氷原がどこまでも広がっているイメージがあるフィンランドだが、本展では水辺の樹木と青空を撮った日本の初冬の景色と変わらない穏やかな自然の写真が、本展の最初の展示室にあった陶芸の歴史を説明するパネルに何枚か使われた。

北に行くほど氷は多いはずだが、気になって気温を調べてみると、夏場の3か月は最も高い頃で摂氏15度ほどで、一年の半分以上は零下だ。北海道の最北と同じと思えばいいのだろうか。とはいえ、筆者は北海道には行ったことがないのでわからない。今度はフィンランドの人口が気になって調べると、550万人と、大阪府の人口の3分の2程度だ。たぶんそのくらいだろうと想像したが、日本の1億人と比べてあまりにも少ないとはいえ、誰しも1億人や550万人を一度に見ることはなく、本当に日本に1億人もいるのかと思う。午後7時になると、観光名所の嵐山でもほとんど人影はないからで、日中でも松尾に向かって歩くと、出会う人の数は数人という日もあり、日本の人口が550万人でもそうかと思ってしまう。550万人でもみんなが幸福を感じているのであれば、それはよい国で、日本でイメージするフィンランドはとても穏やかでまた清潔感がある。そうでも言えないことはアキ・カウリスマキの映画からわかるが、筆者はここ10数年は彼の映画を見ていない。それはさておき、彼は小津安二郎を敬愛していて、フィンランドと日本は相性がいいように思うが、フィンランド人が日本をどう思っているかだ。これがよくわからない。せっかくの本展が開催されたからには、同じ時期に大阪の百貨店でフィンランド・フェアがあってよかったのに、持って来て販売するものがあまりないのか、そんな催しがあったことは聞かない。さて、筆者がフィンランドを最初に強く意識したのは、何と言ってもシベリウスの音楽で、彼の曲「フィンランディア」がロシアの圧政に反旗を翻して独立運動が湧き起こっていた時に書かれたことは、フィンランドという国が国家の体をなしたのはまだ百年少々であったことが本展からわかる。本展の最初の展示室の説明パネルから引用する。「フィンランドの産業革命は他のヨーロッパ諸国よりもやや遅く、ギルドが解散した1868年以降に進んだといわれる。1809年から1917年までの、ロシア帝国のフィンランド大公国としての政治的位置づけにより、フィンランドは巨大なロシア経済圏に組み込まれていた。アラビア製陶所も……当初はロシアを主な市場としてスウェーデンの親会社のデザインを踏襲した陶磁器を生産していた。一方で19世紀末には、ロシアから独立を目指す機運とも重なり、フィンランドの文化的アイデンティティを模索する動きも見られる。これはヨーロッパに広く影響を与えたアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けたものであり、フィンランドでも『ステューディオ』誌などを通じて同時代的に紹介されていた。

フィンランドのもので最も日本でしられるのはサウナだろう。嵐山の「風風の湯」のサウナは6,7人しか入れないが、嵯峨野にある「天山の湯」は40人ほどは入れるだろう。フィンランドでも事情は同じようなものと思うが、個人宅にあるものとなればせいぜい数人向きでなければ効率が悪い。それでサウナは狭いという印象が強いが、みんな裸になって隣り合うので、社交の場になりやすい。そのことが日本の「茶の湯」の茶室に近いことを思わせる。それが理由ではないだろうが、本展ではマリメッコの布地を内部と外部に使った特性の茶室がデザインされ、そして組み立てられた。実際にその内部で茶が点てられたのかどうかは知らないが、外から内部を覗くことは出来た。これは東洋陶磁美術館の館長が発案し、今日の3枚目の縦長写真の一番上に示す平面の略図を描いた。これが去年8月のことで、茶室建築家が今年1月に、同写真の上から2番目の数値を書き込んだ略図を作成した。その翌月、同写真の下2枚は上が同館が最初に提示した構想、下がマリメッコによる回答で、天井の色が大きく異なり、マリメッコは白を希望した。採用されたのは今日の4枚目の写真で、天井は記されていないが、白にならなかったのは今日の2枚目の写真からわかる。黒地に赤い格子線が入ったものが使われているが、これもマリメッコの布地だろう。マリメッコの目立つ布地を何種類も使うと壁紙の見本を貼ったショー・ルームに見え、茶室は冗談だろうという気がするが、冗談でいいので日本の伝統的な茶室に囚われないものをと考えたのであろう。最初に円形を思い描いたところからしてそうで、円は実際的でないので八角形になったが、マリメッコの代表的商品を使うとして、何をどこにというのは日本側がリードした。マリメッコの回答案は内部に「湿原」を用い、かなり渋めに見え、日本の茶室の本質を理解しているように感じられるが、日本の提案は同じ「湿原」を使いながら、表面に和紙を貼って暗さを和らげた。今日の最初の写真は外側に「ヒヤシンス」を貼っている様子がよくわかる。また黒字に大きな白丸が縦横に整然と並ぶには「石」と題する布地で、客が待つ部屋の壁には「ウニッコ」が使われる。「湿原」は文様が比較的小さく、また日本的に見えるので、茶室に使ってもあまり違和感がない。床壁には掛軸が下がっているが、この表装裂にマリメッコを使えばなお徹底してよかった。この茶室は日本らしさを優先しつつマリメッコをどうにか使ってみるという立場が優勢と考えるか、あるいはマリメッコにも日本のわびやさびに近い感性の作があると思うかで評価が分かれるが、昨日書いたように、本展のために制作された新作3点のうち、「光の輪」と「苔寺」は、特に後者はとても渋く、この茶室では「湿原」に代わってそのまま使える。前者は色合いを少し渋くすれば同様に内部に使用可能だ。

以前書いたことがあるが、ウィリアム・モリスの壁紙を純日本調の家の壁面に存分に使っている若い女性が紹介されていた。美意識は人さまざまで、好きなものを好きなように使う自由があるし、突飛なような組み合わせから新しい何かが生まれる可能性はある。ただし、その時に筆者が書いたのは、いくらモリスの壁紙が芸術的であっても、今は今の優れたデザインがあり、それを積極的に使おうとする考えのほうが独創的ではないかということだ。すでに価値の定まったものを使うことは冒険心が足りない。またその定まっている価値に寄りかかっている見苦しさがある。そのことに照らすとマリメッコの布地を茶室に使うことは、本来用の美として創造された布地であるから、その点でモリスの壁紙を使うことと大同小異で、そう驚くほどのことではない。また想像したとおりの仕上がりで、茶室であることとマリメッコの自己主張がぶつかり合い、この部屋の中で茶を飲むとマリメッコ談義に花が咲くだろう。いわばただそれだけのことで、この茶室は恒常的にどこかで使用されるものではない。日本の茶室は茶道とともに完成し切っていて、身動きが取れないところがあるが、信長ならこうした突飛なデザインの茶室を歓迎したかもしれない。ただし、その場合、茶碗も独特の文様になるか、あるいは緑茶ではなく、紅茶を使ったかもしれない。ただし、そういう考えは柳宗悦が提唱したコーヒー道のように本格的なものにはならない。茶の湯において一風変わった茶碗を使う人がたまにいるが、本来の茶の湯の精神からすれば美意識からそういう発想は大いに歓迎されるべきであるのに、現実はすべて「型」が支配し、それに則ることがよしとされる。マリメッコも「型」があるが、新しい「型」を作り続けようとしていることはわかる。その「型」と新しさを併せ持つマリメッコが茶の湯と関わりを持つのであれば、茶室はその形から従来と同じものであってはならないだろう。それで円形が構想され、八角形になった。一方、茶の湯に使われる名物裂にインド更紗があった。外来のものを珍重したかつての茶人の審美眼から、マリメッコの布地を茶室に使えばどうなるかの発想はそう突飛なものではないと言える。ところで、フィンランドでは茶やコーヒーはどの程度飲まれているのだろう。緑茶を好む人はいるはずで、またそういう人の中から日本の茶の湯に関心を抱き、茶室を自宅に持とうとすることがあるかもしれない。その時、畳は日本から輸入しなければならないが、聚楽の塗り壁は無理なので、壁紙で代用するだろう。その時、マリメッコの「苔寺」を使うのはどうか。狭い空間で人が集まるサウナは、日本が好きな「〇〇道」としてのそれなりの作法があるだろう。そうであれば彼らは茶室がどのように機能するかはよく理解出来るはずで、日本とフィンランドは相性がいいのではないか。