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●首里城炎上と文化
転じて福となればいいが、令和になった途端に災害が多い。昨日の早朝、家内がつけたTVから聞こえるニュースで沖縄の首里城が燃えていると知り、すぐに目が覚めた。



まさかと思うことが人生には何度か起こるが、後であれは予感であったかと思うことがたまにある。一昨日の30日は、ひとりで堂本印象美術館に出かけた。金閣寺が焼かれた時、印象は近くに住んでいることもあって、黒焦げの木組みだけになった金閣寺の写生に通い、それを元にして、消防署から依頼に応じた防火用のポスターを作った。その写生とポスターが2階に通じる廊下の壁面に展示されていた。京都人は特に火災には気をつけていて、市内のどこからでも見える愛宕山の火の用心の護符を台所に貼ることが多い。それはともかく、2階の大きな展示室では川端龍子の大作が確か7点展示され、その中に金閣寺が炎上する様子を想像で描いた大きな横長の掛軸があった。それを見た12時間ほど後に首里城が燃えた。火災の怖さを思い知らせる出来事で、再建するのであればあらゆる燃えにくい手段を講じるべきであろう。ところで、筆者が家内と沖縄に行ったのは78年の夏で、それ以降訪れていない。当時の首里城跡周辺はのんびりとしたたたずまいで、首里城跡のすぐそばに小さな民藝館があった。柳宗悦が沖縄に滞在した時に関係した人物が管理していたものと思うが、当時の沖縄によくあった平屋の普通の建物だ。管理人はいなかったと思うが、では無料で入ったかとなると、その気もするが、入場料を入れる箱があったかもしれない。その施設で和紙に刷った民藝調のポスターを1枚買ったので、人がいたことになるが、売店らしきものはなく、平屋の片隅でそれが数枚売られていたと記憶する。それを長年部屋に飾っていたが、風化して周囲が欠け、また破れも目立ったので、10年ほど前に剥がして巻いた。裏打ちすればまた見栄えはよくなると思いつつ、そのままにしている。その民藝館はその後どうなったかと気になり、最近グーグルのストリート・ヴューで確認したところ、別の施設になったようで、その建物も含めて周辺は鉄筋コンクリートの家屋が並び、全く別世界になっていた。40年経てば街並みがすっかり変わることはあたりまえかもしれないが、京都や大阪にはここ半世紀ほど、ほとんど変化のない地域もある。民藝館がなくなったことは、民藝が流行らなくなり、人々の関心が新しいものに移ったことを示す。大阪難波にはもっと大きな民藝館があるが、訪れる人はごく少ない。ガイドブックを頼りに訪れた那覇の国際通りを少し外れたところにあったステーキ・ハウスは、窓が船舶のように円形で、中は照明が少なく、昼間でも暗かった。中年の女性店員か店主も不機嫌そうで、ステーキは評判どおりに安かったが、硬くておいしくなかった。また他のいくつかの店で食べた料理もどれも口に合わず、沖縄人の味覚にいささか驚いた。
 80年代半ば頃か、ゴーヤがスーパーに並ぶようになり、おそるおそるそれを買って炒めて食べると、あまりの苦さにびっくりした。種子の周囲も全部混ぜて炒めたからで、その後はそれを取り除いて料理した。首里城が建設されるとのニュースに接し、またそれが出来上がったことを知って、一度見に行きたいと思いながら、TVでたまに紹介される国際通りのすっかり変わった様子にあまり魅力を感じず、また78年に訪れた際の施設はみななくなっているようで、懐かしさよりも全く未知の土地に出かけることの億劫を思った。首里城の派手な色合いは映画のセットじみてもっと色が落ち着いてからでもいいかと思っていたが、その派手な色が沖縄の青空を背景にした写真では実に映えていて、よく考えられた配色であることは確かだ。それが一夜で灰になり、一度見ておけばよかったと悔いている。復元した建物なのでまた建てればいいようなものだが、燃えた宝物は同じものが作れない。それも復元すればいいという意見もあろうが、どうして作ったかその方法がわからない工芸品がある。それに、何でも古いものがいいと思わず、新しいものをどんどん作って新しい文化を作り上げればよい。ただし、新しいと思っているものに意外と古い時代に同じようなものがあったり、もっといいものがあったりすることを人間は知っている。それで古いものをなるべく保存しておこうとするが、物はいずれ形がなくなる。そう思えば動物が持つ遺伝子はとんでもない発明で、やはり神はいるのかという気がする。遺伝子の凄さは子どもを持つことで初めてわかる。先日梅津の従姉の孫のひとりと久しぶりに顔を合わせた。数年前は寝そべってスマホ・ゲームをしていたガキであったのに、今は全くの別人で、逞しい風格を持った大学生だ。背は180センチ近く、棒高跳びをしていると言う。両親ともスポーツ系で体に恵まれたのだ。その体力と気力が溢れる青年の前では、両親の姿がかすむように思える。女性は少しでも老いを防ごうと、化粧したり、きれいな服を着たりするが、いくら努力しても20歳前後の若人の輝かしさにはかなわない。それで神は常に動物が若いままでいられるために遺伝子を作った。親が老いるとともに小さな命が成長して親になろうとする。親とは同じ存在ではなく、両方の親の遺伝子を受け継ぐが、そのアイデアも素晴らしい。努力を続けて立派と言われる大人が完成しても、その人の業績を後世に伝えるのは子どもたち以外にない。その子たちが先輩や先祖ほどに優れた業績が残せなくても、子が生まれ続ける限りは、また素晴らしい業績を作る者が必ず生まれて来る。将来の可能性を思うのであれば、次代を担う子孫がいないことには話にならない。子どもは貧しくても育つ。しかもあっと言う間に大人になる。人がいる限り、文化の営みは続く。
by uuuzen | 2019-11-01 23:59 | ●新・嵐山だより


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