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●『紫香楽宮と甲賀の神仏』
で言えば信楽は信楽藩かと思うと、最も近いのは水口藩のようだ。近江国には藩が18あって、彦根や長浜、膳所、堅田、大津は誰でも思い当たる。



d0053294_14534232.jpg最近書いたように筆者は水口に一度だけ行ったことがあり、その帰り信楽に立ち寄って少しだけ歩いた。地図を見ると水口から信楽へは南西15キロほどで、国道307号線を走ったことがわかる。その頃は新名神高速が工事中で、名神の栗東から国道1号線で水口まで行った。筆者が息子の車で初めてMIHO MUSEUMに行ったのは12,3年前と思うが、新名神は工事中で、印刷したヤフーの地図を見ながら山道を走り、行き止まりに迷い込んで10キロほども戻ったことがある。また息子は高速道路に慣れず、金もかかるので一般道を利用したが、それはそれで楽しい思い出になっている。当時も今もヤフーの地図には「MIHO MUSEUM」の記載はなく、またかなり拡大しなければ「神慈秀明会」の文字が表われないが、今日の最初の地図画像つまりグーグル・マップでは「MIHO MUSEUM」が明記されてわかりやすい。この山の中にある美術館は信楽の町や瀬田からどの方向にどの程度離れているかが想像しにくいが、右上に水口を含む今日の地図画像からは「紫香楽宮跡」の位置もわかり、またそれが新名神のすぐ南にあることも知る。地図の中ほどの紫色で四角く囲った範囲は、「飛び出しボーヤ、その50」で触れたが、MIHO MUSEUMで見つけて一部持って帰った多くの窯を紹介する信楽観光案内地図が紹介している地域だ。それはさておき、地図を加工しながら気になったのは、南接する地域だ。それは宇治田原町や和束町、笠置町、甲賀市などで、宇治田原町にはこれも10数年前に息子の車で宇治を経由して一度だけ訪れたことがあるが、307号線をたどると信楽まで15キロほどであることがわかる。またさらに南接するのが奈良市や伊賀市で、伊賀市の南に名張市があり、ほとんどが山地だが、古くから人里が点在し、それらを結ぶ細い道かそのすぐ近くに国道や県道が造られて来たことが想像出来る。MIHO MUSEUMに行くたびに思うこととして、新名神は山や谷をものともせずに土木工学の高度は技術を駆使して途方もない高さの橋脚をいくつも造っているが、それは近代技術の勝利と美に見える一方、将来の修復やまた景観のぶち壊しを思うとバベルの塔並みの愚かさでもある。地図上のほとんど針先程度の場所しか知らない筆者でも地図1枚であれこれと遊べるが、車の運転が好きな人はこれらの山間の道を縦横に踏破して、頭の中に街が点在しているのだろう。それは少し羨ましいが、車で走っている間の景色はみな似たようなもので、頭の中に思い浮かべられるのはもっぱら到着して歩いた街中であろう。それはグーグルのストリート・ヴューで疑似体験出来ることでもあって、驚きと呼べるほどのことはないだろう。
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 地図を掲げたのは本展をより理解するために必要だと思うからだ。本展は珍しく日本の考古を中心とした内容で、また信楽にあるMIHO MUSEUMならではと言ってよい。この美術館では去年も夏季にふたつの展覧会が開催されたが、夏休みであるのでなるべく子どもに喜んでもらえる内容がふさわしい。その意味では本展は専門的過ぎてかなり地味だが、しっかりと説明を受ければロマンが広がる。それは古代における信楽が天皇を初め多くの人が歩き、大きな建物を造っていたという事実だ。その道は現在の国道307号線だと想像するが、そうだとすれば車で一気に走ってしまうのがとても惜しいと思わせる。また車で往来が便利になったが、車がなくても多くの人や物資が行き交ったのであって、人の意思の大きさ、強さを改めて感じる。またそれは律令国家の権威、天皇の意思があってのことで、形は変わっても現代とそのままつながっている。ただし、MIHO MUSEUMも新名神高速も天皇は無関係で、そうした民衆の力が成すことには歪さがあるとの意見は、天皇がどのようなこともわがままを通して来たとみなすほどに単純過ぎるものであって、種々の事情が交差して大きな事業が行なわれることはいつの時代も同じだ。現代の建築物は消耗品で、特に日本では近代の名建築でも取り壊される。せいぜい寿命が60年で、写真で偲ぶしか方法がない。それでも時代特有の街並みはあるもので、特に江戸時代以前は特別個性的な建物はほとんどなく、火事で燃えてもだいたい同じものが建てられた。奈良時代でもそうであったはずで、また大規模建築は取り壊されても礎石の跡が土中に残ることが多く、それによって建物の大きさがわかる。そうした失われた建築物は発掘によって場所と規模が明らかにされるが、その作業は数十年と要することが普通で、これは発掘作業の予算と現在の土地の所有権が絡むからだが、高度成長期ではたとえばニュータウンや高速道路などを建設する時に大量の土器が出て来てもそのまま工事が続行されたことを、現場監督をしていた友人から昔聞いたことがある。そうなればそうした建造物が立て替えられる百年かもっと以上先に改めて発掘の必要性が浮上する可能性があるが、失われたままになる場合のほうが多いだろう。それにどこもかしこも掘ることはあり得ず、なおさら古代のことを遺跡から知ることは研究者の一生の間にそう何度も機会があるものではない。過去の発掘の業績のうえに新たに掘り進むのが現状で、本展で取り上げられた紫香楽宮跡も17世紀後半の文献に礎石の存在や古瓦の出土が記されて以降、ようやく大正末期になって国史跡となった。事情が一変するのは1980年代で、信楽町内の信楽谷北部に限って奈良時代の遺跡が南北3キロ、東西1.8キロの範囲内に道路で結ばれる9か所が存在することが判明した。
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 図録ではその9か所の説明があるが、みな道路で結ばれていたらしい。最北に位置する宮町遺跡が最大で、周囲が山で囲まれた1キロ四方の盆地にあって、複数の幹線道路で南方の遺跡群とつながれていた。2000年の宮町遺第28次発掘によって、中央谷を埋め立てた上に100メートルを超える建物があったことが判明し、その後東側にも同規模の建物が、また北側に主殿があることがわかって、紫香楽宮であることが確定した。紫香楽宮の造営は同地に聖武天皇が廬舎那大仏を造る構想と並行してのことで、天平10年代だ。その経緯について図録は詳しいが、それを読んで驚くのは聖武天皇が目まぐるしく奈良や大阪を移動していることだ。またその様子は文書で記録されていて、それは発掘の成果と照らし合わせて謎となっている部分を解明する手口になっている。地道な発掘と研究によって推定がより確かなそれへと塗り替えられて行くことの面白さが伝わるが、千年以上前のことをそうして知ることにどれほどの意味があるかと言えば、大部分はジグソーパズルのピースを埋めるような、意外性に乏しい、またそれだけに昔も今も同じ人間の営みを再確認することと言ってよい。だが、多岐の分野と関係することであり、また意外なことがわかる場合もある。そのひとつとして一対の木簡が取り上げられている。そこには万葉集に載る歌が墨書されるが、それは万葉集が編纂される以前のもので、万葉集は広く親しまれていた歌を載せていることが判明した。話を戻すと、聖武天皇は紫香楽宮に5回行幸し、その最初は天平14年8月で、6泊した。その時までに建物は完成していたことになるが、同15年末に現在の相楽郡にある恭仁宮(くにのみや)の造営を停止、同17年5月5日に恭仁宮に向けて出発、平城京に入って二度と紫香楽宮に戻らなかった。その原因は建物が放火され、また地震があり、廬舎那大仏の塑像が大きな損傷を受けたためとされる。紫香楽宮とその南西にある恭仁宮との間は、早朝に出発して夕方に着く距離で、前者は後者の離宮として建てられたが、出土遺物から宮都として機能していたことも推察されている。双方を結ぶ道は確定されていないが、大戸川と和束川の北岸を利用すると川を渡らずに最短で移動可能で、現在の307号線や5号線とかなり一致している。また河川を運搬に利用したことは、戦後間もない頃まであった保津川から嵐山を結ぶ筏からもわかり、道路が中心に記される現在の地図から昔の人々の生活を想像することは弊害があるだろう。それにヤフーの地図では河川の名称があまり記されず、河川地図を別に参照する必要がある。本展の魅力は人々がどのように移動してどの場所で何をしたのかに思いを巡らせるロマンにあると言ってよく、また甲賀地域の古い歴史は奈良国立博物館が手がけることではなく、MIHO MUSEUMが本展を開催したことは大いに評価出来る。
d0053294_14560508.jpg 信楽に紫香楽宮の地が選ばれたのは大仏造立に最適と思われたからだが、それは恭仁宮からの道を拓くと、近江と伊賀・伊勢方面への道が確保出来、既存の東海道、東山道などの官道やまた地方路の掌握や効率的な利用が可能となったからで、物資の運搬という点で、現在の道路地図は奈良時代のそれとつながっている。また図録には壬申の乱や渡来人の集団移住について興味深いことが書かれ、これらも当時の人と物資の国際的な動きという歴史ロマンを感じさせる。紫香楽宮跡の最も南に位置する内裏野地区に寺院跡が発掘され、それを甲賀寺としているが、その寺域は大仏造立には狭いとする意見がある。なお、甲賀は奈良時代には甲可とも記され、「こうか」と読む。一方、内裏野地区から北東400メートルに新名神高速を建設する際に発掘された鍛冶屋敷遺跡があり、写真からは一部は道路建設で埋められたようだが、この遺跡からは大仏造立に直接関係するものは出ていない。本展に展示される神仏の像はや奈良時代や平安時代のもので、石山寺や甲賀市の矢川神社、栗東市や湖南市の寺に保存される。これらの像が紫香楽宮とどう関係するかだが、甲賀郡には紫香楽宮以前に寺院は存在が確認出来ず、また紫香楽宮の造営が中止された後も内裏野地区の甲賀寺に造仏所が置かれ、そこで作られた仏像が平城京に運ばれていた。ここで注目すべきは僧の行基や良弁で、前者は甲賀寺や大仏の予定地の整備工事に協力し、後者は石山寺造営や近江の他の寺に関わった。当時の僧侶は土木建設工事家を兼ねていた知識人で、大勢の大工や仏師がその下にいて効率よく作業をする体制があった。そうした人々の名前は残っておらず、天皇や氏族などの支配階級の血統図や政権争いの歴史しか伝わっていないが、たとえば聖武天皇が藤原氏の乱の後、平城京から恭仁京、そして紫香楽京、さらに難波京へと遷都して5年後に平城京に戻った事実の背後に、数千人規模の移動があり、それに伴なって物資も移動したことのほうに筆者は思いを馳せる。図録には藤原鎌足の孫の武智麻呂やその子の仲麻呂が近江に深く関係し、仲麻呂が叔母の光明皇后(聖武天皇の皇后)の信任を得て石山寺の北に保良宮を造ることが書かれる。保良宮は造営から5年後の乱で仲麻呂が失脚したことで廃されるが、当時の石山寺には天智天皇が遷都した大津京に関係する建物があったとされる。天智天皇は大津宮への遷都から3年後に湖東の蒲生に新たな宮地の視察を行ない、その治世が続いていれば蒲生に新都が出来た可能性が大きく、そうなれば滋賀県が日本の中心になっていた。図録では現在の堅田にあったとの伝承がある高穴穂宮についての紹介も興味深いが、近江南部の大津京、恭仁京、紫香楽京という三つの短命に終わった都は、歴史の転換期に近江の地が当時の政権にとって特別の意味があったことを示唆している。
by uuuzen | 2019-08-03 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON


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