境界が曖昧なので不法に移民が流入するかと言えば、もともとアメリカはアングロ・サクソンは住んでおらず、境界を侵犯したのは彼らだと言える。その彼らが憲法や法律を作り、外国人の入国を著しく制限する。
これは国家としてあたりまえかと言えば、その国家の成立が元来無茶と考えることも出来る。いつの時代も力を持つ者が勝手な解釈をする。アメリカは猛獣と同じ弱肉強食の価値観を国是としていて、野蛮な国の最たるものだが、野蛮を歓迎する男や女は多い。そういう論理をかざすいわゆる社会的成功者が、弱者であるのは自己責任だとのたまう。そんな意見を吐く者の顔はひどく醜く、有名大学を出たかもしれないが、金儲けにしか関心はなく、芸術などどうでもいいと思っている。つまり、アホ面を晒している。ま、人はそれぞれ役割がある。ザッパが言っていたように、嫌われ者は自ら望んでそうなっている。さて、
10月17日に投稿した『ザッパロウィン 19』は昨夜無事に終わった。3つのバンドが登場し、最前列の左端に陣取った筆者は彼らの演奏の様子を撮影し、先ほどブログ投稿用に加工を済ませた。各バンドについての投稿は3段落、原稿9枚で、段落の間にサイズを一定にした写真を1枚使うので、写真は最大4枚だ。先ほど各バンドに5枚用意出来たので、1枚ずつあまる。それで今日は予告編的に昨夜の余韻を反芻しつつそれら計3枚の写真を使って書く。筆者は最初と各バンドが交代する合間の計3回、ステージ前でしゃべることになっていたが、何も考えずに出かけ、午後1時40分頃に着いた。そして4時半の開場まで各バンドのリハーサルを見たが、各バンドとも音の調子をミキサーと話し合いながら決める作業に大半の時間を費やし、どのバンドもまともに曲を演奏することはなかった。会場のBlueEyesはうなぎの寝床状に縦長で、中央右手にミキサー卓を設置するコーナーがある。演奏者は演奏がどう客に聴こえているかわからないので、リハーサルは会場側の専門家が欠かせない。そして今はデジタルなので、ワイヤレスの小型のタブレットを持ったミキサーがバンドと相談してどの曲のどの箇所はどの楽器の音をどの程度にするかを決める。ある曲ではベースの音を大きくすることに決まったが、本番では確かにそのように聴こえていた。また舞台に何人まで場所を確保出来るかによってバンドの人数は制限を受けるが、多いほどに各楽器の音量調節の必要性は増す。BlueEyesの出入口付近にあるスクリーンで上映されていたザッパの88年ライヴの演奏は、メンバーが多いこともあって大会場で、また表に出ない下準備の人間の多さが想像出来る。レアザニモの963さんによれば、今時のライヴハウスは4グループほどが登場し、演奏は各30分と決められているとのことで、思う存分の演奏が出来ない。昨夜の3番目に登場した「ザッパニモヲ」は1時間を超える演奏であった。
「境界」の言葉を使ったのは、ザッパの音楽の境界をどう考えるかを思うからだ。ザッパの没後に続々と発売されるアルバムはザッパが知らないものであって、厳密にはザッパのアルバムとは言えないが、ザッパの演奏であることには変わりがない。だが、ザッパが参加していない演奏も収録される。たとえばトミー・マースやルース・アンダーウッドがピアノで演奏する「ブラック・ページ」だ。これはカヴァー演奏だが、ザッパが弾いていない曲は生前のアルバムにあったし、またザッパが同じステージにいても、ザッパ以外のメンバーのソロは演奏者の裁量に任せたので、厳密にはその部分はザッパのものとは言えない。ここにはザッパの音楽は誰にも開かれている事実がある。実際ザッパは自曲が他人に演奏されることを否定しなかった。楽譜があればそれにしたがうのは当然として、演奏には巧拙がある。それは演奏者の個性が混じる問題で、また聴き手の好みによって判断されがちだ。そこにもザッパ曲を演奏することの境界は曖昧であると言える部分があるが、ザッパとて演奏にミスがなかったことはなく、またそのミスを可能な限り取り除いたものをアルバムとして発表したが、聴き手はそのアルバムを聴き慣れることによってカヴァーする際にがんじがらめになりがちだ。アルバムは唯一固定した完成曲の集まりではないことは、他のザッパのアルバムからわかるが、これはザッパが自曲を厳密に捉えながらかなりの部分を曖昧にしておきたかったからで、またそこに大きな可能性を見てもいた。それは他者によるカヴァーを認め、そこに自分の個性と演奏者の個性が混じり合いながら調和することだ。もちろんザッパ並み、あるいはザッパが共演したミュージシャンと同程度の演奏技術を基本的には必要とするが、その才能の線引き、すなわち境界も曖昧なものだ。たとえば、天才の少年がザッパ曲を完璧にカヴァーした演奏と、ザッパの享年以上の年齢を重ねたヴェテランによる演奏があるとして、前者がよいとは言い切れない。人生経験によって音楽の理解は深まるし、ザッパの歌詞を伴なう曲は特にそういう部分への理解は欠かせないからだ。それで、結局のところ、ザッパ曲のカヴァーは、ザッパ曲であることはわかっている安心感が土台にあるので、演奏者の個性の表出を楽しむものだ。そこにザッパ性以外の演奏者の解釈が混じることを嫌うザッパ・ファンはあろうが、それは前述のザッパにおける「境界」の意味からしておかしなことで、彼らはザッパ以外のメンバーがソロを担当している部分を聴かず、またアルバム『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』に収録される、ザッパの楽譜どおりに演奏したピアノ曲「AYBE SEA」を否定しなければならない。さて、リハーサルや準備が長引き、開場は15分ほど遅れた。外に出た人から20人は並んでいると報告があって、みんなそれが信じられなかった。