人気ブログランキング |

●梅宮大社での梅津六斎念仏踊りと江州音頭、その2
学ですね」と言われることは「おしゃべりですね」と同義と思ったほうがよい。一方、筆者が知る「雑学の王様」と呼ばれている人物がいるが、筆者から見れば当人の興味のある範囲はごく限られていて、少し毛並みの違う人とは話が全く噛み合わない。



d0053294_15112404.jpg
それで初対面の人とはなるべく聞き役に回るほうがよい。前回MIHO MUSEUMの内覧会の送迎バスで筆者は見知らぬ男性と隣り合って座り、美術館に着くまでの1時間少々、話が絶えなかった。下鴨在住で、たぶん筆者より2,3歳下だ。話すきっかけになったのは、筆者が座席に着こうとした時、頭を天井の棚の角で強く打ったからだ。帽子を被っていたので衝撃は少なかったが、ゴツンという音がし、それに男性が反応して言葉をかけ、そこから話が始まった。ちなみに美術館に着いてバスを降りる際、今度はその男性が棚で頭を打ちつけた。話の中で最も印象的であったのは、京都市内は地域によって言葉が微妙に違うということで、小さな頃は他の地域の子どもと話すとその違いがよくわかったという。狭い京都盆地にいくつもの訛りがあったという話はいかにも京都らしく、またその言葉の違いで内心相手を見下げてもいたのだろう。それは今も変わらない。今90代の人はそういうことに最も敏感で、京都市内のどこで生まれ育ったかで生活の質を判断する。京都に出て来て筆者は梅津に家内と住み始め、当時20代半ばの家内は地元の不動産屋に勤務した。店主である老夫婦からいろいろと京都のことを聞き、それらの話をまとめるだけで厚い1冊の本が出来るほどだが、不動産店では多くの人間模様を目の当たりにするからだ。家内は家を貸したい古くからの住民たちの間でよく知られ、独身と思われたのか、嫁さんに来てほしいと言われたり、あるいは別の不動産屋の男が来店し、その車に同乗して物件を見学に行く途上でラヴホテルに行かないかと真顔で誘われたりしたこともあった。若い女性が外で働くとどこでどう注目されるかわからない。梅津は四条通りから離れるほどに新興の住宅で、それは嵯峨野の南方も同じ状況だ。つまり、梅津の北部と嵯峨野の南部はまだ田畑が目立つが、大部分の住民はここ半世紀に移住して来た人だ。それもあって、たとえば嵯峨(嵯峨野ではない)に住むある人は梅津の柄の悪さをあげつらうが、そう言う本人は大阪の下町の出身で、柄の悪さに周囲は辟易している。とはいえ、確かに梅津は大きな工場がいくつかあって、労働者が似合う地域で、筆者も変な輩に絡まれたことがある。筆者が嵐山に転居した後のこと、30年ほど前だったと思うが、梅宮大社の境内角から北へと、「千代の古道」という道標が嵯峨に向かっていくつか明示された。歴史街道のブームを反映したもので、観光客の誘致も狙っているかと言えば、むしろ梅津が歴史的に古い土地であることを示したい矜持によるだろう。
d0053294_15114454.jpg 梅宮大社のすぐ近くで筆者は家内と暮らし、写生のために大社の庭にはよく出かけた。息子が生まれた昭和58年に嵐山に引っ越したので、その後の大社のことはほとんど知らないが、四条通りに面した細い参道(昨日の投稿の最初に掲げた写真)に迫っていた数軒の家が取り壊されるか、後方に退いたこともあって、石の鳥居はぐんとよく見渡せるようになった。またその後は赤い鳥居も新調されるなど、少しずつ大社と呼べる雰囲気が増して来たが、その一方で本殿背後の多くの樹木が伐採されてフクロウが住めなくなり、その代わりに建て売り住宅が出来るなど、鎮守の森が消えて全体に白々しくなっている。だが、変わらないのは境内東の鳥居付近(昨日の2枚目の写真の上)だ。その大きな石の鳥居の左手に、戦前からの漢方薬の大きな看板を何枚も玄関脇に掲げ家がある。「千代の古道」の整備を中心になって行なったのはそうした旧家かと想像するが、参道付近には他にも旧家があって、家内や従姉によると、付近の土地建物を所有していると聞く。その大きな鳥居の奥に盆踊りの櫓が組まれた空き地があり、そのさらに少し奥の右手が大社の門、左手が四条通りからの細い参道だ。門をくぐると、そこは松尾大社の数分の一の小さな空間で、中央に舞殿があり、その奥に本殿がある。筆者の息子はそこで生誕百日のお参りをした。本殿に向かって左(西)に社務所と庭園への玄関があって、そこから時計回りに園を巡って本殿右手から出る。筆者が梅宮大社の際に住んでいた昭和50年代の数年間、8月下旬の六斎念仏や盆踊りについては知らず、従姉からも聞かなかった。夜店の出るお祭りもなかったと記憶する。盆踊りの音頭の音は周辺に鳴り響くし、夜店が出れば物見遊山で出かけたはずだ。梅津の六斎念仏は京都市内の他の六斎念仏とともに昭和58年に国の重要無形文化財に認定されたようだが、それ以前はどのような活動をしていたのだろう。盆踊りとセットで舞殿での上演があったのだろうか。どうもそうは思えない。こういうことになるとネットは役立たない。京都という土地柄、新しいものでも古さがあるように装われ、また途絶えたものを復興しても中断時期がなかったかのようにぼかされ、他府県の人はそうしたことを疑わない。嫌味を言えば、言った者勝ちで、そのことは八つ橋の創業年を巡る店同士の裁判からもわかる。それはともかく、梅津の古さの中心である大社はほとんど地元住民しか知らなかったも同然であったのに、近年は野良猫で有名になり、また六斎念仏や盆踊りに訪れた人がネットで報告するようにもなって、わずかではあるが京都の他の有名な社寺に近づいて来ているのは、地元住民の努力があってのことだ。ただし、境内は狭く、大勢の人が外部から押し寄せると身動き出来ない。そこが痛し痒しで、今はちょうどいい具合の人出ではないだろうか。
d0053294_15122939.jpg 嵯峨大念仏狂言を見たことがあるが、ポスターがあってそれなりに広報に努めている。梅津の六斎念仏はポスターがあるのかどうか知らないが、今はネットで情報が広まる。念仏狂言と六斎念仏は念仏で共通し、仏教由来の芸能だが、当然念仏が芸能という意味ではなく、念仏から離れた娯楽だ。念仏六斎とも呼び、狂言と六斎が並ぶので、双方の違いも何となくわかるが、WIKIPEDIAによれば六斎念仏は京都発祥でふたつの系統があり、空也系は芸能化を認め、梅津のものはこれに属する。笛や太鼓、鉦を使い、また笑いを誘う場面が目立ち、客との一体感を求める演出をしている。スマホなどで撮影している人がかなり目立ち、早速そうした写真は投稿されているが、若い西洋人もちらほらいて、彼らが地元住民なのか、日本の伝統芸能に関心があって訪れたのかはわからないが、江戸時代と変わらぬ境内で見る日本独特の踊りと神楽に似た音楽は幽玄さを満喫出来る珍しい機会で、わざわざ訪れるだけの価値はある。ただし、前述のようにあまりの見物客に溢れるとその気分もぶち壊しになる。7時半頃の上演半ばに雨の勢いが増し、傘を持たない人は退散したが、ジャケットの頭巾を被って眺め続ける西洋人のカップルが筆者の前にいて、上演が終わった直後、抱き合ってキスをした。日本らしさを堪能してロマンティックな気分になったのであろうが、それは本来祭りでは当然のことで、祭りの夜に男女が結ばれることは珍しくなかった。筆者の友人は里帰りした時の夏祭りで再会した中学の同級生とその直後に結婚したが、今でも祭りの夜に若い男女の眼差しは交差しているだろう。それはさておき、スーパーで買い物を済ませて大社の門をくぐると、「頼光と土蜘蛛」が上演中であった。その後「八兵衛のさらし」「祇園ばやし」「獅子と土蜘蛛」と続き、「獅子と土蜘蛛」では土蜘蛛役が火薬を破裂させるかのように勢いよく手から発する細くて長い紙片の束の回数が、「頼光と土蜘蛛」より格段に多い10回ほどで、観客に向かっても2,3回放たれた。朱色と緑色の二種の獅子にその紙がたくさん絡まり過ぎて、上演中にその紙の束を何度か取り除ける人がいた。「祇園ばやし」は祇園祭りで使われる囃子の一種のはずだが、梅宮大社は四条通りの西の果てにあって、東端の八坂神社とつながりがあるのだろう。また上演中に「火の用心」と朱書きした布を客席に示し、江戸明治の古き時代を感じさせた。「八兵衛のさらし」はふたりの男性が白い長布をひらひらさせて舞うもので、英一蝶の有名な絵にもその布晒しの踊りは描かれる。「頼光」は源頼光で、丹波の大江山での酒呑童子や土蜘蛛との闘いで有名だ。沓掛から東の桂、そこから北の梅津へとその伝説が伝わったのだろう。国指定となれば助成金が出るのかもしれないが、演者は30代らしき若者から70代までいて、後継者不足にはならないようだ。
d0053294_15132197.jpg

by uuuzen | 2019-08-27 23:59 | ●新・嵐山だより


●梅宮大社での梅津六斎念仏踊り... >> << ●梅宮大社での梅津六斎念仏踊り...
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venusha..
ファン
 
  ブログトップ
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  © Copyright 2019 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌✍🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔☔⚡🌋🏳🆘😈 👻🕷👴⌛💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏♻