組合があるのかどうか知らないが、あれば本展のような現存作家も取り上げる展覧会ではその人選に忖度が働く気がする。友禅に限らず京都の染色がそうで、組合に属しているか、伝統工芸展や日展などの公募展に出品しているか、有名な芸大を出ているかでなければ、まず日が当たらない。
在野にはろくな作家がいないという見方が大勢と言うより、ほぼすべてだ。そういうことを念頭にたとえば本展を見ると、知られざる、そして面白い備前焼の作家がいるのだろうと想像するが、長い歴史のある備前焼の現在までの流れがコンパクトに見られる便利は捨て難い。それに筆者は備前焼を系統立ててこれまで作品を見たことがなかったので、ちょうどいい展覧会であった。9月13日、MIHO MUSEUMでの内覧会に訪れ、1か月以上経つが、感想を簡単にまとめておきたい。まず、信楽の同館で開催されるのであるから、信楽焼展が期待されるが、それがなぜ備前かと言えば、本展は同館だけではなく、来年9月まで全国7会場を巡回する。皮切りが東京国立近代美術館工芸館だ。今なぜ備前かと言えば、図録によれば、2017年に日本の六古窯が日本遺産に認定されたからとある。世界遺産ではなく、日本遺産なるものがあることを今回初めて知った。ホームページにある主旨によれば、冒頭に「文化財や伝統文化を通じた地域の活性化を図るため」とる。「地域の活性化」とは、一般的な思いとしては地域で作ったものがよく売れたり、人が多く訪れたりすることを指す。そのことによって伝統文化に携わりたいと思う人が増えることも目論んでいるだろう。ちなみに六古窯は、備前のほかに瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波で、いずれも中世から現在まで焼き物が製造され続けて来ている。本展をきっかけにして、残り5か所の窯も順に展覧会が開かれればと思うが、おそらくその予定があるだろう。ただし、日本遺産に指定されている伝統工芸を毎年取り上げても百年くらいは要するだろう。また、わざわざ日本遺産なるものを作ったことは、それだけ伝統工芸が危機的な状態にあることも暗に示している。六古窯はそれぞれがその地域の人がその地域にある窯で焼き続けているという前提があるが、今は日本全国どこの土でも買えると聞くし、またそうなるとどこで焼いてもいいことになり、六古窯の定義が曖昧化する。それで最初に組合の話をしたのだが、京都の友禅でも西陣の帯でも、バブル期は盛んに外国で染めさせたり、織らせたりしたから、経済の論理によって伝統工芸の意味に本音と建て前の裏表があることを思う。外国で民芸品を買って帰国して調べると、その国とは違う国で作られたものであることがよくあったりすることと同じで、厳しく言えば伝統工芸品の偽物あるいは伝統工芸風の商品が、少しでも安価で製造出来るということを求めて世界中に散らばっている。
これはあながち悪いことばかりとも言えない。長い目で見れば、その外国で製造された民芸品がその国の伝統に影響を与え、新たな製品が生まれる可能性は大いにある。たとえば京都の伏見人形は日本中に運ばれてそれぞれの地域で同じ土と絵具で最初は模倣された。そしてその模倣ぶりの下手さ加減が個性となって、地域独自の土人形と目されるようになった。それと似たようなことが世界的規模で今は進行中と言えるのではないか。そんなことを思うと、たとえば備前の土を外国の誰かが手に入れ、それで釉薬をかけない焼き物を作れば、備前焼が国際化することになるが、もうそんなことは当たり前に行なわれているかもしれない。またそういう国際化を睨めば、備前の歴史を見ておくことは大いに必要で、これは他の古窯でも言えるし、また他の伝統文化も同じ状況にある。つまり、本展を見ながら筆者は自分が携わっている友禅のことを思ったのだが、草創期の友禅から現在までの友禅作家の作品を本展のように外観する展覧会は、筆者の知る限りはまだない。そこには現在の作家の人選をどうするかの問題がまずあるが、そこには友禅業に携わっている人からの要望が幅を利かし、組合員を優先する。一方で取り上げる作家の人選については評論家が率先するとしても、陶芸に比べて友禅では、多くの友禅作家の作品を技術と意匠面でしっかりとしかるべき人がいないと言ってよい。それで結局金儲けの思惑が裏で働き、組合や作家団体が推す人が優先されるが、実はそれは前述した日本遺産の主旨からしてもきわめて妥当でもあって、問題はないと言える。話を備前に戻すと、「友禅」と同じく、その伝統となっている「備前」という名前のお陰で名を挙げることが出来る作家がいる。備前焼であることは、いくつかの特徴を守れば後は自由と言ってよいが、そこには「反備前」の立場もあって、中世の頃の生活の必需品かつ無名性とは正反対のものが、あるいはほとんどそればかりが焼かれていると思えるほどだ。中世の壺や甕、酒器などの日常雑器の消耗品は今では工場製品の100円ショップの品物で代用されて手作り品は高価となった。そうなれば、作家モノという意識が共有され、どこにもない作風を作り手も買い手も求める。つまり、芸術品となった。これは幸福なことか。中世の備前焼は当時は誰でも買える手頃な価格で、生活に必要なものであった。そこに美がなかったかと言えば、そんなことはない。誰も強いて意識はしなかったが、割れにくい、安定している、使いやすいといったことから、安心感を無意識に持っていたであろう。それは芸術の大きな基本ではないか。柳宗悦が唱えた民藝はそういう意識であった。本展ではいかにも備前という感じの桃山時代の茶碗や徳利が「1章 源流としての備前焼」に展示されたが、まず驚いたのが、それらが今焼かれたばかりの質感つまり肌をしていたことだ。
これは釉薬をかけずに「焼き締め」で焼成されるからで、その原始的な雰囲気は重厚で滋味がある。筆者は20年ほど前にお土産で小さな花の一輪挿しに使えそうな備前焼の高さ10センチに満たない徳利をもらった。一人前にどこから見ても備前で、またそういう土産品が今も焼かれていることにいささか驚いた。無名の職人が量産しているのだろうが、備前焼の基本が全部守られていることが嬉しい。備前の特徴は「窯変」や「緋襷」、「牡丹餅」、「胡麻」、「桟切」といった窯の中で生じる器表面の景色にある。筆者がもらったものは「牡丹餅」がはっきりと出ていて、また「胡麻」の味わいもあった。「胡麻」は薪の灰が降りかかって生じるもので、緑がかったものや白っぽいものがある。そのお土産をもらってしばらく経った頃、筆者は計測機器メーカー島津に勤務する人に備前焼の徳利に酒を入れておくとおいしくなるという話をした。島津が会社として依頼されればその理由を数値で確かめようとするだろうが、彼が言ったのは、何らかのイオン効果のためだろうとのことであった。その効果がなぜ備前焼では生まれるのかとなれば、土と焼成温度のためとしか答えようがないだろう。備前焼の土は田んぼの数メートル下から採取される「田土」を中世の頃は使った。これは粘度があって造形の際に圧力をかければそれなりの形を留める。その特徴を桃山期の茶人は活かし、円筒の花入れを三方向から押して三角柱に近い造形としたが、この茶人による面白さを追求する作為が現在の備前焼の芸術の基礎となっていると言ってよい。「窯変」や「緋襷」、「牡丹餅」、「胡麻」、「桟切」は本来偶然に窯の中で生じるものだ。それを作為的に生じさせることが桃山期に始まったが、そういういわゆる「遊び心」が平安時代や鎌倉期の備前焼になかったかと言えば、筆者はあったと思う。どの作り手にもそれなりに美意識があるものだ。大きな手間をかけることは無理でも、ちょっとした工夫をすることは簡単で、またそうした試行錯誤によって「窯変」や「緋襷」、「牡丹餅」がある程度は予想どおりに生じさせることが出来たに違いない。ただし、思惑どおりの箇所に思惑どおりの大きさや色合いが得られたというものではなく、またそうであるだけにごくたまにはとても面白い景色が得られて面白がったに違いない。「窯変」などの景色は本来はないほうがよいとされたものとも思えるが、仕方なしに生じ、またそれが却って面白いと思うおおらかさが中世の人にはあったのだろう。一方で混じり気のない均一な景色を求める陶磁器があり、さらにはさまざまな模様を求める動きもあった中、窯の中で肌にどんな景色が出来るかわからないという他力本願的なところに備前焼の魅力を求めたのは、茶人たちが美の多様性をよく知り、また根源的な焼き物の美を忘れなかったからだ。
展示は3章に分けられ、1章はMIHO MUSEUM所蔵の特別出品を加えて62点、「2章 近代の陶芸家と備前焼」は44点、「3章 現代の備前焼」は61点で、1章は地味な作品がほとんどなので出品数が多いとは感じられなかった。では見どころは多様性を紹介する3章かとなると、1章の古いものを見た直後では斬新さはわかるが、備前本来の味わいが欠ける分、気分が落ち着かない。古いものの味わいがいいとはわかっていながら、同じものを作り続けることは作家には出来ないし、また出来たとしても模倣ゆえの弱さが露呈するだろう。そこで古い備前の味わいを咀嚼しつつ、作家が現代に見合う表現を目指すしかないのだが、前述したようにそれはもう民藝ではなく、芸術だ。柳宗悦がそういう備前焼をどう思うかだが、2章の最初で紹介された金重陶陽が古備前に魅せられてその写しをする一方で創作したことは、柳の民藝の影響があったと言ってよいが、柳のもとに集まった作家が民藝的である一方で独自の創作を行なったのと同じことが、金重にもあって、金重以降は古備前の写しをせずに創作のみの作家が登場して来ることが3章からわかる。だが、お土産品としての古備前風民藝品は今なお人気があるはずで、写し専門の陶芸家はいるだろう。そういう作家が本展では取り上げられないのは、写しの度合いが貧弱ということもあるが、写しを模写と捉えて価値を認めない見方が戦後は一般化したからと言ってよい。ここで誰しも思うことは、熟練工が古備前を写した作と、若手が作る「芸術品」のどちらが価値あるかという問題だ。独創であれば何でも「写し」より価値があるかと言えば、そうとは限らない。拙い技術による若手の「芸術」と知性を感じさせない職人技術のみの作品があるとして、筆者はどちらの作も手元に置きたくないが、日常使うのであれば後者のほうがよい。知性があって技術も高度でなければ芸術とはならないが、後者は長年の経験でどうにかなっても、前者は簡単には身につかない。あるいは知性は生まれながらにして具わっていると見る向きもあって、若手でも技術が巧みで迫力のある作品を作る作家はいるが、そういう一種天才肌の作家が年齢を重ねて若い頃の勢いをどう保持するか、あるいはより高めるかは別問題で、芸術の道はたやすくはない。古備前はたまたま窯の中で生じた瑕疵のような変化を楽しむ余裕があったもので、その考えは現在の備前焼に受け継がれているが、どの作家もそうとは限らず、造形の隅々まで自分が制御する「彫刻」的な作を目指す者がある。その鋭利な造形感覚は刀剣に内在するが、刀剣は用の美で、切れ味のよくないものは無意味だ。土の造形はどのような形にも作り得る塑性が根本にあって、刃物のような造形も可能だ。ただし、そういう作は離れて鑑賞するだけのもので、その点で芸術ではあるが、刃物が毀れるような脆さを抱えているように見える。
2章で取り上げられた作家は金重陶陽、藤原啓、山本陶秀、金重素山、藤原雄、伊勢﨑満で、最初のふたりは人間国宝に指定され、陶芸に少しでも関心のある人はよく知るが、今回面白かったのは前者の「青備前諫鼓鳥香炉」で、高さ24センチのいわば伏見人形のような細工物だ。轆轤を使っての茶碗や花器などはさして造形力がなくても訓練で形になると思えるが、この大きな太鼓の上に乗る一羽の雄鶏を象った香炉は、具象彫刻の分野に進んでも才能を見せたことを思わせる。またこうした細工物はすでに桃山期にあって、今回は江戸時代の「獅子置物」が1点だけ展示された。藤原は陶陽より3歳下で、絵画や音楽に興味を持ち、また文筆家として活動し、陶芸を始めたのは39歳であった。「備前焼」の人間国宝となったのは陶陽が亡くなる3年前で、後継者と目されると同時に、作風が違うことも理由であったのだろう。陶陽のように焦げ茶っぽくなく、赤い「緋襷」が目立つもっと明るい肌の器が多い。山本陶秀は藤原が亡くなった4年後に人間国宝になっているが、備前焼の団体から広告塔の役割を果たす人間国宝指定の要請があるのだろう。伝統工芸を継いで行くには、その業界全体を牽引する名人が必要だ。それには確かな技術が伝達されなければならないが、陶秀没後2年目に藤原啓の長男である藤原雄が人間国宝になっている。雄没後3年目の2004年に伊勢﨑満の弟の淳が人間国宝に指定され、現存している。金重素山は陶陽の弟で、大本教の出口王仁三郎が亡くなった後、1951年から13年間、花明山窯で作陶指導に当たったことはよく知られる。現代の備前焼を取り上げる3章では、「桃山以来の茶の湯のうつわ的な作」、「器の形を借りながら新たな造形を目指す作」、「細工物の流れを汲む作」という、大きく三つの傾向があるとされる。作家名を列挙すると、伊勢﨑淳、森陶岳、島村光、金重晃介、隠﨑隆一、金重有邦、伊勢﨑創、矢部俊一、伊勢﨑晃一郎で、金重家と伊勢﨑家が勢力を二分している感がある。図録によれば、備前の出身ではない作家もいて、また3章における現代彫刻ばりの作品を見ると、備前焼の範囲が曖昧化しているように思えるが、それは田んぼの底の土を使わずに山の土を使うこともあって、備前焼とは何かを探ることが多様化していることを反映する。先に書いたように、有名な「備前」の名のもとで制作すると、人はそこにまつわる伝統を想起しながら作品を見るから、現代の細工物が江戸以前のそれとは大きく形が異なっていても懐かしさのようなものを感じる。同じ造形が石膏やプラスティックでなされてもおそらく誰も関心しない。そこに備前焼の伝統に寄りかかる一種の気楽さが製作者にあるが、伝統とはそのような大きな器であって、備前の質感さえあれば何をどう表現してもいいようなものだ。そう思うと、風雪に耐えて今に伝わっている古備前の凄みが改めてわかる。