稜角がかなり狭い。つまり双方がせめぎ合って形づくる稜線の角度は刃物のようだ。昨日書いた「“みつばち”MAHYA」と「冷水“女王蜂”ひとみ」の共演とはかなり違う演奏を、二番手に登場した「パーマネント・グリーン・ピー」と「パープル・フレンヅィ」が郷に入って疲労、ではなく披露の身を呈した。

双方はザッパの作詞曲の有無の点できわめて対照的で、差異は大きい。多角的なザッパ像を知るには多角的な解釈を知るに限るから、個性の強いカヴァー・バンドがいろいろと存在するのがよい。なお、ヴォーカリストの「遠藤豆千代」は「遠藤」と「豆千代」で区切るが、「エンドウ豆は永遠」と読み替え、「パーマネント・グリーン・ピー」(以下、PGP)と英訳すると、ザッパがプロデュースしたアルバム『パーマネント・ダメイジ』や、また「グリーン」がザッパ曲「ミスター・グリーン・ジーンズ」や「リトル・グリーン・ロゼッタ」に連なる。一方、バンド名「BWANA」はスワヒリ語で、ザッパの曲「BWANA DICK」に由来するが、リーダーでギタリストの「紫狂乱」は「パープル・フレンヅィ」(以下、PF)と英訳しておくが、「DICK」(チ〇ポ)が紫色で狂乱するのは説明の必要がない。言葉遊びはさておき、次に進みたいところだが、PGPはザッパ曲の歌詞の解釈に関して独自の立場を採っている。そのことを演奏前のトークで筆者はPGPから聞いたが、ザッパの歌詞を英訳せず、聴こえる英語の歌詞から似た日本語の言葉を導き、それを元に独自の日本語の作詞を行なっている。筆者が中学生の頃、ビートルズの曲を家でかけていた時、妹は「ペニー・レイン」の「It‘s a clean machine」を「ひっつき虫ー」と歌っていたし、FMの音楽番組では同様に英語の歌詞がどのような日本語に聴こえるかの特集を何度かやっていたことがあって、ビートルズの「抱きしめたい」の「I can’t hide」が「揚羽ー」だという視聴者の意見を紹介していた。PGPの着眼もそれと同じで、歌詞を直訳、意訳して歌うのではなく、ザッパの思想を翻訳する立場だ。ザッパの歌詞を、真意どおりに日本語に訳して歌うことは不可能ではないが、原詞の細部まで盛ることは出来ない。可能となってもそれが聴き手にうまく伝わらない場合が多いはずだ。日本人の9割は英語を話せず、それで生活に全くの支障がないとされるが、9割ではなく99パーセントがそうであろう。そういう現状の日本でザッパの歌詞が理解されることはきわめて稀だ。ザッパ・ファンでも歌詞の意味を知らない人は多い。だが、英米人にザッパの歌詞が隅々までわかるかと言えば、そうではない。ここになおややこしいザッパの歌詞の問題がある。そして、ザッパ世界の大意を日本語で歌って伝達するには、ザッパの思想の根幹を把握すればよい。それは直訳、意訳に比べて介錯、いや解釈の刃物の切れ味は鋭くなる。

PGPとPFはそれぞれ別のバンドを率いて70年代後半から名古屋でライヴ活動を続けている。筆者はそのことを知りながら、また両者にちょうど1年前に面識を得ながら、両者一緒の「パーマネント・グリーン・アンド・パープル・ピー・フレンヅィ」(PGPPF)の演奏を聴いたのは今回が初めてだ。PGPの歌詞は「イカモノ」で、拒否反応を起こすザッパ・ファンがいると聞いていたが、今回のトークで筆者はPGPの目を見ながら、そこに政治家にはない純粋な人間性を垣間見た。今なおザッパはエロ・グロの権化と誤解され、その風貌もあって敬遠する音楽ファンが多いと思うが、ザッパが表現するエロもグロも、誰しも内面に抱えている。ザッパの曲のエロい歌詞の例を挙げると切りがないが、エロも真摯にやると紳士になる。グロはどうか。ダ・ヴィンチが書いたように、男女の性器はグロの権化で、人間は基本がグロだ。憲法を重視したザッパは基本を大事にした。基本が出来ていない軟弱な土台に、「どーだい! これ見よ!」と自惚れても土台強固な物は造れない。土台を強化するために、エロ、グロの次のナンセンスについて言えば、いくらタバコを食べ物と公言していたザッパでも、人を煙に巻くことはせず、歌詞はほとんど意味が通る。これは前言の英米人がわからない箇所云々と矛盾しそうだが、意味がわからない単語についてザッパは質問されれば答えた。つまり、ナンセンスを嫌い、歌詞は明確な意味を伝えるためのものと考えていた。これは曲が意味を伝えないことを補い、ザッパの思想は歌詞にこそある。そして、エロやグロがザッパの意図した最大のものではなく、流行に敏感で滑稽な人やまた政治家を風刺し、言葉によって戯画を描いた。今回PGPが歌った曲「コズミック・デブリ」は、原曲の冒頭から30数秒の女性コーラスの歌詞が「雑巾ブラザーズ」と聞こえることから着想を膨らませて、掃除する兄弟について歌うが、驚いたのは途中で「手強い汚れのアベ」が出て来ることだ。これはザッパが常にアメリカ大統領を風刺していたことを見事に日本に置き換えている。それは本当は日本の30代前半のミュージシャンがザッパに見習うべき政治風刺だが、PGP曰く「眼がかすみ、肉体の衰えを感じる」年齢になってこそ許される貫禄でもあり、この替え歌一曲のみでもPGPの価値は長らく語り続けられるだろう。政治家はその厚顔と高収入からして庶民から皮肉られてナンボの連中で、常に雑巾がけされるにふさわしいほど汚れている。そう思っている人が多いことは不幸な世の中か。だが、政治家がエロでグロの塊であれば、それをきれいにしようとする人が多いことがまともな社会だ。音楽家が蜜蜂の一刺しを首相に与えるくらい、大いに真面目でまともな行為で、それをグロと言う輩こそがグロがとぐろを巻いているSHITだ。そんな連中に嫉妬はしかとしない。

さて、舞台中央前にPGPPFが中心となって演奏したのはメドレー形式の15曲ほどで、「マイ・ギター」から始まって「雑巾兄弟」、「エキドナのアーフ」、「壺の中で眠る」と時代順を無視して続き、またレパートリーは70年代半ばまでの曲であった。時計を見ていなかったが、演奏は1時間弱と思う。他のメンバーは右端奧に金管楽器の男女3人、左右端に座と立の男女の鍵盤奏者2名、左端奧にベース、中央奧にドラムスの計9人の大所帯で、金管が3名いるとジャズっぽさが表現出来るが、そうした曲の代表として「ブレスト・レリーフ」が演奏された。またPFのギターと管楽器が目立つ曲として選ばれたのは「ブレスト・レリーフ」に続いて演奏された、アルバム『ロキシー・アンド・エルスウェア』の最大の聴きどころと言ってよい「オー・ノー」、「オレンジ州の息子」そして「モア・トラブル・エヴリ・デイ」のメドレーで、PGPが替え歌を担当した。このメドレーはPFが40年ほどは演奏し続けて来たのではないだろうか。彼は76年のザッパの京大西部講堂公演の当日、演奏が始まる前にザッパと出会ったそうだが、その感動が今なお新鮮であることは、PFが同会場でザッパが演奏したギター・ソロ曲「シップ・アホイ」を当夜カヴァーしたことからもわかる。また、PFの見せ場としては同曲の直前に「チュンガの復讐」があった。ザッパの髭ロゴ・Tシャツを着た鍵盤奏者の女性が歌う「水を黒くしよう」と続くPGPと彼女がデュエットした「踊る時は服を脱いで」は、昭和歌謡的な面白さがあった。それもザッパの、特に初期の要素で、ザッパの歌詞のある曲はもっと日本語で歌われてよい。筆者が特に面白いと思ったのは最後の曲で、アルバム『ホット・ラッツ』の「グリーン・ジーンズさんの息子」だ。これは元はアップ・テンポのギター・ソロ中心の曲で、題名から「息子」を省いた元の曲はアルバム『アンクル・ミート』にあってスローなヴォーカル曲だ。つまり、PGPPFは歌詞のないヴァージョンに替え歌を添えた。それほどにザッパのインストルメンタル曲にはメロディアスなものがあって、歌詞を添えやすく、このアイデアは筆者も昔からよく考えている。たとえば『いたち野郎』の「トオズ・オブ・ザ・ショート・フォリスト」の前半のギター・ソロ曲「アラベスク」もそうで、これに作詞して女性に歌わせたいと思っている。アンコールで演奏されたギター曲「ブラック・ナプキンズ」では、PGPと彼女がスキャットしたが、山塚アイを想起させるPGPの絶え間ない絶叫は、意表を突くアイデアながら実に曲の雰囲気に似合っていた。東京と名古屋からそれぞれせり出した上り坂がぶつかった稜角は刃物のように細く尖っていると形容するよりも、明日書く京都の「ザッパニモヲ」の上り坂を足せば、ちょうど活火山の「ビリー山」のようだと言いたい。それほどに沸いた「興奮の一夜」だ。