冴えているのか鈍っているのか自分では気づかないが、加齢とともに華麗になるというのはほとんどあり得ない。そのことは視力からもわかる。最近筆者は視力が落ちたことをよく自覚し、本の文字が見えにくい。

照明の少なさも原因と思うが、これまで眼鏡をかけて来なかった状態がそろそろ年貢の納めだろう。何でも寿命があるものだ。長生きもほどほどがいい。老体に鞭打ってなどと思わず、適当なところで引退すればいい。芸術家もそうだ。たとえば昨日取り上げた山口蓬春のように老境になればもう作風の変化はない。会場となった難波の高島屋のホールでは絶筆となった作品が展示されていた。大きな鉢に桃を2,3個入れた様子を描いた静物画で、鉢も桃も薄墨の輪郭線のみで、未完成の清々しさと言えばいいか、鉢の模様を全く描き込まず、また未着色であることが却って面白かった。人間は未完成のまま死ぬかと言えばそうとも言えるし、完成し過ぎて死ぬ場合もあって、前者で若い場合は惜しまれ、恰好よく思われがちだ。老人になってなお未完成の状態を維持するのはもっと恰好いい。ある作品で名前が売れると同工異曲を当分はやり続けることになるのが常だ。自分の殻を破りたくても生活を思えばその勇気が湧かず、そのうち感覚が鈍って脱皮は不可能になる。それを拒否するのが真の作家だが、そんな人がどの分野にそれほどいるのだろう。さて、先月16日は兵庫県立美術館の展覧会を見るために家内と神戸に出かけた。同館の少し手前、国道2号線近くのBBプラザ・ビルの1階に小さな美術館がある。今日取り上げるのは、7月2日から始まったその開館10周年記念展で、筆者らは会期の最終日に見た。灘本唯人というイラストレーターの名前は知らなくても、その作品は誰でも一度は見たことがある。筆者がよく覚えているのは田辺聖子の小説の表紙絵だ。会場には田辺聖子の言葉があった。簡単に言えば灘本の描く女性に品があるということだ。絵は作者の性格を露わにする。絵は誰でも描ける。それだけに上品さを感じさせる絵は少ない。上品な人はごくわずかで、声が小さく、下品な人に圧倒されて存在がほとんど見えない。これは書でも文章でもそうだろう。筆者は田辺聖子の小説を読んだことがないが、大阪言葉をふんだんに使っているらしい。またそれは発音そのままでは下品に感じられるので、そうならないように工夫しているそうだ。なかなかの名言だ。それだけで彼女の小説がどういうものかが想像がつく。その大阪を全国的に下品な印象をばら撒いているのは吉本の芸人たちで、最近筆者はますます彼らの馬鹿面を見るたびに嫌悪感が湧き起こる。限られた人生の時間を下品なものに触れて過ごすことはない。だが、TVはどの放送局も彼らを使う。そして人々は知らず知らずのうちに下品があたりまえあたりまえと思い、さらにはそれが上品よりいいと勘違いする。嘆かわしいことだ。

京都にも大阪にも著しくデフォルメした似顔絵をカラフルに描いてくれる店がある。見本として描かれている芸能人たちの顔は、どれも即座に誰であるかがわかる。そのことから一般客は自分も描いてもらいたいと思うのだが、醜くて下品に描かれた似顔絵になぜ金を支払うのか。普通は実物よりもきれいに描いてやるのは画家の優しさであり、また技量だが、そのデフォルメ似顔絵はただただ醜悪で、描く人物の下品さをそれ以上に示している。そしてそういうものが流行っていて、最近の筆者の甥の結婚式ではそのデフォルメ似顔絵屋に描いてもらった夫と妻の絵が式場の出入口に飾ってあった。筆者はいきなり醜いものを見て終始気分が悪かった。ああいうものを喜び、式場に飾って招待客に診てもらおうとする考えは、芸術のゲも理解しない下品さの権化だが、彼らに言わせれば笑いを誘うには持って来いなのだ。結婚式の厳粛さも何もあったものではない。下品な連中はどっち道、生涯同類としか付き合わない。話を変える。BBプラザは西灘にあって、灘本という苗字は神戸生まれにふさわしい。そして神戸生まれとなると大阪人はだいたい上品さを想像する。「神戸マダム」という言葉あっても、大阪は「大阪のおばちゃん」が有名で、山手と下町の差、洗練の度合いの差が歴然とあると誰しも思う。本当はそうとは限らないのだが、一般的にはそういうイメージがある。そして灘本のイラストは女の顔をかなりデフォルメして描くものが大半だが、彼女らの雰囲気は神戸にとても似合っている。同じデフォルメであるのに前述の似顔絵屋とは全く違うのは、誰かに似せようとせず、無名性に徹しているからだ。その無名性はアニメの登場人物のように空疎なものになりがちだが、灘本の描く女性はそれを免れ、一方で有名人や芸能人の誰かを彷彿とさせず、またそういう有名欲を持たずにどこかで充足して生きている様子を感じさせる。それは灘本の生まれ育ちや、また生き方を反映しているだろう。会場のパネルにあった灘本の言葉「自分は女で食っている……」には、含羞が強く感じられたが、それはイラストレーターという仕事に対するものでもあったろう。同じ思いは横尾忠則も感じ、やがて画家に転身するが、そういう横尾を灘本がどのように見ていたかと思う。イラストレーターという横文字の軽い響きの新しい職業ではなく、画家という重みを目指した横尾は、そのイラストの作品も灘本よりも芸術的であったと一般になみなされているだろうが、灘本のポスターなどを見ながら、筆者は不思議に横尾のそれらを思い出せなかった。横尾を灘本はともに東京に進出した頃は交友があって、本展に際して横尾が贈った言葉が会場に掲げてあった。それは遠くの東京から展覧会の成功を祈るというもので、かつて同じ職業であった者に対する優しさが表現されていた。
中古の建物ではあるが、横尾は自分専用の美術館を用意してもらい、常に企画展が開催されている。だが、筆者はそれらをほとんど見たいとは思わない。横尾のイラストも絵画も筆者は心から楽しいと思ったことが一度もない。それはともかく、同じ西灘で山手に横尾の美術館があり、浜に近いBBプラザで没後3年目の灘本のささやかな回顧展が開催された。この差は有名度の差であり、実力の差とみなされるのは当然で、表現者にとっては残酷な現実だが、灘本が焦っても横尾の真似は出来ず、その反対も言えるのであって、それぞれが自分の仕事を尽くすだけだ。そして、横尾のように大画面の会場用の絵画に色目を使わなかった灘本は潔く、そのことが作品に表われている。それでいいではないか。会場に入ってすぐ、灘本が紫綬褒章をもらった時に多くのイラストレーターによって描かれた『灘本唯人 出世双六』という絵巻風のパネルがあった。これは灘本の一種数奇な人生のエピソードを愉快に描いたもので、彼がダンスを初め、多彩な才能を持ち、多くの人に慕われていたことがわかった。それは当然人柄のよさによるもので、またおそらく他者の悪口を言わなかったからだ。生涯独身であったと思うが、80歳まで生きたのは長命だ。女を題材にいわば簡単なイラストで紫綬褒章までもらったのであるから、大成功の人生で、彼としても思い残すことはなかったのではないか。加齢に伴う作風の変化はほとんど見受けられないと思ったが、これは製作年代順に作品が並べられず、また製作年が不明のものも多々あったからだ。洋装の洒落た若い女ばかり描いていたのではマンネリ化するとおそらく思ったのであろう、画風の大胆な実験がいろいろとあった。それに『いっすんぼうし』などの絵本の挿絵や動物を主体とした絵本を作っていて、女性の顔を題材にすることや平明な色彩は30代半ばで早川良雄の事務所で勤めた影響が大きい。また江戸時代の男女ふたりを描いたカラフルなイラストや墨絵の掛軸の1点は、女のみ描くことからの脱皮が見事に遂げられた例で、洋装の女の絵にはない濃厚な色気が漂っていた。掛軸はなぜもっと多く描かなかったのかと思うが、請われればいくらでも描いたかもしれない。筆者の知る限り、同じような雰囲気の絵を描く墨絵はなく、その達者な筆さばきは突然変異のように思えた。横尾がそういう絵を描くことは想像しにくいが、それは横尾が男女の機微に無関心か、あっても絵画に表現するものではないと思っているか、あるいはその才能がないからだ。江戸時代の男女を描く灘本のイラストに近い作品は、デフォルメを度外視すれば小村雪岱だが、両者に共通するのは日本的な上品さ、静けさだ。これは今はほとんど失われたかに見えるが、灘本の描く女が感じさせるように、目立たないが必ずどこかにいる。そういうことがわかる人が灘本の作品を忘れないだろう。