蓮の鉢植えをたまに見かける。大きな丸い葉が鉢を覆い、直立した細い茎の先に白い大きな蓮の花が咲く。鉢の中の暗い水中にはメダカがいて、花が咲かない頃はメダカを見つめる楽しみがある。

宇治に住む筆者の下の妹宅にはそんな蓮の鉢が3,4つある。数年前の夏に訪れた時、花がちょうど咲いていて、青い蜂巣をふたつ切り取ってもらって持ち帰った。それを乾燥させたものをまだ所有するが、ひとつは中の種子が全部取り出せたのに、もうひとつは穴が縮小し、取り出せない。それはそれで面白い眺めだ。鉢植えで蓮の花をわが家の裏庭でも育てることが出来るだろうか。まず鉢を買い、次に育てるための泥を買い、最後に蓮の苗を買うといった手間を順次かける気がとても起こらず、たまにどこかで眺めるだけで満足する。そう言えば奈良県立博物館は、チケットをもぎってもらった後、2階の会場に入るまでの階段と広い踊り場に10鉢程度の蓮の花が育てられている。同館は仏教美術の展覧会が専門と言っていいので、蓮の花をということになっているのだろう。室内でも育つのはガラス越しに光がよく入るからだ。蓮の季節は終わって今は菊だ。先ほど家内と嵯峨のスーパーを3軒梯子した時、めったに歩かない道沿いに見事な菊の鉢植えを見かけた。玄関扉の前に10鉢ほど、大輪の白と黄色の菊が見事に咲いていて、家内としばし立ち止まって眺めた。白は花弁が針のように細く、先端がくるりと曲がっている品種で、植物図鑑を見ればその品種がわかるが、面倒くさいので立ち上がって本を取らずに書き進む。そういう立派な菊を育てるには5,6年は学ぶ必要があるだろう。下の妹の義父は園芸好きで、四半世紀前に亡くなったが、その2,3年前に会った時、菊を育てたいと話していた。その話の帰り、庭に真っ青に咲いていたアジサイの花を数本切ってもらって持ち帰った。簡単に挿し木で育てられると言われたからだ。園芸本を頼りにやってみると、全くそのとおりで、翌年には同じ青い花が鉢の中で咲いた。その翌年か2年後に直植えすると、ますます勢いづき、今では毎年100個近い花を咲かせる。下の妹の義父は、大輪の菊花をひとつだけてっぺんに咲かせるには、品種によって最も恰好よく見える葉の枚数が決まっていて、それ以上は増えないように若葉を摘むと言った。品評会に出す場合にはそういう伝統を守る必要があるのだろう。そんなことを知ってしまうととても筆者は菊を育てられない。そう思う人が大部分でも、いつもどこかに立派な菊を育てる人がいて、玄関脇に静かに堂々と花が咲く。その菊の花の周辺には晩秋の冷たい空気が漂っていて、秋に菊が咲くことは、その花を眺める者の心まで清らかにする気がする。それででもないが、昨日は嵯峨に買い物に出かける昼下がり、あらかた整理が終わった部屋の中で、ステレオのスピーカーの配置を少し変え、一度も聴いたことのないLPをかけた。

ほとんど聴かないLPは隣家に移したが、その作業の間に聴かねばと思いつつそのままになっていたLPを20枚ほど手元に置いた。そのうちの4,5枚は中袋のみでジャケットがない。10年ほど前、ある中古レコード店の前に無料で置かれていて。盤を見るとほとんど新品で、持ち帰った。ジャケットがネズミにかじられていたか、雨水に濡れていたので売り物にならなかったのだろう。その中の1枚を新しくなった気がする部屋で早速聴こうとし、真っ先に目についたシューベルトの盤をターンテーブルに載せた。針音は皆無で、CDよりも迫力のある音だ。アルフレート・ブレンデルのシューベルトの「即興曲」で、これはD.899とD.935が有名だが、この2曲がセットになっているアルバムが多く、昨日聴いたLPもそれらが片面ずつを占めている。どちらも4曲ずつで構成され、全部聴くと70分ほどでLP1枚にぎりぎり収まる。筆者はCDではルドルフ・ブフビンダーのものを持っているが、昔これを最初に聴いた時は真冬で、心の隅々まで染み渡る滋味といったものを感じた。それで昨日もブレンデルの演奏を聴き始めた途端、ストゥールに座った筆者は背筋を伸ばしている自分に気づいた。そのような態度にさせる音楽はきわめて珍しく、またクラシック音楽以外にはない。これを書きながら今も「即興曲」D.899を聴いているが、先ほど家内が上がって来て、「この曲、昔弾いていた。楽譜もあるよ」と言った。だが、家内の両手の指先は長年の家事によって「まむし」状に曲がり、また力が入らないので、もうピアノの演奏は無理だろう。それはさておき、部屋の片づけをしている間、棄ててしまうには惜しいと思っているカラー・コピーが1枚あって、今も手元にある。ほとんど300年前の掛軸をコンビニでコピーしたもので、「和漢朗詠集」の「菊」の部から漢詩6句と和歌が2首書かれている。最初は「菊」の部に属さない「わがやどのきくのしらつゆけふごとにいくよたまりてふちとなるらん」だ。次が「霜蓬老鬢三分白露菊新花一半黄」で、髪が三割ほど白くなり、露をおびて新たに咲き出した菊の半分が黄色という意味だが、8割白髪の筆者は髪を黄色に染める勇気はないので、せめて黄色のベレー帽をかぶって明後日は梅田に出かけようか。それはそうと、4,5日前に裏庭の白薔薇の鉢植えが3つの蕾をつけているのを見かけた。今日の3枚の写真は今日撮った。日差しの具合で花全体が真っ白に見えて陰影に乏しいが、これはこれで何となく神々しい。2か月ぶり、また急に寒くなり始めた頃に花を咲かせ、しかも3つの花とは健気だ。筆者には大輪の白菊よりも、この野放図で小さい白薔薇が似合う。それにこの白薔薇は毎朝露を帯びて、「わが宿の薔薇の白露今日ごとに幾代溜まりて淵となるらん」と、前述の和歌のもじりを連想させる。