弟子がほしいとは思ったことはないが、筆者の知っている友禅の技術をそっくり誰かに学んでほしい気はある。それには最低1日8時間、2,3年はつきっ切りになる必要がある。

その間、その人の食い扶持をどうにかせねばならず、それを考えると無理な話だ。技術を手にしてもその後、それをどう使って収入に結びつけて行くかは本人の営業力にかかっている。また収入が多くなれば、そういう仕事に追われ、創作の時間は割けない。近所に筆者と同年齢の仏師のOさんがいる。嵯峨にいた仏師に弟子入りし、独立後は仏像を彫ることだけで食べて来た。結婚して家をかまえ、子どもをふたりもうけてのことで、師匠は責任を果たした。OさんによればTVによく出る有名な仏師は、弟子が数十人いて、彼らを雇うために大がかりな仏像を彫っている。ほぼ分業になっていて、その先生に十年学んでも一人前の仏師とはなり難いだろうとOさんは言う。それではその先生はかなり無責任だが、同じことは友禅の世界ではあたりまえにあったことだ。有名な先生に弟子入りして独立しても、芽が出ずにそのまま職を変えた人がたくさんいた。先生から得意先を紹介してもらえず、ひとりで作って営業もするという、ほとんど相反するふたつのことを日々やらねばならない。Oさんは彫ったものは全部店に納めるので、手元には作品と呼べるものは全くない。筆者は作品として作ったキモノや屏風が邪魔になるほどたくさんあって、そのことをOさんに言うと、信じられないという顔をする。つまり、家庭を持ちながら、金にならない作品づくりをする余裕がよくぞあったなとの思いだ。筆者はブログにしてもそうだが、金にならないことをこれまでやり続けて来ている。では収入はどうするか。これが自分でも不思議で、誰からも金を借りたことはなく、好きな場所に行き、好きなものを家中溢れ返るほどに大量に買い込み、好きなように毎日生きている。これは贅沢を望まないからだが、筆者の生き方は最高の贅沢に見えるだろう。とはいえ、それは体が健康であってのことだ。深刻な病になると、入院費、治療費がなくてたちまち困る。そういう想像はほとんどしなくて生きて来た。それで幸福を感じているかと言えば、そんなことは考えない。むしろ「これでは駄目だ」との忸怩たる思いがずっとある。今ザッパの曲を聴きながらこれを書いているので、ザッパのギター曲「ズート・アローズ」を思い出した。全くその言葉どおりに筆者の人生は拒食、いや違った、虚飾の魅惑に耽溺し通しであった。それで心をいい加減に入れ替えて「働かなあかん」とは思うが、「はた羅漢」のようにますます心はブロンズの彫刻にように硬く頑固になっている。せめて古い木彫りの仏像のように丸くならねばならないと思うが、世間のしょうむない事件を聞くたびに血圧が上がる。

ところがそうでもないことがあった。先月12日に御堂筋の両側の歩道際に点在する彫刻のすぐ隣りに季節の花の植え込みがあることを
「あ、カンナ、その3」の投稿に書いた。その翌日のTVでその花を納入し、世話をしている花屋が紹介された。本町にある若い夫婦が経営する店で、たまたまご主人がせっかくの彫刻が目立たないことをある人に言ったところ、その人は府の職員だったのか、その男性に彫刻の両側を植物で華々しく飾ることを一任した。普通なら入札して業者を決めると思うが、アイデアを出した者が請け負うのはよい。またそうあるべきだ。それに彫刻は本町の北と南にあって、本町に拠点があるのは打ってつけだ。最初は奧さんのアイデアであったらしいが、奧さんが花を選び、ご主人が主に植えつけるという分担が出来る。「あ、カンナ、その3」の投稿やまた先月18費の投稿に、筆者は雑菌にかけてザッキンの名を出した。ひどい駄洒落だが、本心は御堂筋に点在するせっかくの彫刻に注目してほしいからで、美術館に行かずとも、街中で彫刻の鑑賞が出来る。その御堂筋の彫刻群の中にオシップ・ザッキンのものがある。それを先月25日、奈良大学の図書館に行った帰り、難波に出て御堂筋を北に歩き、写真を撮ろうと考えた。ただし、東洋陶磁美術館で展覧会を見る予定をしていたので、歩くのはかなり急がねばならない。結果的に同館での展覧会は45分しか見られなかったが、それで充分でもあった。ともかく、近鉄難波から御堂筋の東側の歩道に出て、そこを北上すると、予想外にもすぐにザッキンの彫刻に出会った。それが今日の最初の写真で、「アコーディオンを弾く男」だ。アコーディオンの蛇腹の襞が見どころだ。この折りたたまれた内部が伸び縮みして妙音を発するが、それは重なった襞が持つ意味の隠喩にしたいところだ。いかにもザッキンらしい彫刻で、じっくりと味わうべきだが、忙しく行き交う人たちはまず立ち止まって眺めない。それにせっかくの台座両側の植え込みに目立った花はなかった。植え替えの時期であったのだろうか。筆者が先月12日に見たザッキンの彫刻はもっと北にあって、今日の最初の写真を撮った後、早足でその場所に向かった。2枚目がその彫刻「裸婦」で、表面がてかてかしているのが生々しくてよい。「アコーディオンを弾く男」と同じ彫刻家の作品であることは即座にわかるが、改めて見るとさすがに巨匠の作だけはある。彫刻の背後に白い車が停まっていて、真正面から撮るとつまらない写真になるので、斜めから撮ったが、それが却ってよかった。カンナのように堂々とした大きな花ではないが、背後に白と赤が混じったアジサイ状の花がひとつ見えている。これは「アコーディオン」の傍らにもあったかもしれない。ともかく、予定したことをこなし、東洋陶磁美術館に急いだ。そこでの話は後日するとして、もう一段落書く。

ザッキンはロシア生まれで、十代半ばでロンドンに住んだ。20歳少し前の1909年にパリに出て美術学校に通い、やがてピカソやアポリネールの影響を受けてキュビスムに染まる。日本初のザッキン展は1954年で、59年にフランスの文化大使として来日してまた展覧会を東京、大阪で開いた。67年に77歳で死んだが、筆者は73年4月に、もうとっくの昔になくなった梅田近代美術館でザッキン展を見た。当時筆者は22歳で、その時のチケットや新聞の切り抜きのスクラップが、同展から半年後に発売された時に買った画集の間から出て来た。46年前にザッキンの作品をまとめて見た後、本物が2体のみではあるが、御堂筋でいつでも見られるのは隔世の覚醒の感がある。久しぶりに画集を見て即座に思い出したのは、ゴッホの像だ。これは73年の展覧会で実物を間近に見た。キャンヴァスを背負い、眩しい太陽を見上げるよれよれの服を着たゴッホだ。これは見た瞬間涙が出る。これほどに純粋で造形的に素晴らしい彫刻は珍しい。ザッキンがゴッホを愛していたことにザッキンを愛したくなるが、画集にはもう1点、弟のテオがゴッホの肩を抱き、両者が手を握り合う痩せ細った作品が載る。向かって右がテオで、左がゴッホだ。ゴッホは弟に支えられているようだが、テオは頭をゴッホに委ねている。ふたりが合体したような胸部には四角い穴が開き、そこに両者の握り合った手首が位置し、鑑賞者の目はその組み合わされた手首に収斂する。これほどに感動的な現代彫刻はほとんどない。これが男女の像であればどうか。それはこの彫刻ではほとんどあり得ない。四角い穴をハート形にし、そこに浮かぶ重ねられた手が男女のものであれば、ペイネが描きそうなほのぼのとした友愛をどうにか示すか、あるいは日本的な心中をする男女の限界に至った心境を表現するものとなるだろう。日本ではその後ザッキンの展覧会は開催されていないと思うが、もともとザッキンのような比較的小型の彫刻をまとめて展示する機会は乏しい。絵画のような華々しさに欠けるからかもしれない。その点、ヘンリー・ムーアには巨大な彫刻や素描も多く、大型の展覧会向きだ。御堂筋に彼の横たわる抽象的な彫刻があり、中之島の国立国際美術館の内部には万博の同館の野外展示から移設された高さ4メートルほどのブロンズもある。仏像の展覧会はよくあるので、ジャコメッティだけではなく、20世紀のヨーロッパの彫刻家の作品をもっと紹介していいのではないか。ザッキンがどういう風貌をしていたのかと思っていると、73年の新聞の切り抜きにパイプをくわえて石像を彫っている姿の写真がある。これが実によい。この1点の写真のみでザッキンの人柄が伝わる。作家はそうあるべきで、雑菌まみれのような自分の顔や姿を頻繁に晒すより前に、まずは作品の提示だ。