迫る台風の大雨に今夜の満月が見られないことは確実で、ムーンゴッタのシリーズとしては確か二度目の満月写真なしの投稿になる。
海外にはきっと満月好きがいるはずで、毎月の満月の上り下りのライヴ映像をネットで紹介しているだろうと思って調べると、バンドの名前が真っ先に出て来た。検索のキーワードを工夫すれば見つけられるだろうが、満月のライヴ映像を見つけたとして、個人のサイトから画像を取り込んで使うことは面白くない。自力でどうにかしよう。それはさておき、昨夜触れたように、ここ数日は暑気払いのつもりで昼間はザッパのギター・ソロを大きな音で鳴らしている。窓を開けているが、どの家も窓を閉め切ってクーラーをかけているので聞こえないだろう。ところがそうして楽しんでいると、家内はいつもアンプのヴォリュームのつまみを半分ほどに減少させる。それをまた筆者が元に戻すという恒例の音量合戦を2,3回繰り返し、いつも双方が妥協した音になるが、それでは筆者は恍惚感を味わえない。それが不満足なあまり、間もなくスイッチを切ってしまう。昨日今日と聴いているのはギター・アルバム『Trance=Fusion』の2曲目「Bawling on Charen」だ。これを77年のハロウィーン・ライヴで演奏された「Wild Love」のギター・ソロであるオリジナル・ヴァージョンと聴き比べる。音は前者が圧倒的に厚くて迫力があるが、編集されて短くなっている。それはいいとして、このギター・ソロは当時もその後もただ一度だけの演奏で、そのことが信じ難い。同じ曲を何年にもわたって演奏しながらその名演を得ることは普通だが、ザッパには一度だけのそうしたギター・ソロに名演が少なくない。それは毎日演奏していたことによる僥倖で、気を少しでも緩めたところからは生まれ得なかった。だが、そのことをどれほどの今のミュージシャンが同意し、尊敬するだろう。極北に行った作品が古典として評価される。極北を味わった者には普通は生ぬるい。もっとも、胎内的生ぬるさは幼児や女性には評判がよく、世間にはそれを当て込んだ商売がいつも花盛り。「まあ、いいんじゃない、爺」「そうですな、アリアドネ様、胎内から光が見えていますし、いずれ赤子も台風を知ります」「そして思うのよね。台風が去った後の満月はいつか胎内で見た光に似ていると」「はははは、それは恍惚の融合ですな」「満月にうっとりすることは胎内の生ぬるさを懐かしがっているからかな?」「ではこの世が胎内ということですかな?」「そう思いたい人は多いわね」「わたくしたちは宇宙から眺めておりますがな」「人間はその様子を想うことは出来るわね」「極北で見る満月もですな」「それこそ夢心地の絶景かもしれないけど、わたしはアポロ様と一緒に眺めるのがいいわ」「野生的な愛を感じながらですな」「それを情熱と言うの」