鱗が目から落ちるという表現は、視覚的にはコンタクトレンズが剥がれ落ちることを思わせるが、意味は正反対だ。それでネットで語源を調べると新約聖書の使徒列伝にあるようだ。何かがきっかけで知らなかったことを知るようになるのは、禅の悟りに通ずる。
その悟りへの道にどういう方法があるかと言えば、これは何にも書かれていない。常に気に留めていれば、何かのきっかけで「ああ、そうか」と思い至ることがある。気に留めていることは悩みとは限らず、楽しみで待っていることもある。一昨日筆者は満68歳になったが、誕生日を楽しみで待つことはもうない。まだ心身ともに元気であることを自覚しているので、心配はないが、あっても気にしないようにしているからだ。昨日は梅田で家内の姪の結婚式があり、それに出席することもあって、一昨日「風風の湯」に行った。客はとても少なく、サウナ室ではずっと筆者ひとりという珍しい状態であった。常連と会えないのは拍子抜けがするが、空いているのはありがたい。経営者はその反対で、10月の消費税の引き上げに際して値上げしようかと思案中ではないか。銭湯は20円の値上げで、電車賃も値上げされる。嵯峨の車折神社近くの銭湯が今月末で廃業と聞くが、そこの常連の幾分かは「風風の湯」に来るだろう。自転車で5分は要し、また渡月橋をわたる必要があるので、筆者なら面倒臭くて利用しない。それほど風呂好きではないからで、経済的なゆとりがあっても「風風の湯」に毎日通うつもりはない。それで「満印のスタンプ・カード」の投稿は2か月に一度の割合で、「その100」の投稿は12年後で、筆者は傘寿になっているが、その年齢であった母を思えば、筆者はその頃までブログは続けていないだろう。認知症になった母は時々両手で顔を覆い、何かを思い出そうとしているようだが、そのことを除けば気がかりはなく、夢を見ているのと同じ、つまりは眠っているも同然で、生きているとは言い難いのではないか。このようなことを書くと批判されることはよく知っているし、また筆者は心が眠っている人に生きる価値がないとは言わない。母は10歳上の姉が認知症になって周囲の人の顔がわからなくなった時、身内が集まる場所に連れて来る意味がないと厳しい顔で言った。母は今のところは筆者や家内の顔はわかるが、もう名前が出て来ない。自分から話すことがないので、気がかりがあるかないかは傍目にはわからないが、あっても自分でそれをどうにかしようという思いはないだろう。筆者は気がかりがどれほどあるか。物欲よりもあれを知りたい、これを知りたいという知識欲が旺盛で、何か新しいことに遭遇して目から鱗が落ちる思いをするたびに、自分の無知を思い、気がかりが増える。「風風の湯」スタンプ・カードの表紙は「サンショウウオ」の漫画イラストとなって、今後は当分の間これに統一されるそうだ。