滋養のあるものをたくさん食べると成長によいのはあたりまえとして、心身の心のほうがどうかと言えば、身が健やかでない限り、心もそうではあり得ないというのが一般的な考えだろう。
だが、身の健やかさは心のそれに支えられてもいて、心の持ち様で身の病を引き起こすことがある。それに滋養と思われている食べ物が毒であることは多い。美食家ほど短命なのはそれから説明出来るだろう。さて、植物ネタの投稿が続いているが、今日はそのいちおうの区切りとして
3週間ぶりに今日撮った裏庭の鶏頭の写真を使う。この育てている鶏頭については毎週投稿するつもりが、毎日観察を続けながら成長がほとんど変わらないので放置していた。花穂がより長くなったことはわかるが、鶏冠のような形になるには2,3年かかりそうだ。当然1か月もすれば花は枯れるから、もう筆者が望んでいた形の花はもう望めない。何が成長を妨げたか。まず植える時期が遅かった。次に土に養分が足りず、また雨の日が多くて光が不足したからだろう。土壌の改良は冬場にするとして、日照は天気次第であり、また光を遮っている背の高い木を切る必要があってどうにもならない。また筆者が入手した種子が本当に久留米鶏頭かどうかはわからないが、これは現在の細長い花穂が成長すると鶏冠のような広がりを持つかどうかに確信がないことによる疑問で、じっくりと鶏頭の品種について調べる必要がある。せっかく植えたのに思ったように育たず、もう気分は来年に賭けることに傾倒しているが、これまでの写真を見比べると生存競争の過程を見事に示し、それが遺伝子の優劣なのか植えられた場所の条件の差なのか、とにかく健気に成長していることが確認出来るだけでも種子から育てた意味はある。最初の写真の鉢植えはせせこましいのでよく育たないことは予想出来たが、2枚目の写真の隣家の裏庭に直植えしたものはもっとひどい。この裏庭には蕗が繁茂していて、その一画を深さ20センチほどまで砂利を除去し、新しい土を入れて鶏頭の苗を植えたが、蕗はしぶとく、周辺から鶏頭の一画を攻め込んで来る。撮影の前にそうした葉を摘み取り、また見栄えをよくするために茶褐色に枯れて地面に横たわっていた茎を10数本も取り除いた。花穂をつけて天に向かっているものもほとんどは細長い茎をくねくねと曲げていて、いかにもひ弱だ。滋養の足りなさを突きつけられているようで、「釣った魚に餌をやらない」ではないが、生き物を育てることにかけてあまりに無頓着な筆者を自覚もする。花穂の赤は筆者の脳裏にある鶏頭の赤とは違うものの、なかなか洒落ていて、飴玉を連想させるところは楽しい。鶏冠のような花穂はかなりグロテスクで、またそれゆえにきわめて印象的で他に似た花がないが、このキャンディ型もかわいくてなかなかいいではないか。また一句。「飴舐める 舌の赤さや 鶏頭花」