厄介な階段と思うようになればもうあまり外出はしないほうがよいが、家の中にも階段がある場合が普通で、3階に自分の部屋があるわが家は、今のところは全く苦にならないが、いつまで元気で階段の上り下りが出来るのかと思う。

兵庫県立美術館は巨大で、いつも企画展を見ただけで満腹になるが、昨日取り上げた『山村コレクション展』を見た後は、目当ての村上華岳の作品を見るために1階の常設展示室に向かった。『けんび八景』という、意味不明の展示があったが、今リーフレットを広げながら、「けんび」が「県美」であることを悟った。ならば『県美八景』でいいではないか。才色兼備のつもりかもしれないが、芋けんぴの「堅干」のようにセンスが堅くて干からびている。筆者のような不真面目本位のブログなら何を書いてもいいが、税金を使った県立美術館であれば、つまり金をもらっている学芸員は真面目にわかりやすくをもっとモットーにしてほしいの干芋だと思うもっと。それはともかくもっ、「八景」は八つの小展示を意味する。それらをさらりと眺め通したが、相変わらず常設展示室はいつも人がきわめて少ない。第三景「かわいい版画」のコーナーに、女性による青インクを中心にしたメゾチントによる長崎の風景を描いた銅版画があった。それがとてもよく、しばし立ち止まって見つめた。60代の男性を載せた車椅子を押す若い女性が筆者とあまり変わらない速度で展示を見ていて、男性はかなりの美術通かと思っていたが、聞こえて来る会話からさほどでもないことがわかった。それはいいとして、奧へ奧へと進むと、村上華岳のコーナーがない。係員に訊くと2階だと言われ、厄介な階段を上ることになった。そう言えば『山村コレクション展』を見る時、エレベーターで上ったのはいつものことだが、その扉が開いてすぐ目の前に企画展示の入口がなく、コンクリート壁に囲まれた正方形の空間の壁際をぐるりと回って向こう側に行く必要がある。これは利用者を無視した設計で、世界の美術館中、最悪の設計だと断言出来る。このような建物に足腰の悪い老人はまず来ない。いつも筆者は呪いの言葉を発しながらその壁際の細い通路を2度折れて入口に向かうが、その日はあえて厄介なことを経験してさらに悪口を吐き出そうと、エレベーターの扉のすぐ目の前の下りの階段を降り、そこからまた始まる上りの階段を上った。すると壁際の道を進んだ家内と同時に企画展の入口に着いたが、エレベーターの扉前になぜピラネージの版画を彷彿とさせる無意味な迷路状の階段があるのかわからない。企画展を見たいのであれば、たくさん歩いて苦労せよと言うつもりだとすれば、安藤忠雄が90歳になった時、車椅子に載らずにその企画展の入口まで行ってみるのがよい。今からでもエレベーター前の落とし穴状の空間の一部を塞ぎ、平らなところをまっすぐに企画展の入口まで歩けるようにしたほうがよい。
とまあ、悪口をしっかりと書いた。それで2階に着くと今度は小磯良平に続いて金山平三の展示があり、これらも何度も見ているので駆け足で通り抜け、その奥へと向かった。突き当りの部屋は縦に細長い、しかも作品に当てる照明を除けばとても暗く、それが華岳の雰囲気によく似合っていた。華岳は大阪生まれで、京都絵画専門学校(現在の京都市芸)で学び、喘息が原因で50歳ほどで死んだが、京都から神戸花隈に移住し、山水画は六甲山をよく画題にした。花は牡丹、人物はキモノ姿の舞妓などの若い女性、そして仏画が有名で、あまりに有名な「裸婦図」や「日高河清姫図」に一旦魅せられると、容易にその独特の画風の魔力を振り払うことは出来ない。筆者が華岳の作品で最初に強烈に驚いたのは「夜桜之図」で、漫画的であるのに夜桜の雰囲気をこれ以上に見事に描き切った作品を他に知らず、今後もまず生まれないと思う。そうした代表作はもう収まるべき場所に収まっているので入手は不可能だが、酔って描いたかに思えるふにゃふにゃとした線による素描的な、つまり草画体の作品はそれなりに大量に描かれたはずで、金に糸目をつけなければ入手は可能だろう。兵庫県立美術館はぽつぽつと華岳の作品を収集していて、今回は40点ほどを前後期に分けて展示した。華岳のおおよその全体像を把握するには初期から晩期までも網羅する必要があるが、現在のところそれにかなり近づいているようで、20年後の没後100年展ではもっと多くを収集しているだろう。その頃に筆者はいないはずで、それもあって本展を見ておきたかった。華岳の作品は京都では国立近代美術館や何必館にあるが、いつも豊富に見られることはない。これまでに華岳の大規模展は何度かあったが、筆者はまともな分厚い図録を所有していない。またそれをあまりほしいと思わないのは、華岳の作品は前述の草画体の同工異曲が目立ち、またそのどれを取っても華岳でしかあり得ない空気が濃厚で、たくさん見なくても充分という気がしている。これは華岳に様式があり、それにしたがえば器用な人なら華岳とそっくりの絵を描けるかという疑問を提出するが、それは無理な話だろう。華岳の贋作を見たことはないが、そもそも華岳の作品が市場に出ることはきわめて稀で、たとえばネット・オークションで真作が出品されたことはたぶんなく、今後もないと思う。その希少さも華岳の深い魅力の原因になっていると思う。手が届かないものは誰でもほしいからだ。そして筆者もほしいが、まず無理だろう。金の問題もあるが、筆者には縁がないような感じが昔からしている。それで、ごくたまに華岳の作品を見るだけで充分で、この感覚は何ゆえか自分でよくわからない。畏敬というほどのものではなく、そのどろどろとした神秘性が肌に合わない。とても真似が出来ないと言い換えてもよいし、真似をしようとも思わないものでもある。

タゴールに面会し、その厳しい横顔を描いた素描があった。20代後半の作だ。そこに華岳の絵画の深い魅力の原点がある。華岳が仏教に関心を抱いていたのは入江波光を除けば他の国画創作協会の会員とは大きく違う点で、その仏教の要素が大きな特徴になっているが、戦後はそういう華岳を敬愛して仏教画を描いても、もう神秘性は底の浅いものになった気がする。一方、華岳の草体の絵はほとんど適当に描いた「へたうま」に見えるのに、そうでしかあり得ない必然性が感じられる。絵画への思いに迷いがないからだろう。上手に描こうという意識がまずない。絵画の第一義は心に訴えるものを内蔵させることで、それが草画体の作品にも表現されている。そこで「型」に対して華岳がどう思っていたかの疑問が湧くが、硬い意味での「型」ではなく、奔放な「型」、つまり即興に大部分を委ねながらの「型」はあった。それは注文作をこなすいわば売画にある程度用いられるのは仕方がない。さて、華岳作品の展示室は筆者と家内のほかは女性の係員がひとりいるだけで、部屋の縦中央の壁面は両面に写真や年譜などのパネル展示、部屋の左右両端にガラスを嵌めた展示空間があり、右側は華岳、左側が華岳と同世代の入江波光や土田麦僊などの作品が掲げられた。初めて見る資料も多く、特に画室を写した写真は興味深かった。華岳を多くの人が取り囲む部屋の中での写真もあって、それは華岳の作品の購入者が作る会で、人気画家であったことがわかる。華岳の作品を所有することでつながっている人たちというのは、ひとつの秘密結社のようで、そういう多くの愛好家を持つ画家が現在どれほどいるのかと思う。作品の魅力は人間の魅力であると言ってよく、華岳は自己宣伝に積極的でなく、無愛想でどこか仙人じみたところが却って魅力と映ったのであろう。また金や名誉を欲したようには見えず、病気がちであったためでもあるが、ほとんど他者と交わらない孤高の雰囲気が愛好家を生んだ最大の原因で、またその華岳の神通ならぬ人通力は今なお続いている。資料展示に、画室にほとんど隙間なく作品を吊るした写真があった。その中には華岳の署名と同じく独特の隷書風で書いた珍しい題目の書があって目を引いた。そうした一行書がそれなりに量産されたのかそうでないのか知らないが、絵画と同じく存在感があった。そして当然のことかもしれないが、華岳の草画体の作品は書の延長にある。書のほうが線が少ない分、人間性がより露わになるが、華岳の絵の魅力は書から端的に感じるものに似ていて、それはまた誰の書にも存在し得ないものだ。あるとすれば華岳の書で、その意味で筆者は写真にあった一行書が興味深かったのだが、以前の華岳展でそうした書が展示されたのであろうか。絵はとても入手出来ないが、書ならば比較的安価ではないか。あるいは華岳の書はきわめて数が少なく、絵と同額ほどに高価かもしれない。