状態があまりよくないカンナの黄色い花で、撮影しながら投稿しないでおこうかとも思ったが、下方を見るとまだきれいな花がある。それで昨日はその写真を使った。撮影した25日は、カンナに出会う前や出会った後の花の写真もある。
季節の花は最も斬新な話題になると言ってよく、それで今日と明日も25日に撮った花の写真を使うが、今日は萩だ。7月15日の祇園祭りのさなか、筆者は平安神宮の神苑を訪れた。西から入って北を巡り、東から出る順路になっていて、西北辺りの小径際のせせこましいところに萩があった。高さ1メートルほどで、その付近は箱庭つまり小さな植物園のようになっていて、多くの種類の日本古来の草花が植えられている。府立植物園にはもっと大きな萩の株がいくつもあるし、また御所東の梨木神社は萩の名所で、そうした場所に行けば充分堪能出来るが、それは現在では卑近な植物になっていないことを意味する。萩を充分満喫するにはかなり広い庭が必要で、京都市内のような都会の民家では無理だ。萩が万葉集では最も多く詠まれる花というのは有名だが、これは万葉集の時代は家の周囲に広い空き地があったことを意味している。また今でも奈良は京都よりもはるかに閑散としていて、萩は少なくないだろう。その点、京都は盆地の隅々まで家が建て込み、田畑が駐車場になるなどして、萩どころか、植物全体が減少している。そうなると虫も少なくなる。そのことを実感したのが先日の少年補導の夜回りだ。今年筆者は5,6年ぶりに少年補導委員になったが、月一度の夜回りで楽しみと思ったことがある。それは桂川沿いの自転車歩道を南下して、左手の河川敷に聴く秋虫の大轟音だ。ガチャガチャと鳴くクツワムシでもいくつもの種類があることがわかるほど多彩で、数千、数万匹の虫が一斉に絶え間なく鳴き、その様子はうるさいを通り越してこの世のものとは思えないほど愉快であった。ただし、その道は照明がなく、夜9時頃にひとりで歩く気にはなれない。少年補導委員の10数名の団体で歩いている時でも、急に前方からジョギングする人が現われたり、背後から灯りを点けない自転車が追い越したりすることがしばしばあって物騒だ。今月14日はその夜回りがあった。満月の下での秋虫の大合唱を楽しみにしたが、5,6年前とは全く違って、クツワムシの声がなく、コオロギや鈴虫もとても少ないように感じた。河川敷の雑草を国交省が業者に刈らせたためとも言えるが、どうもそれだけではない気がする。渡月橋周辺の河床工事などによって、流域の生態が変わって来ているのだ。自然が減少してより人工的になって来ているのは、市内の街並みを見てもわかる。梨木神社門前に大きなマンションが出来たことからしても、もう京都市内は自然をたっぷりと味わえる場所ではなくなり、季節の花を多く楽しみたければ植物園に行くしかない。
話を戻す。7月15日の平安神宮の神苑の萩はまだ花が咲いていなかった。正確に言えば、2,3個の花が咲いていたが、萩の花の魅力は鈴なりに咲き、それが地面に無数に落ちている様子にある。金木犀がそうで、落ちた花の集まりにも味わいがある。ところで、萩を知らない人でも花札でそれを見たことはある。筆者もその口で、偉そうなことは言えないが、萩の花を友禅模様として描く必要に迫られて実物をじっくり眺めるようになった。また、『鳥獣戯画』に萩が描かれていて、その見事さに驚嘆するが、田舎育ちでも意外に萩を知らない人がある。若いせいかもしれないが、そういう人が年齢を重ねて多くの花の名前を覚えようとすることがあるだろうか。何事も必要がなければ興味を持たず、教養とは多くの人に必要のないことを言う。それで多くの人に必要のない知識を身につけようとしないことが当然視されるとして、それが世間の常識とは言い切れない。今生きている多くの人の思いに自分が属するので自分が正しいとは限らない。たとえば万葉集で最も詠まれる花が萩と知れば、今というごく薄い皮膚の下に分厚い歴史の中に生きた人々がいて、彼らの遺伝子を紛れなく受け継いでいる今の人が萩の花を知らないことを恥と思うほうが自然だ。それに萩の花を見ると、秋の味わいが増える。味わいと言えば食べ物で、萩と言えば「おはぎ」だ。春の彼岸に「ぼたもち」と呼び、秋の彼岸に「おはぎ」と呼ぶことは誰でも知っているが、5月に咲く牡丹から「ぼたもち」の言葉が出来たというのは、花の時期からしておかしい。それもいいとして、甘いもの好きな筆者は十三の喜八洲の「おはぎ」が大好きで、昔は大阪に出るたびに買ったが、ここ数年は買っていない。スーパーで安価で買えるからだ。23、24日と嵯峨のスーパーで半額の安売りを見つけて買ったが、甘さが足りず、物足りない。わが家の近くに10数年前まで和菓子屋があったが、そうした街中の小さな和菓子店は梅津でもみななくなり、今では大きな資本を持つ老舗か、スーパーに卸す工場しか生き残れない。前者は高価で、後者は安価ではあっても個性がない。それは貧富の差が拡大中の日本を象徴していて、貧乏人はスーパーのしかも半額割引商品を買う。昔なら家で手作りしたものが、今やそうすれば1個当たりスーパーの何倍もの高額になる。筆者は豆が好きで、金時豆を自分で煮たいと思うが、乾燥豆を売る店が見つからず、またあっても高いので、スーパーで売られる工場生産品を買ったほうが便利で安い。ただし、その便利で安いがくせものだ。それに慣れると自分で手間暇をかけて何かをする気力が失われて行く。そしてやがて考えることも面倒になる。今日の最初の写真は22日に嵯峨のスーパー近くの民家前で撮った白花の萩。2枚目は24日、3枚目は25日、奈良大学の北側の歩道際の竹藪で見かけた赤い花の萩。