制作の過程を簡単な図を添えて説明してあった。鋳造技術についてはだいたい想像がつくが、作品の原型を作る彫刻家は鋳造まで手がけることはなく、専門の業者に任せる。ミロもそうで、鋳造はいくつかの工房に任せた。
今日は先月28日の午後、長岡京市に弦花さんのライヴを見に行くついでに訪れた大山崎山荘美術館での展覧会について書く。企画展示は同館所蔵のミロのブロンズ製の彫刻10数点で、その半数は、前回訪れた2,3年前は建築中であった山手に新たに出来た安藤忠雄設計の「夢の箱」と呼ばれる鉄筋コンクリート製の四角い建物の内部に展示された。話を戻して、ミロのブロンズ彫刻がどの工房の制作であるかが判明しているのは、その名称が作品の目立たない箇所に記されているからだろう。金属が素材の彫刻作品は、自分で溶接技術を持っていない場合は業者に任せるのが普通で、たとえば清水九兵衛のような鉄の彫刻は設計図を描いた後は工場に任せる。それが彫刻と言えるのかという意見があるが、そのことを言い出せば、鋳造を工場に任せる彫刻家も同じだ。またその彫刻家が生きている間はいいとしても、死後に鋳造される場合があるし、しかも彫刻家が作った原型を元にせず、鋳造作品から型取りする複製もある。版画に似た複雑な問題を有しているのだが、紙の版画と違ってブロンズの重い立体は製造費が嵩むし、存在感が大きく、複製であってもそう感じさせない迫力がある。ブロンズの彫刻を見慣れた人なら、作家が生きている間に鋳造された限定品か、あるいは没後の複製かがわかるのだろうが、そういう目利きが一般から育つことはほとんどないだろう。それは絵画と違って彫刻の展覧会がとても少ないからで、鋳造に携わったことのある人でなければわからない見所があるのではないか。またブロンズの彫刻はエジプト時代にすでにあり、ローマ時代には非常に優れた写実的なものがある。日本で真っ先に思い出すのは奈良の大仏で、鋳造の歴史は長いが、欧米と違ってブロンズの彫刻を芸術作品として家の中に置いて鑑賞することは稀で、ブロンズの彫刻は制作に費用が嵩み、売りにくいとなると、木彫りに比べて手がける彫刻家は少ないことが想像される。それは日本では銅版画よりも木版画に人気があるのと同じで、また日本の民藝においても圧倒的に金属よりも木を素材にした工芸品が多い。大山崎山荘美術館は民藝と深い関係があるが、洋風の山荘であるから西洋の民藝品も馴染む。ではミロの彫刻はどうかとなると、ミロと民藝の意外な関係について説明するパネルがあった。それは見ミロの生地のバルセロナで日本の民藝展が開催されたことに端を発する。1950年に王立芸術協会で河合寛次郎の作品や大津絵が展示され、ミロが会場を訪れた。その前か後かはわからないが、彼は柳宗悦の著作を所有し、1966年の初来日時には東京の民藝館を訪れるほどに日本の民藝に関心があった。
パネルの説明を続けると、1950年の同展で紹介された民藝品は、全部ではないかもしれないが、濱田庄司に陶芸を学び、河合や芹沢銈介の作品を所蔵していたスペインの彫刻家エウダル・セラ(1911-2002)や後にミロ美術館の館長になるジョアキム・ゴミスの弟セルス・ゴミス(1912-2000)のコレクションであった。ミロの陶芸作品を共同制作していた陶芸家ジョセップ・ロレンス・アルティガス(1892-1980)も民藝に関心を抱いて柳や濱田と交流したが、息子ジョアン・ガルディ・アルティガス(1938-)も濱田に学んだ。そして濱田はスペインの伝統的なうつわを参考にスリップウェアの技法による作品を作り、セラやアルティガス親子に会うためにバルセロナを訪れ、アルティガスの家に登り窯を築いた。また、芹沢や倉敷民藝館を創設した外村吉之介もセラと交流し、バルセロナで面会している。日本ではミロの人気は高く、1970年の茨木での万博においてミロは巨大な陶板壁画を制作した。それは万博公園内の国立国際美術館が中之島の同館に移転してからも目立つ壁面に飾られているが、上記の説明から推察するに、ジョセップ・ロレンス・アルティガスとの共同制作かもしくは彼が制作実現に尽力したことが想像される。同陶板壁画が制作されたのは、筆者の記憶では日本においてで、民藝の同人が陰で協力したかもしれない。そのように考えると、ミロの彫刻を大山崎山荘美術館が所蔵し、本展を開催するのは意外では全くなく、理にかなったことであると言える。そしてミロの作品を日本の民藝の力強さや健康的なところとの関連で見つめると理解しやすい気がして来るが、本展に展示された彫刻はどれも抽象で、しかも大量消費の商品を作品の主な部分に転用する半レディ・メイドであって、表向きは日本の民藝とは馴染まない。大量消費の製品を彫刻の一部として利用するのはピカソにも見られるが、それは元の製品の形を引用しながら、製品本来の色合いや質感、ラベルの模様などは消し飛んで一色のブロンズとなるから、国が違えば、また制作年代をある程度過ぎれば、鑑賞者はなおさら純粋な形の面白さのみ感じることになる。それは鉄の廃材を利用して動く彫刻を作ったジャン・ティンゲリーと違って、同じ廃材使用ながら、商品に具わる外形に着目し、それを最大限に活用する手法で、また鋳造品ならではの存在感に頼ってもいる。原型はプラスティックの容器を中心に粘土を用いたもので、それはおそらく空き缶を利用したアフリカの小型の鞄のような楽天性と意外性を感じさせるものであったはずだ。それを鋳造で造り直すことで芸術品に化けたが、原型に芸術性があってのことで、ミロのブロンズ彫刻が素材の力に多くを負っていることがわかる。そこに民藝的な態度があり、ミロはどのような素材を用いて作品を作ってもそのよさを引き出したであろう。
展示された彫刻は66年から81年までの制作で、題名に人物、頭、女性、鳥という言葉があった。どれも高さ数十センチで、個人で所蔵出来る大きさだ。本館に展示された67年の「母性」は丸くて小高い丘を連想させる形で、その斜面に女陰のような左右に開いた大きな穴がひとつある。丘の頂上にはふたつの突起があって、これはおっぱいだろうが、写実的ではないので卑猥さは感じさせない。この作品は例外的で、他は瓶や缶、洗剤らしきものが入っていた容器を利用し、それに手足を添えたものが目立った。子どもが無邪気に作った工作という感じで、またその味わいがミロの個性だ。原型がどのように保存されているのかは知らないが、それは形が崩れやすいはずで、ミロはブロンズで鋳造することによって風化を免れ、また量産も可能なことを目論んだのだろう。そこにはミロの知名度を思っての画商の提案もあったかもしれない。また凹凸が多く、複雑な形をしているうえ、表面の味わいが陰影に富むので、鋳造や仕上げは高度な技術を要したはずで、その点は子どもの工作に見えながら、世界的な名声のあるミロの評価を高めているだろう。これまでに日本で開催されたミロ展の図録を数冊所有するが、今立ち上がって本棚を見ると1冊だけ並んでいた。詳しく書くとややこしいが、その1冊のすぐ隣りの棚にある残りのミロの図録などの本は、地震で棚が崩れかけたこともあって段ボール箱に入れて床に重ねてあり、探すのが面倒だ。それでその1冊を見ると、中に10数種のミロ展のチラシが挟んであった。これは筆者が見かけたチラシのみで、この半世紀の間、日本で開催されたミロ展の回数はその倍はあるだろう。それほどの人気を誇るミロで、彼の彫刻は絵画に混じってこれまで紹介されて来たが、やはりミロの名声は絵画による。そして本展でもそれは2点展示され、絵画と彫刻を見比べることで作者の感性がより把握しやすかった。それは即興の詩人と言ってよいもので、ジャコメッティのように呻吟を感じさせず、あるいはそれを抱えていても作品には見せないように努める楽天性がミロにはあって、そこがまた日本の民藝の明るさに通じている。これは嘘か本当か知らないが、筆者が30代前半頃に知り合ったある女性は、ミロの作品はゴーストの作者がいて、ミロがその出来栄えに満足すればサインを入れると言った。陶芸は共作者がいたので、おそらくそういうこともあったと思えるが、最晩年になると高まる名声に制作が追い着かず、ミロが納得すれば代作にサインを入れたことがあったかもしれない。またそのことは無名の民藝からすれば否定されるべきとは言えないだろう。ミロという人格がどんどん広がり、しゃちこばって難しい顔をした一芸術家に留まらず、柳宗悦の周囲に集まった濱田や芹沢などの民藝作家と同じように、バルセロナの民藝に接する、限定を設けない自由な表現者であった。