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●京都上京 喫茶ゆすらごにて、凪の又サニー
は柵を意味するので、「埒の中に拉致された」という小学生が考えそうな駄洒落を書くのは恥ずかしいが、何かの魅力によく囚われる筆者らしくはある。



筆者は一旦魅力を感じた対象に対する熱は、低くはなっても無になることはない。ごくごくたまに例外があって、百年の恋が冷めるような、特定の女性に対しての興味をすっかり失うことがある。最初に魅力を感じた後、過大に評価してしまうのだ。その点、作品は裏切らず、自分の目が曇っていたという後悔をしたことがない。ということは、生身の女性に対して筆者はいつまでも本質を見通す能力がないと言ってよい。つまり、作品よりも女性のほうが謎めいてわかりにくい。そのわかりにくい女性が作る作品がよくわかると言い切れば、真実味があまりない。となれば、作品をよく知るには人間をまず知ることが大事という理屈になるが、作者が死んでいない時や、また会ってもらえないほどの有名人である場合、作品から人間性を想像するしかない。それは作品が人格であるということが正しいことが前提になるが、そう思いたいだけで、作品は作品、人格は人格として分けるべきとも言える。作品を素晴らしいと感じた後、作者と話す機会が得られた時、その人格に触れてがっかりする場合はあるだろう。なので、作者に面会したいと思わないほうがよい。筆者はネットで顔を晒すことを好まず、また見知らぬ人と話すことも好きではないが、ちょっとした会話から人格を推し量られ、またそこから作品を評価されることが嫌であるからでもある。一方で筆者がいろんな作者の作品に興味を持つのは、作品から人格を想像することが楽しいからで、素晴らしいと思える作品の作者は絶対に素晴らしい内面を持っていると思うことにしている。そうして筆者は自分の埒の中に多くの作品を拉致して来てひとりで堪能しているが、芸術好きは誰でもそうであるはずだ。そして楽しい音楽との出会いを求めてたとえばライヴハウスに足繁く通う人がいる。筆者は全く予備知識なしに金森幹夫さんの誘いに応じる形でたまにライヴを見る程度で、まだその世界の広がりや奥行きをさっぱり把握出来ないでいる。ただし、金森さんが誘うのは金森さんの好みが多分に入っているので、金森さんがあまり関心を示さないタイプの音楽については筆者はこれからも未知のままになる可能性が大きい。それはさておき、いつだったか金森さんから「風の又サニー」というグループの名前を聞いた。先月28日に見たライヴの三番目に登場したのは、「凪の又サニー」で、これはドラムスが参加していない3人編成の場合のバンド名であることを金森さんからの誘いのメールで知った。ドラムスの音がないことを風が凪いでいると見事に洒落て名付けているのだが、「又三郎」を「又サニー」と言い換えているところに、このバンドの明るさへの志向が感じられる。
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 筆者の世代であれば60年代半ばにアメリカで大ヒットしたボブ・ヘブの「サニー」をよく知っているが、その黒人が歌う曲はただただ明るいのではなく、むしろ明るさを押し殺した内面の絞り出し、吐き出しで、個人が個人に対するつぶやきに聞こえる。これはあるひとりの心に訴えることが出来ればそれでよいという、多くを望まない潔さ、謙虚さだ。その派手では全くないのに大ヒットすることがその後のアメリカないし日本でどれほど可能となったかと思う。「サニー」のカヴァー曲の中には、華麗なアレンジと歌い方によって大勢に向けて歌うものがあった。ミュージシャンであれば自作曲が大勢の人に歓迎されたいであろうし、大きな会社に属していると大ヒットすべきことを常に意識させられもするが、それによって大勢に大声で訴える感じの編曲になりがちで、筆者がTVから流れる邦楽を好まないのとはそういう理由による。派手な歌い方であってもたったひとりに向けて歌うことを信条にしている音楽家があるだろうが、そういう人はメジャーな存在にはならないのではないか。そしてそういう音楽家はライヴハウスを拠点にするだろう。もちろんそういう音楽家もひとりだけに自作曲が届けばいいとは思っておらず、なるべく多くの人に感心してもらいたいのだが、ひとりを感動させると必ず他にも感動する人がいるもので、多数を感動させようと狙うと作品に一種の嫌らしさが見え透きがちだ。ところで筆者はこのブログを誰かひとりのために書いているかと言えば、それは自分に対してで、稀に意図して個人に読んでもらいたいために書く。そして後者の場合、書いた後に妙に清々しい気持ちになる。その意図した個人が読んでくれるとは限らないが、それはあまりかまわない。思うに、ライヴハウスで演奏する音楽家も似たようなものではないだろうか。それは自己満足と謗られるかもしれないが、そういう声はひとまずどうでもよく、自分ないし思いを届けたい誰かに向けて心を込めて時間を費やすことで、自分が聖なる境地に一時でも踏み込んだという感覚が味わえる。卑近な言葉で言えば真心を自己確認することが自分にとって真実の瞬間で、またそれが感じられない人生はつまらないということだ。さて、これを書くために本来はYOUTUBEで「風の又サニー」の演奏を視聴すべきだが、いつかその演奏を見るかもしれず、今日はライヴを見ただけの思いを書く。「凪の又サニー」の演奏は30分ほどで、4,5曲演奏した。またどれもミディアム・テンポで同じような曲に聴こえたが、右端の椅子に座ったアコースティック・ギターを弾いて歌う男性ぽつりぽつりと語り歌う声が次第に高まり、時に最後はほとんど絶叫調になった。淡々としていそうで、内面に激しいものを抱えているといったふうで、最初に登場したkamiyaさんの演奏を熟練、洗練させたと言えばいいだろうか。
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 当夜出演した4組は喫茶ゆすらごの主が選んだと思うが、それは音楽性に幾分かの共通性があり、あるいは調和すると考えてのことだろう。古い民家にふさわしい音楽と言い切れば語弊があるが、先に書いたことで言えば、演奏者が個人に向けて思いを届けるにはちょうどよい大きさの部屋と雰囲気であり、もてなしの思いが店主にはあると感じた。「風の又サニー」でもギタリストの男性が中心になって歌うと思うが、彼がすべて作詞作曲しているだろう。ドラムスを除いた3人編成であれば、残りはベースと鍵盤楽器奏者が普通だろうが、「凪の又サニー」の残りふたりは若い女性で、中央奥にヴァイオリン奏者が、左手にピアニカやそれと同じほど小型の電子鍵盤楽器の担当者が座った。金森さんによれば後者の女性は会場にピアノがあればそれを演奏する場合もあるという。喫茶ゆすらごの舞台は畳敷きで間口も狭いが、右手奧にハモンドオルガンかエレクトーンがあった。彼女はそれを弾いてもよかったと思うが、小さな音で充分で、また彼女らの演奏は男性のぽつぽつとした歌い方に応じ、いつの間にか始まり、また決して歌を邪魔せずにささやくようであった。だが、月並みな伴奏では全くなく、「ファンタスティック!」と叫びたいほどに絶妙な細やかを紡いでいた。それを女性特有の優しさと言えば今は性差別と言われそうだが、彼女らの人柄がそのまま滲み出ていたというほかない。ところが、そういう彼女らに支えられる肝心の男性の歌が筆者にはよく聴き取れなかった。これは音大で声楽を学んでシンガーソングライターになった弦花さん以外はいつものことだ。声の通りがあまりよいとは言えず、一方では独特の詩にもよるだろうが、最初の曲は「スイミング」や「都会の子ども」という言葉があった。これは都会の子どもはプールでしか泳げず、泳ぎが下手という歌詞内容かと言えば、そうではないはずだが、歌詞はわからない。あるいは記したものがあっても詩であるからには感じればいいのだろう。2曲目は「光の静岡」という言葉があって、彼が静岡出身かと思うが、演奏後に耳にしたところでは、逗子にしばらく住んだことがあるとのことだ。演奏を聴きながら思ったが、確かに彼らの演奏には田舎じみたところがなく、大阪的ではなくて関東的だ。また「光」は「サニー」に通じていて、これも明るさを感じればいいと言えるが、その明るさは長調のそれではない。歌の旋律は音程の高低差が目立ち、かなりジャズ的で、美声のヴォーカリストが歌うとがらりと印象が変わるだろう。それほどに曲に奥行があり、個性は完成している。また他者のカヴァーによって大きく雰囲気を変えるであろうことは、「風の又サニー」の演奏がどのように違うのかという興味を起こさせる。それを聴かないことには彼らの本当の姿がわからず、埒が明かないが、風が凪いでいるのは嵐の前の静けさとしてそれはそれで味わいがある。
by uuuzen | 2019-10-03 23:59 | ●ライヴハウス瞥見記♪


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