粉もんが好きな家内だが、たまに大阪に出てもお好み焼きやたこ焼きをほとんど食べたことがない。値段の割りにおいしくないとなれば、「こんなもん食べられるか」と思うのは当然で、大阪人はなかなか厳しい。

そういう大阪は食いだおれの街とされ、京都の「着だおれ」に比べて文化度が低いように思われているが、決してそうではない。たとえば大阪は立派な画家をたくさん輩出した。最近筆者は生田花朝女にさらに関心を抱き、彼女の写真を見てまた驚いている。作品から想像する姿ととても違うからだが、却って筆者は彼女に惚れた。美人ではないが、小柄で一本筋が通っていて、知的であることがありありと伝わる。彼女が生きていて筆者と同世代であれば、筆者は絶対に近づいた。だが彼女の作品を知る人は少ない。大阪市が昔から建てようとしている美術館に彼女の代表作が展示されるはずで、筆者はそのことを待っているが、いつになれば中之島の国立国際美術館の真横にその美術館が出来るのか。芸術に金を使わず、食べて終わりの「食いだおれ」ではあまりにも人間性がなく、さびしく悲しいことだ。さて今日はちょうど1か月前に家内と難波の高島屋で見た山口蓬春展について書く。京都に巡回するかと思って調べると、その様子がない。ならば出かけなければならない。筆者は平成4年に生誕百年記念の蓬春展を京都の大丸で見た。その図録も手元にある。また同じ年に切手趣味週間の記念切手の題材に蓬春の作品が選ばれ、切手好きの人は蓬春のことを知らなくてもその切手によって蓬春の代表的絵画が脳裏に刻まれている。今回の蓬春展を見る気になったのは、チケットに印刷される白熊の絵「望郷」がとてもモダンで、そのことに驚いたからだ。だが、この作品を平成4年に見ていることを、先日図録を開いて知った。見たことをすっかり忘れているのは情けないが、四半世紀前のことだ。その間に数えきれないほど展覧会を見ているので半ば仕方がないと自分に言い聞かせる。蓬春は北海道の出身で、東京に出て名を成したので、関西ではあまり馴染みがない。文化勲章をもらったが、確かにその貫禄はある。だが、好きな画家かそうではないかとなると、そういう名誉は関係がない。そして結論をどう言えばいいか、蓬春展を新鮮な気持ちで見ながら、確かに実力のある画家ではあるが、これが蓬春だという独特の個性がどこにあるのかと疑問に思い、蓬春の作品が全部失われても、日本画の世界はびくともしない気がした。これは前述のように東京で活躍した画家で、関西で馴染みがなく、ほとんど作品を見る機会がないからだと思うが、それ以外にどの作品も別の大家のそれを思わせ、逐一脳裏で比較していながら見ている自分に気づいたからだ。これは作品が技術的に高くても、精神性が低いからかと思うが、蓬春の肖像写真を見てその感をより強めた。筆者は男の面がまえにうるさい。
チケットに印刷される白熊の絵を筆者が気になって難波まで展覧会を見に出かけた理由は、他の日本画家はまず描かないと思ったからだ。そして実際にその作品の前に立って感じたのは、昭和28年の作とすればなかなか斬新な感覚だと思うと同時に、その後のグラフィック・デザインの世界では同様の絵を描く才能はたくさんあったであろうということで、あまり感激しなかった。またその絵は蓬春の作として例外に属するもので、そこが気になるが、そのことは後述しよう。ともかく、蓬春はモダンな画家で、そのことを最大の特徴とするとひとまず言える。だが、モダンさはたとえば堂本印象はもっと徹底していたし、ほかにもそういう画家はたくさんいる。今調べると堂本印象は蓬春より2歳上だ。モダンさは戦後さらに生活が洋風化し、明治の古臭い印象の絵画が流行らなくなったことによる必然で、それのいいかわるいは別にして、日本画家であっても西洋の絵画を強く意識せざるを得なかった。明治においてすでにそうであった。時代に即さねば絵は売れず、また画家でなくても新しい空気は感じる。それで程度の差はあってもどのような画家でも洋風の要素を持つことになる。あまりにも誰もがそのモダンさに染まったので、今では戦後の昭和時代の絵画はモダニズムの言葉ですべて説明出来るほどだ。また蓬春は戦後になって画風を変えたのではなく、戦争に関係なく、着実に画風を少しずつ変化させた。そこには見事と言うほかない一芸術家の軌跡があるが、没後125年ほど経って時代順に作品を見ると、モダニズムの作品が逆に古臭く見えてしまう。これはもう100年経てばまた違ったように見えるかもしれないが、そのことは誰にもわからず、ここで論じても仕方がないし、また論じることは愚かだ。モダニズムが古臭く見えるというのは、1980年代のかまびすしいポストモダニズムの時代を経て今に至っているからでもあるが、蓬春の初期のたとえばやまと絵に学んだ作品は、筆者が好むからでもあるが、その新やまと絵の方向に蓬春がもっと進めばどうなっていたかと思う。もちろんその限界を知ってその道に突き進まなかった蓬春だが、彼が次々に挑戦しては捨てて行った画風は、いつでもその地点からまた他の画家が新たな道を拓く可能性を持っている。それはさまざまな画風がポストモダンの立場からは並列に自由に引用出来るからで、またそこにはそれらの画風を生んだ時代の事情や思想を無視する立場があるので、自由に引用して改新したところで、そこには現在性のみが刻印され、ルネサンスではないが、また新たな絵画と認識されるであろう。その意味で蓬春の戦争までの作品はとても多様で面白いが、前述のようにそれらの多彩な画風はそれぞれ別の大家の作を思わせ、蓬春はそのことを知りながら進むべき画風について悩んでいたのではないかと想像したくなる。
平成4年展の図録に載る作品と今回の展覧会のそれを比べると、補完的で、また今回のほうが作品が少ないような気がする。今回特徴的なのは最初期の油彩画がいくつか展示されたことだ。蓬春は最初油絵をやっていた。これは後の日本画を特色づけた。簡単に言えば、油彩画に見えるような質感の表現だが、そういう作品はさほど多くない。またヨーロッパの画家をかなり意識していたように思える。デュフィやマティスを思わせる作品があって、これは洒落た都会的感覚、つまりモダンさを意識したからであろう。その新しく爽やかな絵画への憧れがあったので、初期のやまと絵に学んだ画風を捨て去った気がする。これは日本全体が望んだ道に沿っただけと思えるが、それは日本らしさを限りなく捨て去ったも同然で、「日本画」という言葉から連想される画風は明治以降現在までの日本の国そのものの変化に呼応し、よく言えばますます多様化、けなすのであれば鵺で、得たいの知れない中途半端なものとなった。近年はその多様性をひっくり返すかのようにアニメや漫画礼賛が激しくなり、もはや精神性は問わないか、あるいは薄っぺらい、偽物と言ってよい思想性に若者が感涙し、日本の芸術は死んだと言ってよい。で、そのことを日本そのものと比較すると、もう日本は終わりという思いを強くするが、それは古い価値観の崩壊であって、がらくただらけの世の中になった後、またむっくりと頭をもたげて世の中を革新するものが生まれて来るかもしれない。そう期待したいが、そういう機運があるとして、その時に参照する過去は必ず必要だ。それはたとえば蓬春の作品で、初期の蓬春が目指したやまと絵であるかもしれない。精神性という言葉を出したが、白熊を描く「望郷」のどこにそれがあるかと言えば、これは動物園に通って描いた白熊とペンギンを画題にするから、彼らが先祖の生まれ故郷に帰りたかがっている様子を描くかと言えば、全くそんな一種の悲しみはない。むしろ白熊もペンギンも満ち足りて笑顔だ。これは蓬春の心の反映で、画家として成功すなわち経済的にも恵まれた状態で次なる画題を探す余裕が感じられる。日本画はだいたいそうで、「悲劇の」とか「夭逝の」という言葉は似合わない。そして裕福さを感じさせるほどに絵が売れるのが日本画の世界で、そこに精神性が宿ることはよほど画家に厳しさが必要だ。蓬春がそうではないと言うのではないが、あえて精神性を求めることを拒否していると思え、そこに逆に日本における精神性がはっきりと見えているとも言える。というのは、精神性のなさが大手を振って漫画やアニメに至ったからだ。それは芭蕉の「軽み」というものとも違い、軽い表現を目指すという確信もないものだ。またそういうことを思わせるところに蓬春の作品の現在的価値があるだろう。
平成4年展になかったものとして、蓬春の妻の若い頃の写真があった。なかなか理知的な美人で、一度見れば忘れない顔だ。写真はほかに昭和15年の「南嶋薄暮」の元となった数枚があった。これは台湾で取材したもので、蓬春の製作方法を知るうえで興味深い。写真をいくつか撮り、それをほとんどそのまま組み合わせて構図を作っている。画面の左手には首の上部に大きなこぶのあるコブウシが樹木につながれて横向きにいる。まずこれがこの絵の大きな特徴で、蓬春は写真とそっくりに描きながらこぶの形と位置をわずかに変えている。画面右手にはコブウシとは反対方向、つまり画面から出て行く方向に歩むふたりの女性がいるが、頭に果物籠を載せている。また背後は屋根の傾きが特徴のある赤い屋根の建物で、玄関が開いていて中にこちらを向く若い女性がひとり座って縫物の作業をしている。写真はこの作品の構図を念頭に女性たちに蓬春が望む格好をさせて撮ったものだろう。とすればなかなか手の込んだ取材方法だが、写真を撮らずに写生すれば済む話でもある。それをそうしないのは、晩年の静物画と同じく、じっとして動かないものを描くほうが性に合っていたからだろう。つまり、蓬春の絵画はどれも動きに乏しい。ただし、例外作として海を描いた昭和23年の「濤」がある。洋画家であれば素早い筆さばきで動物を的確に捉えることが出来たと思うが、激しい動きを表現する作は蓬春にはない。日本画に転向して、じっくりと画題を構成し、ゆっくりと絵具を埋めて行くことになったその用意周到性は、工芸的とも言え、その意味で蓬春の絵画はきわめて日本的だが、それは装飾的であり、精神性を問わない立場でもある。平成4年展で筆者が注目するのはピョンヤンで取材した市場の風景を描く昭和7年の「市場」だ。これが実に素晴らしいが、やはり写真をたくさん撮って組み合わせた構図に違いない。またこの絵の魅力は多くの露店を覆う白い布と、朝鮮人の白い衣装で、画面の下3分の2は白が占めると言ってよい。上3分の1は波のように続く建物の瓦屋根で、これはとっくの昔にピョンヤンから姿を消したものだ。さて、「望郷」が例外的な作品に見えたのは、ひとつには蓬春は固定した画風に陥ることを避けたからだ。とはいえ、晩年には硬直に陥って行き、同じような静物画が連作される。それらは小倉遊亀を思い出させるが、彼女とは違って精神性が伝わらない。きれいに描かれ、そこにはそれなりの厳しさも感じられるが、宋元画の厳しさを目指したというものではない。そういう中国への回帰趣味を捨て去り、代わりに今風つまりモダンさを意識し、また室内にこもり切っていたことを想像させる一種の空気の停滞があって、昭和25年頃の爽快で洒落た画面とは大きく違う。様式を固定化させないという困難な道を歩みながら、気づけば老齢に達していたという感じで、長い画家歴に意味がある。