雰囲気を言えば南国だ。つまり、日差しがよいことが何よりの条件で、昨日投稿したわが家の貧弱な鶏頭にも言える。そう言えば息子は伏見の日当たりの悪いアパートに住んでいる。それで家賃が少し割安であった。
同じアパートには日当たりのとてもいい部屋があり、2,3年前はその部屋からベランダに出て中年女性が洗濯物を取り入れているのを見かけた。息子の部屋より毎月の家賃はたぶん1万円程度高いはずだが、1万円で日当たりのよさを買うのは日中部屋にいる人なら惜しくはないだろう。建築には日照権の問題があるが、高層マンションが近くに建って日陰の時間帯が長くなるのでは、それは文句も言いたくなるだろう。さて、先月31日は思い立って西国街道を家内と歩いた。そのことについてはいずれ投稿する予定だが、今日はそのひとつの予告編ないし番外編として、1か月ぶりにまたカンナの写真を載せる。
前回の「その4」ではもう今年はこの花を見ることがないと書いた。それが突然筆者の視界に入った。しかもこれがカンナという赤い色だ。先ほどその場所をグーグルのストリート・ヴューで確認し、画像を取り込んだ。それが今日の3枚目の写真で、去年10月の撮影だ。赤い花がたくさん咲いていて、10月初旬のはずだ。31日は花はかなり少なかった。坂道の脇、ガードレールの向こう沿いに咲いていて、毎年勝手に咲くはずだ。邪魔にならないので放置されているというのがこの花の境遇で、それは大きな葉を除去するのに骨が折れるとの理由もあるからだろう。またこの植物は大型で、それなりに広い場所を要し、都会ではあまり見かけない。鶏頭と同じく、時代遅れの花になった感もあって、それゆえに筆者は懐かしさもあってこの花に目を留める。懐かしいというのは、小学生の頃はこの花が流行していたのか、よく見かけたからだ。花はペットと同じく流行がある。これは女性の顔も同じで、時代が違えば美人とされたであろうに、今は流行らないタイプの顔がある。とはいえ、女性は化けるから、その流行に合わせた化粧をするのに余念がないし、今は美容整形も盛んで、どんな顔にもなれそうだ。どんな顔にもなれるのであれば、他にない顔を求めて行くはずで、そうなればゾンビ顔が流行する。数日前、イランの22歳の女性がゾンビ顔をネットに晒し続けたことで逮捕されたが、逮捕されずともみんな退歩する。アンジェリーナ・ジョリーの顔を模したそうだが、アンジェリーナがゾンビであることを暗に言っていて、これはアンジェリーナが怒るかもしれないが、女優顔はみなゾンビみたいなものだ。男もそうで、政治家はみなグロテスクな顔をしている。ドーミエもそれを思って当時のフランスの政治家を全員ジャガイモに模して描いた。筆者はその頃、60歳くらいかのドーミエの顔写真がとても好きで、白髪の老人であっても目が颯爽としている。
筆者はそうした有名人の立派な顔写真に感心があるが、日本ではそういう人はきわめて少ない。芸能人、政治家は全滅で、感心する顔がない。あたりまえのことで、世界は俗物が動かしている。西国街道を歩きながらそんなことを再認識し、そのことを家内と話したが、街道沿いの古い町ではなおさら古くからの人間関係が頑なに存在していることは想像に難くない。嵐山でも同じだが、一方で何代も続く住民でも醒めた目を持つ人がいて、「風風の湯」で出会う嵯峨のFさんは、地元の市会議員を「あのアホが」と人目をはばからずに言う。筆者はそれに大いに同意するが、それでも誰かが地元の要望を聞いて市政に反映させる必要がある。そこで目立ちたがり屋が登場するのだが、どの国でも同じで、結局のところ人間社会は愚かということだ。それをもっと「あかんな」と思うべきだが、そうは思わない人のほうが多い。それはさておき、かなり夜は冷え込むのに、西国街道沿いのカンナなまだ咲いている。それほどに日差しがよいのは3枚目の写真からもわかるだろう。周囲に光を遮るものがない。これは南国の雰囲気を濃厚に持つカンナにとって理想的だ。日当たりが悪いとカンナは「かなんな」と内心思い、秋の気配が訪れればすぐに自殺して枯れるか。いや、花が枯れることを自殺と言うのは花に失礼だ。そうでなくても植物はいつ刈り取られるかわからない。それに台風や土砂崩れによって大きな木が根本から倒れてしまうことを近年はよく見ることになり、植物はいつまで命が持つかと内心ひやひやしている。そんな状態では「あかんな、かなんな」と思いはしても自殺はしないはずで、カンナの鮮やかな色の花を見ていると生命が沸き立つ思いがする。それは小学生の筆者が強く記憶しているある場所にカンナが強い日差しを浴びて咲いていたからでもあるが、当時その付近ではほかに花がないほどに貧しく、そのカンナしか目に入らなかったからでもあって、筆者は幼少の記憶に支配されて今を生きていると言ってよい。この考えはきわめて植物的だ。幼少の頃を思い出さずにいろんな新しいことに大人は遭遇出来るからだが、その新しい関心の根幹を探って行くとやはり幼少時にその萌芽に出会いがあるというのもまた真実で、人間は幼少時からそう変わらない。あるいは大きく変化するが、そうなっても内実は幼少時を核にしている。他人の顔を戯画化したオノレ・ドーミエは己の顔がどう見えるのかを思ったことがあるだろうか。克明に描いた自画像はなかったように思うが、画家を描いた宝石のような油彩画はある。また筆者は彼の子どもの頃の顔に大いに関心があるが、それは彼の枯れた晩年の肖像写真のどこかに刻印されているはずだ。晩節を汚す男がいるが、老人になるといろいろと狂って来て、「あかんな」という意識がなくなるのだろうか。それを酒で酔った時と同じ頭の状態と主張すれば言い訳で、いいわけはない。