負けず嫌いな性格だと言われたことはないが、自分ではそのほうだと思っている。ただし、他者との競争は好まない。自分が立てた計画を実行したいだけで、自分に負けたくないのだ。

だが、計画は山ほどあり、常にその裾野でもがいているだけで、自分に負け続けている。他者に対してはもっとそうで、負けだらけの人生を歩んでいる。生まれ落ちた時の親や年代といった環境は選べず、人生レースは最初からハンディがある。それで競争しろというのは残酷な話だ。それを幼ない頃に認識出来た筆者は、早い目に非情な世間に耐性が出来て、世間に期待しないことを人生の黎明に悟った。それはある意味では運がよかった。筆者のツイッターのプロフィール画像は小学校入学時の顔写真だ。その時と今と筆者の内面の本質は変わっていないと思うからだ。語彙は増え、社会的視野が広がったが、このブログは6歳の筆者が書いていると言ってよく、そう思ってもらえると読んだ人は立腹しないだろう。さて、12日の磔磔では、若い男性の4人組バンド「本日休演」が台風で休演せずに二番目に出た。「数えきれない」の「あずみ」さんによれば、当夜出演した3バンドはそれぞれが一世代ずつ異なるとのことで、「本日休演」が20代、「数えきれない」が30代であることを指している。世代の違いで影響を受けた音楽が異なるが、60年代以降、「軽音楽」はあらゆる実験と成果を重ね続けて来て、今はどの時代のどの音楽をも引用ないし参照可能で、そこから一歩を進める得る。これは音楽に限らず、あらゆる表現がそうだとも言え、それでAIに何事も任せようという考えが出て来る。それはともかく、金森幹夫さん曰く、「本日休演」はたぶん京大生か、そこを卒業している。その先入観で演奏を見れば、聴こえ方が違うかと言えば、京大生でも勉強のし過ぎで社会の常識がわからない馬鹿はいるし、また馬鹿にも京大生がかなわない才能を持つ者がいるから、筆者はただ音を味わうだけだが、筆者が20代の頃、大阪の設計会社に勤務をしていた時に加わっていた軽音楽クラブつまりロック・バンドのリーダー・ギタリストが筆者より10歳ほど上の京大卒で、その人が後にその会社の社長になったことを聴き、なるほどと納得したと同時に、彼がロックは趣味と公言していたことを思い出した。京大生に限らず、若者が軽音楽をやるのはだいたい趣味と割り切っている。それで聴き手も軽い気持ちで聴くが、一方で世界にはプロの音楽が無限にあり、それらとの差を思う。これは何が違うのか。村上春樹の小説を筆者は読んだことがないが、彼の小説がノーベル賞をもらえないことの根本的理由と同じものが、たとえば日本の若いミュージシャンにもある気がする。それは世界的な社会的視野の欠如と言ってよい。その「井の中の蛙」的な作品が新鮮に映る時代になっていることは、日本のアニメが端的に示しているとも思う。

その意味で世界にとって無名の日本の若いミュージシャンは大いに外国で演奏すると意外に人気者になるだろう。自由に引用可能な蓄積された音楽から、自分の好みにしたがって適当にかいつまむことは、案外日本が明治から得意として来たことの延長にあって、作曲者の社会的視野の大きさとは無関係に、音楽それ自体が世界にとって耳新しいものになると思う。さて、「本日休演」のリーダーは、舞台中央に立つギター兼ヴォーカル担当のやや小柄な眼鏡をかけた男性であろう。ギターの弾き方がかなりサディスティックで、負けず嫌いに見えた。数曲では特にトレモロ・アームを激しく動かしてギターの音色を大きく歪ませていて、チューニングが狂わないのかと思ったが、40分近い演奏の合間にチューニングをしなかった。彼から離れ過ぎるように上手に孤立していたやや大柄で真面目そうな男性はリード・ギタリストで、そのギターの音量はヴォーカリストのギターの7割程度であった。そのいささかの遠慮がいかにも彼のバンドにおける地位を表わしているように見えた。彼がいなくてもバンドは機能しそうで、彼は別のバンドを作ったほうがいいのではないか。ベースはどのバンドでも長身で寡黙風というのが相場で、「本日休演」もそうだが、ドラムスもさほど目立たず、その点ではマニュアルどおりのようで面白味に欠ける。つまり、ヴォーカリストがリーダーであることは即座にわかった。彼が全曲を作詞作曲し、また歌うとなればシンガーソングライターで、彼がひとりでギターを弾きながら歌っても目立つだろう。そうしないとすれば、大きな音を出すロックが好きという目立ちたがり屋だ。これはいいことだ。人生は早い目に目立つ者が得をする。8,9曲演奏され、どれも3,4分の長さで、ミディアム・テンポのブルース調やスローなバラード風が混じり、歌詞もだいたいはラヴ・ソングと言ってよく、ビートルズのポール風といった音楽性だ。ブルース調の曲は誰がやっても大人っぽく聞こえる。それに徹すればいくらでも深みを追求出来るが、「本日休演」はそれを目指してはいない。4,5曲目にビートルズの初期を思わせるバラード的な甘い雰囲気の曲が演奏された。その前に演奏された曲のギターがビートルズ的ではない激しさで、急に素直な若さ、青さが伝わっていささか拍子抜けしたが、仮に60年代のロックに学んでも時代性や個性が出るのはそういうところだ。言い換えればコピーに終わらず、独創性が必然的に表現される。歌がサビを伴ない、そこにギター2本、ベース、ドラムスの4人となれば、また短い曲の中間部にギター・ソロがあれば、ビートルズやその時代のロックを想起するのは的外れではないが、「本日休演」はビートルズ的なサビの作り方とは違って、サビではない箇所でもすぐにサビ的な短調にメロディが変化し、サビとそうでない箇所との区別は曖昧で全体にサビっぽい。

これは日本のポップスの大きな特徴でもあって、また売れれば何でも勝ちという価値がまかり通っているので、サビだらけの歌が今は王道だが、寿司もワサビだらけでは涙なくしては食べられず、またその涙は感動ゆえのものではないだけに、泣きながら癪に障る。ギターをサディスティックに掻き鳴らすことには鬱屈気分の発散目的が混じるだろう。そこに今後のわかり切っている人生を拒否したい思いがあるのかどうか、その意味で「本日休演」が恵まれた京大生であっても、若者にとっての共通の自我についての悩みが感じられ、ロック音楽の必要性も思う。最後のほうにドノヴァンを連想させる曲があった。そのことからも彼らが60年代の音楽を好んでいることがわかるが、たとえばポールのような明るさとはいささか違うのは、まず時代や国が違うからと言ってよく、それはそれで興味深い考察事項だ。最初のほうに演奏された曲にビートルズの「タックス・マン」を思わせるリズムのものがあった。その踊れるリズムは筆者が大いに好むが、ヴォーカルの高い声はポールのようにいいとは言い難い。ギタリストが歌もうまいことはめったにない。筆者はほれぼれする日本の若い男の歌声を聴いたことがない。それはビートルズを10代にさんざん聴き、そこでロックは英語という刷り込みが出来上がったからだろうが、近年は日本語の巧みな外国人がTVにたくさん登場し、ある声質が英語にも日本語にも変換されることを目の当たりにし、人種に関係なくあらゆる声質は存在すると思えるようになっている。そのことを前提に、「本日休演」のヴォーカルを英語に変換して想像すると、やはり上手とは言えない。では彼がギターに専念し、バンドからヴォーカルを省けばどうか。彼らはその道を進むことはなく、ポップ調のロックをやり続けると思うが、青さが抜けた頃にどのような味わいになっているだろう。60年代にあらゆる音楽の様式が登場し、ギターを舞台で燃やすとか叩き壊すことの二の舞をしても誰も驚かず、ロックの時代はその後どんどんおとなしくなった。ロックは破滅型の人間がやるものという見方がまだ残っていると思うが、それは言い換えれば全人生を賭け、早々と負ける、つまり死ぬことの恰好よさだ。絵画にはそういう才能が時々出現するが、もっとわかりやすい形であり得るのがロックだ。ところが、「破滅」の型を模倣して破滅しないことの恰好悪さはない。「太く短く」の理想とはほど遠く、「太く」だけ望んで、「短く」は御免蒙るというのがいわゆる「大人」とされる。その「醜い」大人を本能的に知っている若者が世間に反抗し、「破滅」的行為で自己表現をするが、大部分は小さな花火とも認識されずに消耗して行く。それでごく一部にもっと計画的に頭脳を使い、「死ぬことを拒否する」覚悟で創作に挑む者がいるが、その全人生を賭けた活動が恰好よく見えるのは負け戦を恐れていないからだ。