弔いの出棺の際、故人が使っていた御飯茶碗を玄関先で叩き割る様子を何度か見たことがある。故人がこの世に未練を残さないようにあの世に旅立ってもらうための風習だが、孤独死して葬式をしてもらえない人はどうなるのだろう。

それにそういう人は現世に未練があるかもしれず、また日常的に100円ショップで買った茶碗を使っていたり、割れないプラスティックであったりすれば、茶碗割りは様にならない。それはともかく、陶芸家の場合、日常使っている茶碗は自作のものか、師匠の作である場合は、残された人はその茶碗を割ることは忍びない。なので、茶碗割りの風習は改めるほうがいいと思うが、一般的に陶磁器は割ればおしまいという意識がある。それゆえ、大事に扱うのだが、いくら注意しても自然とひびが入ったりして、いつの間にか新しいものを使っている。つまり消耗品だ。そんな陶磁器は工芸としては染織より地位が上との意識を陶芸家は持っているが、陶磁器は地面に落とせば割れるのに対し、染織品はそんなことはないから、どちらが格上かではなく、日常使うものは消耗すると思っておいたほうがよい。それが理由どうか、量産商品をデザインするより、ルート・ブリュックやビルゲル・カイピアイネンのように芸術作品を作りたいと思う人があるが、彼らは後述するアラビア製陶会社に半世紀勤務し、量産品のデザインもした。今日の最初の写真は60年代にビルゲルが形と上絵をデザインした「バラティッシ」と呼ばれる食器セットで、現在も生産されているようだ。60年代の雰囲気が濃厚だが、ヨーロッパでは辺境のフィンランド生まれのデザインで、レトロ感覚ながら目新しくもある。それはそうと昨日はルートの顔写真を載せたが、今日は割合若い頃のビルゲルの写真を、「バラティッシュ」の食器の下に嵌め込んでおく。この写真は展示品の説明パネルにあった。他にも10数人ほどか、同様の作家たちの顔写真と簡単な経歴紹介があったが、気になった作家しか撮影しなかった。本展の名称「芸術家たちのユートピア」はアラビア製陶所に因む作家たちを指す。つまり、アラビア製陶所がユートピアということで、ここにはフィンランド国家の独立心の息吹が反映している。フィンランドでは「アラビア」への憧れが強いのかどうか知らないが、「アラビア地区」に出来た製陶所なのでこの名前がある。一方、アラビアはタイルが極度に発達した地域で、エッシャーのあの独特の版画もアラブの抽象模様のタイルから影響を受けたが、ルートやビルゲルの陶板もアラブのタイルに触発されたと考えることも出来る。もっとも、ビルゲルはモザイク壁画で有名なビザンチン美術に関心が強かった。いずれにしても陶磁と絵画を合わせ陶板は、日本の絵つけされた壺などとは世界が違う。またルートはアラビア製陶所で200種ほどの釉薬を使えたというが、絵画と同様の多色を陶板で使いたかった思いが伝わる。

話を戻して、ルートやビルゲルの肖像写真は興味深い。いい顔の代表が芸術家以外にないと筆者は思っているが、この「いい顔」は「味のある顔」の意味で、美形に限らない。むしろ美形であれば鑑賞者はそこに意識が行って、作品に対する目が曇りそうな気がする。美女は自分の美しさを自覚し、彼女が芸術を志す場合、その容貌の美を武器とする場合が多いだろうが、そこに作品に対する虚偽すなわち脆弱さが入り込む余地がある。とはいえ、美女の基準は人さまざまで、女はみんな美しさが自分にあると思っているし、またそれは客観的に正しく、男女ともに顔は味があり得る。ルートやビルゲルの写真の下に生没年が記されるが、筆者は享年が短くても長くても人生は短いと思う。そして作品が残り、海外にまで紹介されるが、日本がフィンランドと外交を結んでいなければ、また結んでいても百周年の区切りでなければ、その機会はほとんどない。あっても筆者が気づかなければ、また気づいても展覧会に出かける機会がなければ、この文章もないから、こうして書くことの縁を思う。もちろん、この文章を読む人もそうだが、縁が多いと死に際に未練が残りやすく、茶碗を割られたくらいではこの世と縁が切れないと、つまらぬことを指から出まかせに書く。さて、ビルゲルやルートがフィンランドの陶芸界を代表するならば、残りの作家について書いても仕方がないようなものだが、気づいたことをいくつか書く。まず、陶磁の本場は中国や朝鮮、日本で、フィンランドの陶芸が東アジアの陶磁器から影響を受けたのは当然だ。ただし、そういう作品よりもルートやビルケルの陶板が外国でも人気が高いだろう。それは東アジアの作の完成度を超えることは困難であると誰しも思うからだが、技術を模倣してもフィンランドの国民性は表現され、それはそれでとても面白い。たとえば今日の2枚目の写真だ。これはフリードル・ホルツァー=シャルバリという女性の作「ボウル」で、中国の蛍手と呼ばれる技法を駆使した50年代の作だ。光を当てれば透けて見える小さな半透明の隙間の並びが中国風ではなく、女性的かつ北欧的だ。彼女はこうした白磁以外に赤や緑の同様の、それこそ日本の御飯茶碗のような形の「ボウル」も作っているが、中国に学びながら時代と国の持ち味が出るところに工芸の面白さがある。それは3枚目の写真の作にも言える。イェルダ・テフレスという1871年生まれで1939年没だろうか、戦前の女性作家の染付で、自宅で成型してアラビア製陶所に持ち込んで焼いた。白地に青一色で画家の姉とよく訪れたトスカーナの風景を描き、その筆致はフォーヴの影響があるとされる。日本や中国の染付を見慣れた目からすれば、生地肌や染付の色合いが素朴だが、こうしたフィンランド陶芸界の草創期の作家が技術を試し、その蓄積のうえにその後の作家の自由な表現が可能となった。

ところで、東洋陶磁美術館は常設展の部屋を全部使って企画展をすることはなく、そのためいささか迷路状になった展示室の連なりは、企画展の場合、まとまり感に欠けがちだ。ましてや今回はマリメッコの紹介があり、同館始まって以来のごちゃごちゃ感があった。1階のチケット売り場からまず階段を上がって2階に行くが、そこで右手奧の小さな部屋を見る。今回はその部屋がフィンランド陶芸の概観に充てられ、5枚の背後に照明が入った説明パネルがあった。これら細かい文字を順に読んでも要領を得るどころか、わからないことが多々あった。その説明を補う目的か、その小部屋を出て奧の通路に向かう左手壁に写植パネルがあったが、またわからないことが生じる始末で、この時点で説明はどうでもよく、作品だけを見ればよいと思った人がほとんどであろう。その写植パネルを理解するには、各部屋で紹介される作家や工房についての写真つきの小さな文字板をよむ必要がある。これがとても多いので筆者は全部を撮影しなかった。それはともかく、各展示室に散らばっている大小さまざまな説明パネルを全部読み、頭の中で組み立て直さねば、たとえばアラビア製陶所の存在意義はわからないが、そこには他のヨーロッパ諸国との関わりにおけるフィンランド国家の歴史や、また時代によって同製陶所が変化し、そのつど作家がどういう作品を生んだかということが絡み合い、簡単にはまとめられない事情が反映している。興味深いことは、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフト運動が大きな影響を与えたことだ。それはスウェーデン人がフィンランドにもたらしたもので、フィンランドとスウェーデンの密な関係がうかがえる。ともかくスウェーデンのルイ・スパーレ(1863-1964)という伯爵で画家、デザイナーがパリの画学校時代の友人とともに、モリスの思想に影響を受け、フィンランドに「アイリス工房」を作って、ブリュッセルで絵画を学んで1883年に芸術家集団を結成し、1890年頃から陶磁器を製作していたアルフレッド・ウィリアム・フィンチ(1854-1930)を1897年秋に迎え、フィンランドらしい家具や染織、ガラス、陶磁器を製造し、1900年のパリ万博で大評判を得た。彼が作ったフィンランドの伝統的な赤土を用いたアール・ヌーヴォー様式を持った土着的で上品な製品は、スウェーデンの陶芸から離れてフィンランド独自の様式を持ち、ドイツやフランスでも販売されたが、富裕層向けの商品で、実用品として欠点が多く、普及しなかった。1902年に工房は閉鎖、陶磁器部門がフィンチに委ねられ、また同年陶芸学科が設立されたアテネウム(美術工芸中央学校)に招聘され、その後の彼は素材と向き合い、形態と装飾の融合を教育理念とし、多くの作家を育てた。また日本や中国の陶磁器を手本に作陶し、また絵画も描き、作家としても後の芸術家の指針となった。 アラビア製陶所はスウェーデンの製陶所の子会社としてヘルシンキに1873年に創業し、ロシア向けに陶磁器や衛生陶器を製造、90年代に芸術家を迎え、1900年前後に独自のデザインを生む。16年に親会社から独立、20年代から30年代にかけてヨーロッパ最大規模となり、32年にクルト・エクホルムによって美術部門設立され、作家たちは創作の自由が与えられ、37年のパリ万博で彼らの作が広く知られる。彼は同部門をミハエル・シルキン(1900-62)やデューラ=ルンドグレン(1897-1979)などの「陶彫的な表現する作家」と、フリードル・ホルツァー=シャルバリ(1905-93)、トイニ・ムオナ(1904-87)などの「個人的な陶芸家」に分け、またビルゲルとルートは絵画的な表現の作家に属する。今日の4枚目の写真は、最初の部屋に展示されていた「陶彫的」な作品で、日本で人気の高いスウェーデンのリサ・ラーソン(1931-)に影響を与えたのではないかと思わせる。また、ムオナの作品は白磁の長い角笛のような素っ気ない、また女性らしい作品だが、40年代に批評家から「真のフィンランドの自然と神秘主義」であると絶賛された。ルンドグレンは彼女について、「フォルムは刃のように鋭い草の葉、木の枝、あるいは苔むした石のようで、彼女は作品が自然の中から生えて来たように直感的に作りたいのだ」と語った。ムオナのオーガニックな感性はガラス作家のタピオ・ヴィルッカラ(1915-85)やティモ・サルバネヴァ(1928-2008)に影響を与え、今日のオーガニック・モダニズムと呼ばれる表現の基礎となる一方、彫刻的な抽象作品への道を用意した。またビルゲルやルートの彫刻的な作は、北欧の機能主義から離れるうえで、大きな影響力を持ったとされるが、「森と湖」の国フィンランドらしさを紹介するのが本展の目的だ。話を戻す。アラビア製陶所は44年に新工場が完成、最上階の9階が美術部門として使われるが、美術部門が日用品の製作に従事していないことの批判がスウェーデンのデザイナーたちから起こった。ミハエル・シルキンのライオン像に因んで「ライオンとコーヒー・カップ」と呼ばれた論争で、アラビア製陶所の作家たちは同所の誇りや名誉のためにだけ作る「ボタン・ホールの飾り花」に過ぎず、デザインや陶芸では避けるべき態度で、実用品を作ることで社会の問題と向き合うことが出来るとする考えであった。その批判を受け、45年にプロダクト・デザイン部が新設、翌年カイ・フランク(1911-89)が部門長に就任、53年に一品制作に通じる日用品の生産を目的とする応用美術部門が出来る。会社として吸収合併を繰り返しながら、美術部門は2003年に協会が設立され、組織上アラビア製陶所から独立した。本展はフィンランド陶芸の歴史を概観するもので、次回はビルゲルのまとまった展示をぜひ見たい。