先月18日に兵庫県立美術館で山田脩二展を見た後、いつもなら立ち寄らない常設展示室で鴨居玲の展示があることに気づいた。それで早速見た。

安藤忠雄設計のこの美術館が巨大過ぎて疲れると以前に書いたが、コレクションが豊富にあってそれらを常設展示するため、また小企画展用のスペースも必要とするから、ある程度美術館が巨大になるのもやむを得ない。欧米の主要都市の美術館から比べるとまだ日本の美術館や博物館は小規模と言ってよいかもしない。コレクションは購入だけではなく、遺族から寄贈を受けることもあるし、増えることはあっても減ることはないので、作品の収蔵庫も大きい方がよい。そんな美術館側からの要求に沿って内容量が予め決まって美術館の設計がなされるはずで、そうなれば、どうしても美術館は容器としての第一機能を優先させ、それから鑑賞者が気持ちよく鑑賞出来る点が配慮される。美術が多様化し、ファンもそれに応じてさまざまであるので、どんなジャンルの美術品をもっぱら収蔵し、企画展を開催するかという問題もあるから、美術館がそうした多くの要求のどれにもそこそこ見合う規模になるのは当然であり、兵庫県という大きな自治体ともなればそれ相応の風格のものが建って当然だ。だが、それでもなお、そうした多目的と言える美術館よりも、筆者はある程度的を絞ったコレクションをしている比較的小さな美術館を訪れる方を好む。兵庫県立美術館の大展示室に入るには、階段かエレヴェーターで2階に上がるが、エレヴェーターを下りてぐるりと階段ホールの壁際を回って向こう側に行く必要があって、これにはいつも不便を感じる。しかもその間、中央のその階段に吸い込まれる危うい錯覚を覚える。通常ならエレヴェーターを下りてすぐ目の前に会場入口があるべきで、大阪の百貨店の美術館はほとんどみなそうなっている。そのため、よけいな売場を見ることなく、たとえば地下鉄の改札を出てさほど歩かなくてもすぐに会場に着く。兵庫県立美術館はその点で最悪の施設で、館内敷地に入って数百歩も歩いてようやく到着では、老人や身障者には来るなと言っているようなものだ。こんな愚痴は前にも書いたのでくどいから、さっさと進もう。
今年没後20年を迎えた鴨居玲は、小磯記念美術館でも26日まで展覧会が開催中であるし、ある画廊でも開かれている。小磯記念美術館に訪れるのはちょっとしんどいので、ここに書く感想は兵庫県立美での小企画展を見た限りにおいてのものだ。鴨居玲の作品を昔どこかでまとめて見た記憶がある。それがどこであったか思い出せない。興味が持てなかったからだ。小磯記念美術館で開催されているのは、同美術館が少なからず作品を収蔵しているからなのだろうか。鴨居は小磯良平に次いで人気のある地元作家と言ってよいが、1985年に57歳で死んだために小磯よりかははるかに作品数が少ないはずだ。80まで生きていたならば、鴨居記念美術館が神戸市内のどこかに建設されたに違いないが、小磯記念美術館で作品の展示があることは、何だ鴨居が小磯を越えられない存在であるかのようで、別の場所を使用した方がよかったのではないだろうか。さきほど過去の展覧会チラシを調べると、鴨居の没後10年展のものが出て来たが、小磯のものは鴨居のものの数倍あった。これだけでも小磯と鴨居の人気の差がわかるが、画風は全然違うし、まるで別世界に住んだ画家同士と言ってよい。これはかなり語弊があるが、小磯は昼間を感じさせ、鴨居は夜を担当している。そして、小磯の描く人物はみな魂が入っていないマネキンに見えるのに対し、鴨居の描く人物は孤独を凝視して苦悩しているように見える。ただ、今までの筆者には、鴨居の絵はただひとつのことを再現なく繰り返して描き、みな同じに見えた。しかも、自画像はレンブラントのそれとは雲泥の差があって、どこか自己愛に溺れ切った様子がうかがえ、何となく白けた気分を抱いた。これは鴨居が経済的にはあまり困ることもなく、むしろ豊かな中で活動を続け、人間の苦悩といったことを感ずるには贅沢過ぎるというやっかみ半分の気持ちが混ざっている。本当に人間の存在の悲しみのようなものを描くには、それこそ無一物の境地に至る必要があり、そうでないならば表現したものはまず多くの人の感動を誘わないと筆者はどちらかと言えばそう思っているが、そんな基準に照らし合わせると鴨居の絵は中途半端な気にさせられるものであった。だが、人間は経済的な面だけで幸不幸は言い切れない。ありあまるお金を持っていても自殺する人はあるし、極貧であってもあっけらかんとして明るく生きる人もある。そうなると、鴨居もそれなりの人間の真実を描くことの出来る立場にある。以前に見て拒否した感覚の再認識のために、この展覧の機会を逃さない手はないと思ったのだが、結論から書くと、今まで思っていた鴨居とは全然違う鴨居がそこに立ち現われていることに驚いた。
これは展示室の影響もあるかもしれない。奥深まった場所にあって、窓はない。壁面は全部黒で、絵だけがスポットライトを浴びていた。作品は当館所蔵と個人蔵が半々の全19点で、これでは鴨居のわずかな一端を知る程度に過ぎず、これで評価を云々されては鴨居もたまらないであろうが、それでもこれで充分に才能がわかると言える。画家はどの絵にも責任を持つという観点に立てば、たった1点見ただけでその画家の本質が見えることになり、19点では全体像を見たのも同じだ。それで小磯記念美術館はもう訪れなくてもよいと考えたところもある。展示室中央にソファがあって、30代の女性がひとり座ってじっくりと鴨居の空間を味わっていたが、今思い返すと、そこはまるで夢の中の出来事のように感じる。これは鴨居の絵が、月並みな言葉で表現すれば、幻想的であるからだ。鴨居と幻想とは今までに筆者の頭の中ではあまり結びつくことはなかった。だが、今回展示された1959年の「フェニックス」、1965年の「眠る男」の2点を見ると、そこには紛れもなくシュルレアリスムの感化がうかがえ、こうした作風から出発した鴨居を初めて知って、一気に関心を抱けることになった。「フェニックス」は想像上の不死鳥であるし、「眠る男」は描かれている主体は太い幹のデフォルメされた枯れ木で、その根本の傍らに眠る男が小さく添えられていて、これも実景ではなく、想像上の、ほとんど夢の中に出て来る光景と言ってよい。色調は共通し、どちらも青と黒が中心の暗い画面で、そこに派手な赤が蛍光色的に使用されている。こうした黒々とした色合いと蛍光色風の派手な色の対比の好みは生涯を通じて変わらなかったが、夢幻的なものを追い求めることもまた最期まで見られる。モチーフが人物主体になって行ったにもかかわらず、同じく夢幻性を描くというのは実際は難しいことだろう。幻想的と言えばすぐに現実に存在しない生き物や、あるいは実在するものを極端にデフォルメして描くことになるが、そうした道を鴨居は60年代半ばにさっさと捨て去ったようだ。では、眼前の人物を写生し、それを元に相変わらず幻想的なものを描くとなると、どういう方法が可能だろうか。その答えを鴨居は見事に完成した。今回の19点でよくわかったが、鴨居の素描力は小磯以上であるだろう。的確なモデリングは油彩画家ならでは必須的才能だが、それを鴨居は天才的に獲得している。そのためリアリズム絵画の方向に進めば、それなりに大家となったに違いないが、鴨居の思いはそこにはなかったようだ。確かに絵には人物の存在が圧倒的に見られ、リアリズム絵画に分類することは出来る。だが、それ以上に人物がみな内なる幻想を見つめていて、絵全体からもその幻想的空気がこぼれ出している。小磯と比べても仕方がないが、これは小磯の絵にはついぞ見られないものだ。
鴨居は金沢の生まれで、同美術工芸専門学校で学んで宮本三郎を師とした。ここでデッサンの重要性を学ぶ。金沢生まれであることも、絵が陰鬱なものを宿す理由と言えるかもしれない。1965年に画家として行きづまりを感じてブラジル、ペルー、ボリビアなどのラテン・アメリカ諸国を巡り、ヨーロッパを放浪する生活を2年近くする。1971年はスペインのマドリッドにアトリエを持ち、後にドン・キホーテの故郷であるラ・マンチャ地方に住んで村人と生活するようになる。そして1976年までマドリッドとパリに居住し、帰国後は神戸市内にアトリエを持った。鴨居の描く人物はこうした外国生活における写生をもとにしたものだが、どちらかと言えば若者より老人が圧倒的に目立つ。そして大抵は酔いつぶれた酒飲みや楽士、ピエロといった疎外された人々だ。描かれる人物に影と光の対比が強く見られるのは、スペインに長く暮らしたからでもあろう。そこには本場の油彩画に対抗しようとの強い意思も見られる気がする。人物をより際立たせるために、背景には何も描かれず、ほとんど赤や緑、青といった単色でまとめられる。そしてこの背景の色の蛍光色効果は常に塊として捉えられる人物と強烈な対比を成している。鴨居は彫刻を手がけても秀逸な作品を残したに違いない。それほど人物にはずんぐりした存在感がある。背景に事物を描かなかったのは、人物にこそ関心があったからと言えるが、一方に風景画も描いている。それは今回1点だけ展示されていた1970年の「教会」からわかる。こうした風景画もまた鴨居の独創性をあますところなく伝えている。そして通常の意味での風景では全くなく、初期のシュルレアリスムの作風がより確実なものとして蘇っていることに驚く。「教会」はキュビズムの画家が描きそうな立体の集合に見えるが、それは光の当たる壁と、影になっている部分とがはっきりと描き分けられているからだ。だが、光の源の太陽は描かれないし、暗示されてもいない。教会も背景もほとんど青と黒の2色と、わずかに赤で汚すことで描かれ、しかもたとえば樹木や付随する何か人物といった点景的添え物を何ら描いていないので、鴨居が得意とする人物画と同じように、画面に教会だけが細部を一切省略された形で孤立の存在感を示している。鴨居はほとんど記号と化して描くその直前で、あらゆる情感を飲み込んだ存在としての教会や人物を表現しており、その意味で、商業的イラストレーターでも描けそうな感じを漂わせつつも、そうしたものとはきっぱりと断絶した芸術的孤高性を宿している。鴨居が活躍した時期は抽象絵画のブームの時期と重なるが、「教会」は鴨居なりのそうした動きに対する回答のようにも思える。無駄を削ぎ落とした果てになおも残滓はあり続け、その中にこそ真実の姿があると見る鴨居ではなかったろうか。1965年の銅版画が3点出ていて、その中の1点「手を叩く老人」はそのまま反転拡大されて翌年には「蛾」という油彩画になったが、これは横向きの老人の両手の間から蛾が飛び立っている構図だ。どこか甘美さも感じられる絵だが、むしろはかなさの色合いが濃い。最後に、これは小磯記念美のチラシ裏面に印刷される絵だが、1985年、つまり鴨居の亡くなる年に描かれた「肖像」は、横向きの人物が左手に鴨居の顔をした仮面を持っていて、人物の方の顔はつるりとした卵型のマネキンになっている。鴨居はしばしば自分を道化にたとえて描いたり、また酔っぱらいの老人たちの群像と一緒にいる自分の姿を描いたが、こうした身振りは厭世的な気分に陥っての自己反省によるものなのか、あるいは自らをただの酔っぱらい老人と大差ない存在とみなしたくなる孤独感に常にさいなまれていたのか、筆者にはとても判断は出来ないが、貧しい人々に対する憐憫からではまずないはずだ。最初に書いたように、経済的に貧しいことを不幸とするような短絡的な思いを鴨居が抱いていたとは思えない。それを越えて人間に共通して内在する普遍的なはかなさや悲しみの存在を凝視していたように見える。そして、現実と夢を区別しなかったようにも思う。