろう。
チラシ裏面には「公募で選ばれた様々なジャンルの新進アーティストからダイレクトに作品を購入できるアートマーケットです」とあって、作家にとっては商売に直接つながっているので、賞金は低くてもいいという、主催者側の考えでもあるだろう。それに、応募作品のすべてを本展が展示しているのであれば会場費は会期の3日間で済むが、前述のように本展の作品が授賞式前にチラシに印刷されているので、多くの応募から選んでいるのであろう。全応募全作品を並べて本展用の作品を選り分けるには別の大会場が必要で、そのための経費がかかる。だが、応募するのに出品料が必要であれば、それで経費の幾分かは賄える。さて、授賞式が始まる頃、ホールの最も後方で、去年お笑い芸人にTV取材され、その芸人の似顔絵を描いていた大阪芸大の画家がいた。正面向きの髑髏の顔ばかり油彩でカラフルかつ漫画的に描く小柄で長髪の男性で、髑髏の絵で埋め尽くしたギターも出品していた。彼に訊くとそのギターは捨てられていたものとのことだ。骸骨と言えばメキシコのポサダだが、彼は知らないかもしれない。ならばロック・バンドのグレイトフル・デッドだが、それも知っているかどうか。いずれにしろ、髑髏は珍しくない画題だ。「TVで見て顔を知っている」と彼に言おうとしながらそのままになったが、チラシ裏面の名簿を見ながら、名前を憶えておらず、該当者がわからない。芸能人的雰囲気もあるので、同じ金太郎飴的画風でもう数年頑張れば、もっと知られる存在になれるのではないか。彼のように、何事もワンパターンであるほうが覚えてもらいやすいが、一発芸の芸人の末路の例は無数にあるので、人々の期待に添いながらそれを見事に裏切る才能と計画性を持たねばならず、そういう人でなければ芸能でも芸術でも長らく活動は出来ない。髑髏の彼の展示から数メートル舞台寄りにイラストを展示している若い女性がいた。30歳前後と思うが、神戸に住むと言う。
satomiという名前で出品していて、ツイッターで画風がわかる。自分のイラストをパソコンでプリントしたグッズも販売していて、ノーマン・ロックウェルが好きだと言っていた。もちろん彼ほどの写実の腕前はなく、日本のアニメの影響を強く受けているのは世代からして当然だが、イラストレーターは絵の好きな人なら誰でもなれるから、有名になるにはよほどの個性が必要だ。そういう才能を本展は求めているはずだが、ネットで自分で発信してそれなりの客を持つことが出来るので、実物を見てもらえる本展に関心を示さない作家は少なくないだろう。だが、ネット画像で本質がわかってしまえるものは価値は低い。本物に接して圧倒的な迫力を感じる作品が生き残って行く。なぜなら人間は物でもあるからで、ネット上の画像はその影に過ぎない。一方、こうした文章は本と同じで、そう思うからこそ筆者は書き続けている。
授賞式の最後尾にいたsatomiさんと話が弾み、筆者はただのイラストでは競争相手が多くて存在が目立たないので、銅版画でも学べばどうかと意見した。銅版画家はイラストレーターより各段に地位が高く、芸術と見てもらえる。それは、絵を描くことは基本であって、それとは別の技術を大いに必要とするからだ。その技術習得はどこかの教室で学ぶことは出来る。1枚の銅版画を製作する間にイラストなら100枚は優に描けるが、その代わりに100枚のイラストが太刀打ち出来ない貫禄を持ち得る。面倒臭いことをわざわざする気になれないと考える人は、結局何事においても面倒臭く考える。ただし、satomⅰさんが自分のイラストを印刷したグッズで今後も儲けたいと思っているのであれば、銅版画は向かない。「アート」はいかにも軽い言葉で、その点で「イラスト」と釣り合っている。銅版画は純粋芸術であり、あるイラストを歓迎する千人にひとり程度しかその味わいを知らない。そのため、銅版画家は本展を見向きもしないだろうが、あらゆる技法が開発されてしまっている銅版画において、まだ何らかの面白い着想があるはずで、それを目指すことは「アートの殻を突き破る」であって、本展でなくても誰かが注目する。さて、授賞式の様子を筆者は皆目見ていなかった、あるいは見えなかったので絹谷の顔を見ることが出来なかったが、会場を一巡した後、グランプリを受賞した作品を見た。それは白い大きな筒上に黒い虫のようなものがたくさん動いている「動く彫刻」としてよいものであった。磁石の効果で動かしているのだと思うが、その何となく気味悪く、また楽しい作品が、どのように今後展開可能か、あるいは作者は全く違う作品を来年出品するのかは注目していいだろう。展示部屋は大小ふたつであったと思うが、通路際にも置かれていた。それぞれに個性があって、印象に強い作品がいくつかあった。その中で韓国の女性の申善美さんのイラストは絵本用のもので、また韓国の民族衣装を着た男女を描くその作は、達者な写実と個性的な渋い色合いで、会場では場違いな高い完成度があった。彼女がいたのかどうかだが、作品の前で若い女性が3、4人談笑していて、質問する機会がなかった。30代とすれば、現在すでに大成しているその技術がどう大輪の花を咲かせるかと思う。また彼女のイラストを見て筆者が真っ先に思い浮かべたのはポール・ジャクレーの木版画で、ポールの一連の作には朝鮮の人物を画題にしたものがいくつかある。筆者はそのうちの1枚でとてもほしいものがあるが、14,5万円は最低するし、まためったに市場に出て来ない。ポールは原画を描いただけで、版の彫りと摺りは日本の職人に任せた。韓国ではそのような伝統がなく、職人はいないが、申さんも日本の浮世絵職人に委ねて木版画を製作すれば、国際的に有名になれると思う。