担当者に訊いて来ますと、受付の20代の女性に言われたが、おそらく年配かそれに近い男性が姿を現わし、筆者に撮影の目的を質問するだろう。
それに許可されても、書類に書き込むことが求められたり、またネットには写真を上げるなと言われたりしそうな気がしたので、すぐに断った。とはいえ、こうして書き始めながら、やはり1枚でも撮っておいたほうがよかったと悔いている。筆者が注目した箇所の写真がネットにはないからだ。だが、同図書館の公表文書に今日筆者が書く仁王像の全体写真があったので、それを転載しておく。先月25日に奈良大学の図書館に調べものに行ったことは先日書いた。その受付の真横に仁王像つまり金剛力士像が展示されているのはさすがに奈良の大学と言うべきで、馬鹿者が入って来るのを睨んでいる雰囲気がよい。平安時代後期の3メートルほどの高さの一対で、二体は顔が似ていて、口元が閉じているので阿吽の区別がつきにくい。二体の間に設置された説明板のそばにあった解説書の1枚をもらって帰り、それを今見ると、高さは阿形が309センチ、吽形が283センチとあるので、少し背が高い右側が阿形だ。ただし、どちらも両足が欠損し、新たな白木を継いでいるので、彫られた当初の高さはわからない。白木の継ぎ足しは二体の腰の高さを揃えてのことで、その腰の高さを基準にするしかないが、実際は腰の高さが同じであったとは限らない。だが、東大寺南大門の見慣れた仁王像と違って、体躯をひねらず、全身を一本の木から削り出したことがわかり、またほとんど直立不動であるので、腰の高さを合わせるのは正しい判断と言える。名前を記さなかったが、説明板によるととある博士の所有で、同図書館に寄贈した。ところが、解説書の題名には「寄託」の文字がある。寄贈と寄託とでは所有者が違う。博士の家では設置する場所がないので、どこか適当な展示場所を探した結果、おそらく教鞭を執っていた奈良大学の図書館がふさわしいということになったのではないか。奈良国立博物館ならばもっと多くの人が見るが、そこに飾るには著しく損傷している。平安後期の仏像の価値が奈良時代や鎌倉時代のそれに比べてどうであるのかは知らないが、作者や工房が判明していて、美術品として優れたものでなければ、有名な作とはみなされないだろう。それはさておき、この仁王像を個人が所有していることに驚く。博士かその先祖はどのようにして入手したのであろう。まずそのことを思ったが、明治に入ってすぐの廃仏棄釈では、二束三文で仏像やそれに関するものは処分された。それにこの仁王像は残欠とまでは言わないが、自分の足で立つことが出来ず、両腕もない。頭部があるのは幸運で、充分鑑賞に堪える。博士が手元に置いていた時、保存にもよるが、年々風化が進み、あちこちが脆くなっていたであろう。
それを鑑賞目的で現在のように立たせるには、それ相応の修復が必要で、その費用を誰が負担したのかというかなり下司なことも思うが、博士の家ではおそらく横たえられていたものが、汚れをすっかり落とされ、足に添え木が設置されて大学の図書館に運ばれた時、博士は肩の荷を下ろした気分であったのではないか。アメリカではこの程度の「彫刻」を飾る邸宅はいくらでもあって、日本通は歴史を刻んだ仏像をほしがるだろう。それで有名でない寺から仏像が盗まれる事件がよくある。骨董趣味があっても、大きな仏像に手を出す人は珍しいだろう。掛軸や茶道具と違って場所を取る。そのため、思ったほど高額ではないかもしれない。6,7年前か、あるオークションに出た仏像が運慶か快慶のものと判明して1億円の値がついた。出品者は仏像の目利きの40代の男性で、その仏像を普通のサラリーマンが充分買える価格で購入した。ほとんど誰も真の価値に気づかず、驚くほどの安値でほしい人の手に入ることは骨董業界では珍しくない。仏像はその代表かもしれない。まさか仏像が買えるとは思わない、思いたくない人は多いだろうが、形あるものはみな売買の対象になる。だが、形あるものはそのままでは必ず劣化するので、いずれ修復が必要になる。脆くなっている木材であれば、樹脂を注入して硬くする措置を施すが、高さ3メートルのものとなると、修復のための期間や費用がどの程度なのか、これも仏像の価格以上にさっぱりわからない。劣化状態にもよるからで、修復家の言い値で決まるだろう。そういった裏事情がこの仁王像にもあって、博士の家から図書館に展示されるまでに行なわれた話し合いや修復に思いを馳せると、古いものを大切にする思いがあっての現状の仁王像であることが改めてわかり、ありがたみが増す。これは作者がわからず、また本来の姿とは著しく変わってしまっているにもかかわらず、何か尊い価値があると人々が感じるからで、民藝に近い味わいだ。筆者が撮影したいと思ったのは、筆者がとある本を閲覧するために同図書館に訪れたのにあるべき開架にそれがなく、受付でそのことを訊ね、若い女性がその本を探しに姿を消している間、手持ち無沙汰もあって仁王像をしげしげと見ている時に気づいた箇所だ。それは左の吽形像の、向かって左腰下の襞で、横から見ると風化して痩せ細り、そのために木目が著しく浮かび上がっている。仁王の着衣の丸みを帯びた表現と相まって年輪がはっきりと見え、その陰影は天然と人工のこれ以上はない幸福な共作業の痕跡だ。それを形づくるには、千年もの間、人々の可能な限りの手によって守られつつ、また風雨に晒され続ける必要がある。堂内の仏像と違って、半野外に置かれる仁王像であったので、そういう造形が生まれた。またその見事な痕跡はもうこれ以上は野外に置くと粉塵に化してしまうもので、形ある最後の段階に保存された。
木の表札に濃い墨で苗字を書くと、それが10年、20年の間に木が痩せて、墨の部分がわずかに浮き上がって来る。またその木肌は年輪の硬い部分は痩せる速度が遅いが、同図書館の仁王像はその原理で年輪が別の年輪を刻むことになった。それは枯れたことによる美で、その味わいは新しいものには絶対に望めない。となれば、何でも新しいものがいいとは限らない。古くなるほどに価値が出て来るものがあるはずで、またそういう価値観を人間は持つべきだ。そうでなければ新しいものは結局すぐに忘れ去られる。3日前に加齢は華麗ではないと書いた。これは見方による。残欠のようになった仁王像を見て、仏師は嘆き、新たに彫ると言うかもしれないが、そんな仏師も自分より千年先立つ古い仏像を見れば、それがどれほど風化していても大事にしようと思うだろう。これが人間であればどうか。誰でも90歳にもなれば、誰でも顔に深い皺が生ずる。その襞の陰影をただただ醜いものと嫌悪し、誰もが少しでも老化を防ぎ、つるりとした肌のままでいたいと思っている。その不自然さが美であるという意識は、古くなるほどに価値が減るとの考えと表裏一体だ。老化は自然であるから、植物でも動物でも子孫を残す本能を持っている。子孫が続くことは遺伝子が伝わり続けることで、永遠に若さが続き、またその若さは常に老いに向かう。老いることは肌にも心にも襞をたくさん作って行くことだ。襞は必ず陰影を伴なう。陰影のない人がいるとして、それは魅力に欠けることだ。また陰影のない人は存在せず、誰でもその人だけの魅力がある。ただし、筆者が仁王像の下半身に見た襞は、前述のように天然の木材が風化しただけのものではなく、意図した人の手が加わったものだ。自然の摂理によって誰でも皮膚の皺は老化によって生じるが、そこに思考による別の襞が加わらねば深い魅力は生じ得ないだろう。その思考は学問に限らない。自然に馴染み、それを受け入れて逞しく生きる人には誰でもそれ相応の魅力のある襞が内面に形成される。では筆者はどのように襞を思っているか。先月25日、探していた本が目の前に持って来られるまでの5分ほどの間、仁王の下半身の襞の写真を撮るとすればどの角度がいいかと一方で考えながら、内面に生じた小さな襞をどう大きくして陰影づければいいかと思いを巡らせた。その襞とは文字どおり仁王像の襞によって触発されたもので、たとえばこうして書く文章のことだが、これは他のいくつかの文章と関連し、また今後書く文章ともつながっている。他者にとってその折り重なった、あるいは絡み合った襞は筆者ということになる。それが陰影に富み、また魅力あるものかどうかは自分ではわからないが、一方ではもう老人でじたばたしても何にもならないことはよく自覚しつつ、また別のことを考えて新たな襞を作ろうとしている。「四肢もがれ 木偶の仁王の まろみよし」