駆使する言葉でどれだけ相手によい印象を与えられるか。これは誠意がどれだけこもっているかだが、誠意か悪意かを誰でも正確に判断出来ることはない。それでたとえばオレオレ詐欺に引っかかる高齢者がいる。

それは長生きして人生の甘いも辛いもよく知っているはずの人が、自分が思っている誠意の甘さを思い知らされる事件で、言葉が持つ怖さや面白さを物語る。このブログも言葉だけで、しかも実際の声は聞こえないから、読み手は誠意があるのか悪意が込められているのか、判断に苦しむ場合が多々あるだろう。もちろんライヴの感想に悪意を込めたくはなく、可能な限り誠意で書きたいと思っているが、その誠意は自分がそう思っているだけで、他者にはそう思えないかもしれない。そう捉えられて語弊だと言うと、書き手の言い逃れになりかねず、よほど言葉は発することには注意しなければならない。今月9日だったか、金森幹夫さんからメールがあって、12日の午後5時半から下京区の富小路仏光寺にある磔磔で催される「数えきれない」のライヴの誘いを受けた。接近中の台風は関東に行く様子で、小雨が降る中を出かけた。彼女らのライヴを最初に見たのは
3月8日、西院のネガポジであった。今回は7か月ぶりの二度目だ。その間「あずみ」さんがウッドベースを担当して別のメンバーと元田中辺りで演奏することを金森さんから聴いたが、それには行かなかった。今回のライヴ終了後、筆者は物販中の彼女ら3人が横並びになっていた机の前に行き、中央にいた「あずみ」さんと主に5分ほど話した。前回も彼女としばし話をし、筆者は気持ちのよい女性と感心したが、今回も彼女の笑顔に魅せられた。彼女はネガポジでの演奏について筆者が書いたブログの投稿について「きれいな文章」という表現をした。意外であり、また悪い気はしない。本心と思いたいが、彼女は京都人で、大人のリップ・サービスかもしれない。そう疑っては彼女に悪いし、彼女は思ったとおりのことを言葉に出すだろう。そう思える他の話題があった。その時の彼女は「悪い意味ではなくて」と、言葉どおりに受け取られれば困ることをわざわざ言い、筆者はその繊細さになおさら彼女に感心した。3人の印象は前回と全く同じで、ドラムスの「やすよ」さんはどこか国籍不明の陰影に富む顔とまた物腰で、筆者の顔を覚えていてくれて笑顔で挨拶を交わした。そう言えば金森さんに紹介された男性は筆者のことを「どこのお国の人ですか」と不思議そうな顔で見た。正体不明のようなところは「やすよ」さんと似ているかもしれない。「むうとん」さんは相変わらず女王らしく、今回の演奏はさらにそう感じさせる堂々さがあった。これは7か月経てば女性でもより貫禄がつくという、いささか皮肉を込めた言葉ではない。今回の演奏は筆者には前回とはとても違って聞こえたからだ。

7か月前のネガポジは彼女らにとって初めての会場であったという。今回もそうで、普段は木屋町のアーバンギルドを拠点にしている。筆者が真っ先に「あずみ」さんに言ったことは、演奏が前回と全然違うように聴こえたという音響のよさだ。だが、それだけではなく、どの楽器もよく聴き取れ、しかも「むうとん」さんのギターは淀みが皆目なく、彼女らにしては長い曲の「足音バスにのる」の中間部では彼女のギター・ソロに舌を巻いた。相変わらずの12弦ギターで、エフェクターも同じものを同じソロで使っていると思うが、彼女がギター・ソロの醍醐味をよく知っていることが嬉しい。だいたいロックのギター・ソロは男が専門で、女性の場合はどこかぎこちなさを露呈するが、「むうとん」さんのそれは練習の賜物であることをよく伝え、とても冷静でそつがなく、京都人らしい雅さや貫禄を湛えている。ロックをやる女性と言えば、一般的にはヤンキーないし軽佻浮薄のパンクの印象をもたれやすいが、「数えきれない」はそういうところが全くなく、みな落ち着いている。彼女らに個人的なことは一切質問していないのでこれは想像だが、生活が満たされているからであろう。ライヴの開催は2か月に一度くらいだろうか。それは趣味と言ってよく、また大多数のライヴハウスで演奏する者がそうだが、彼女らの演奏は安心して見られるしとやかさがある。それも京都ならではと言うと無茶かもしれないが、彼女らが京都の上の地域に住み、京都の上品な部分をよく体現していると思える。それを「お嬢さん芸」と言い切るには彼女らの曲はリズムやハーモニーは複雑に出来ていて、そこに筆者は京都の伝統工芸的なものを見る。その表現には一定以上の技術と独自の「型」の創出が欠かせず、野卑を大いに嫌う。今筆者はネガポジでの演奏についても同じことを書いたかもしれないと危惧したが、読み返さずに書き進む。彼女らの曲の歌詞はかなり乾いていて、恋愛の恨みつらみを歌わない。また聴き手に言葉で勇気を与えることを意図した感情移入もない。そういうことを赤裸々に表現することを京都人は下品で稚拙と考える。百人一首にしても恋愛の歌はきわめて少ない。彼女らに男のファンは少なくないと思うが、セックス・アピールに魅せられてのことではないだろう。それは彼女らに性的魅力がないことではない。性的な魅力を醸し出さないところに却って色気が出ることはよくあって、花魁と夜鷹とでは色気に天地の差がある。彼女らはそれなりに統一した衣装で演奏し、そこに演奏を儀式と見立てる思いが感じられる。筆者はそういう態度を好む。ライヴが演奏者にも客にも非日常の行為であれば、そこには演出すなわち心配りは欠かせない。それは客へのもてなしでもある。京都はそれを長年洗練させて来た。その末端に「数えきれない」が位置している。

今回40分弱の演奏のレパートリーは7か月前とは少し違ったが、彼女らのひとつの代表曲「数」のギターによるリフは、他のいくつかの曲にいささか似たものが登場する。それは彼女らの「型」で、意図してのことだ。そのリフはリズム・アンド・ブルースに由来するものではないだろう。彼女らの変拍子が混じる演奏にはブルースっぽさがない。また皆無とは言わないが、ロックンロールのダンス・ミュージック的なところからもかなり外れている。これは彼女らの曲に知性が豊富で、聴き手はそれを楽しむべきかと言えば、そこまで堅苦しいものではないが、いろいろと考えさせる曲はある。たとえばわずか一行と言ってよい歌詞の曲「罠」で、最初から最後まで「言葉は魔法 魔法をかけて」を繰り返す。落ちとして「虜に」という一語が歌われるが、「言葉 魔法 虜 罠」と単語を並べると、もっと長い歌詞が書けそうではないか。言葉で相手を虜にするというのは、男女ともに恋愛の序としての駆け引きだ。これを楽しむ余裕がある人は人間的魅力に富むだろう。ただし、見え透いた嘘も真摯な思いも同じ言葉で語られ、それを受けた者は相手の真意を見抜く能力が必要だが、得てして若い頃は嘘でも甘言は嬉しいもので、すぐに相手を信じてしまう。男女平等とはいえ、だいたいは男が言葉で女を口説こうとするのが相場で、またその時の女は男の言葉以外にその声の発し方、顔、態度、服装など、総合的に判断するが、罠であるとわかっていながら、虜になりたい場合は大いにあるだろう。それに男としては女から「美しい」と思われる巧妙な罠を用意することが、女には魅惑的に映り、結局のところ言葉は重要だ。鳥は雄が雌に向かってきれいな声で囀る。男にとってのそれは言葉だ。昔は男はしゃべり過ぎず、黙っていればよいと言われたが、女は男の真剣で情に満ちた言葉を囁いてもらいたいものだろう。ただし、そこにはお互い密かに惹かれているという前提は欠かせない。そういう恋愛の駆け引きはいつの時代でもあるが、LINEでは短い言葉でやり取りすることが粋とされ、今はこのブログのような長い文章は毛嫌いされる。真摯な思いで書いても紳士とは思われず、気味悪がられるのが落ちだ。ならばどうすればいいかと思うに、「数えきれない」の曲の歌詞のようにごく短くするか、現実から感じた言葉の断片を半ば無作為につなぎ合わせて意味を直接には伝えない方法があるが、後者はいわば超現実の詩であって、筆者が得意とすることではない。で、もう紙面が尽きるが、「あずみ」さんに今度会った時、「あの文章はきれいでなかったですね」と言われないことを願うが、育ちのよくない筆者は雅さや上品に欠ける。そこで真摯に工夫はしたいと思っているが、贋のラヴ・レターでも書いて文章力を高める必要がありそうだ。なるほど言葉は魔法で、魔法をかけて相手を虜にするものだ。