煙に巻かれて死ぬことはよくあるが、煙で自殺する人は聞いたことがない。煙は目に染みるし、吸い込むとむせぶ。苦しい死に方は嫌で、その点、ギロチン台はとても合理的な発明であった。
最も古典的な死に方はたぶん首吊りだろう。次に入水と思うが、溺れ死ぬことは煙でむせび苦しみながら死ぬことと似ている気がする。それに近くに海や大きな川がなければ死ねない。ヴァージニア・ウルフは入水自殺で、辻まことは首を吊ったと思うが、彼らの自殺が衝動的であったかどうかは本人に訊いてみなければわからない。
先日書いたように、辻まことは『蟲類図譜』で「衝動」と題する虫を描き、文章も添えている。辻は「自殺」についての虫を描かなかったが、自殺は衝動によるものと捉えていたであろうか。そのことは、「衝動」に添えられた文章「この虫は決して盲目ではない。その眼は千里の彼方を洞察している。彼女は一瞬のうちに永遠を生きる、その鋭い鎌は万物の生を即座に奪い、その命に依って生きる彼女自身をも滅ぼすが、瞬間の痛苦から発する電光をもって、新しい生の実りを生むのだ。これは生物における最後の理性だ。」を読み直せば理解出来る。つまり、辻にとっての「新しい生命の実り」は子孫ではなく、むしろ著作で、やるべき仕事を終え、それで自殺したのだろう。「千里の彼方を洞察」というのは、古典に馴染み、それらの著者に真の友情を感じていた辻らしい表現で、辻は自分の著作を深く理解する者が将来にわたって存在することを信じていたと思う。現実は俗物に溢れて退屈であるとしても、本によって効率よく過去の輝かしい人物たちと親しくなれる。このことを知っている人は孤独ではない。辻はこうも書いている。「たいていの不安や喜びが、皮膚の内側の自分ではなく外側の世界の鏡にうつっている幻影の自分から生じてくるのだということは、自然の前にポツンと立ってみると思い知らされる。われわれはいかに、あやふやな他人の頭の中に生甲斐を感じているか?」この文章はネットのSNSを先読みしている。辻は『文明戯評』の「タレント文化」ではこう書く。「質問する重さをいだくことなく質問し、答えとはなにかについて暗いものを感じないで答える。すべて一通話一〇円のごとき。サッパリした回転の早いアタマ。タレント文化!」これが書かれて半世紀、日本はお笑いタレントのやくざ文化が花盛りで、ツイッターに日々親しみ、何事も一言にまとめて物を言わねばという強迫観念に脅迫さている。大多数を正しいとする民主主義ではそれがあるべき姿で、筆者が毎日綴る長文は見ただけで「長い!」の一言で揶揄されるのが落ちだ。そんなことを思いつつ、今これを書きながら聴くザッパのギター・ソロ「トランス・フュージョン」がなぜもっと長く演奏されなかったのかと惜しむ。けれど、恐怖は長く続き、エクスタシーはごく短いものだ。
ここ1年ほどか、筆者はこのブログの文体を少しは考えるようになっている。読みやすさを思ってのことで、文章をなるべく短く区切り、リズムも考える。そのことはヴァージニア・ウルフの小説に顕著だが、そのリズムを日本語に置き換えることはたやすいことではない。英語独特の言い回しを逐一日本語に置き換えた訳が正しいとは限らず、むしろ彼女の真意を汲み、日本語らしさを守りながらリズムを再現するのがよい。それは意訳というほど大胆なことを目指さず、翻訳調を排しつつ、わかりやすさに留意することだ。もっと言えば彼女の文章にある切羽詰まった感じに留意しなければならない。彼女の文章は一旦読み始めると最後まで読まねばならないという、尻に火が点いたような焦燥感を煽るため、場合によってはとても気味が悪く、そこに精神を病んだ経験が覗き見える。「意識の流れ」と称される彼女の小説の手法は、その言葉のとおり、意識があちこちと向きながらもひとつのことに次第に収斂して行く様子を描くが、それは机の前に座ったままで地道に書き進むことは難しいように思える。手軽な録音機があって、そこに目につくまま、意識に上るままを喋って録音し、後でそれを文字に起こせば彼女の文体に似た文章が書けそうな気がするが、百年前にはそういう録音機はなかった。ということは彼女も現在を先取りしていたことになるが、それはさておき、意識は相互に関係のない、いくつかのことを並行して交互に思い浮かべる場合が多々ある。自殺しようとする人は、自殺だけに集中するかと言えば、誰しも思うようにまずそんなことはない。逡巡もあれば、回顧もあり、死に対する恐怖を紛らわせるのでもなく、どうでもいいことをふと思い出し、次の瞬間にまた死へと思いをやり、そしてやおら実行するだろう。その時の精神状態を狂気と呼ぶことはたやすいが、人間は何かに集中しなければならない状態でもそれとは関係のないことを考えるものであって、本来狂気の塊だ。ヴァージニアの短編『書かれなかった長編小説』を先ほど読んだが、これは彼女の意識がくねくねと変化して行くことの恰好の見本で、『ダロウェイ夫人』とは違ってわかりにくく、また切迫感がひしひしと伝わる。ところが彼女はその最後でこう書く。英文を探すのは面倒なので、西崎憲の訳を引く。「もし、私が跪いたとしたら、もし私が儀式を行おうとするなら、古怪な身振りをするならば、そう、あなた方のためだ、未知なる影よ、あなた方を私は崇拝するからだ。もし私が両の腕を広げたなら、それはあなたを掻きいだくためだ。あなたを引きよせるためだ――崇拝するに足る世界よ。」未知なる影を崇拝するということは、未来に期待することで、このことを訳者は解説でこう書く。「結句のエクスタシーに満ちた言葉はウルフの世界観が基本的に肯定的だったのではないかと思わせるに充分である。」
彼女が自殺したことを知ると、彼女の小説はどれも陰鬱ではないかと思ってしまいがちだが、普段から暗い表情の人が自殺しがちとは限らない。躁鬱病であれば躁の状態に戻った時に自殺しやすいと言われる。ヴァージニアは20代に飛び降り自殺を企てた。そういう精神状態でなかった時は、ごく普通に物事を感じ、また文章を綴ることには常に冷静であったに違いない。意識の赴くままを口に出し、それを録音して書き移すと彼女の小説らしきものが出来ると前述したが、彼女が文章にしたのは意識に上ったことのごくわずかなはずで、大部分を省かねば他者が読もうという気にならない。それは結末にあまりに無関係なことは煩雑になりがちであることと、また文章を構成することは本来省略の考えが働くからだ。また、結末は最も言いたいことかと言えば、そうとは限らない。たとえば『書かれなかった長編小説』は、長編として書かれた場合、「エクスタシーに満ちた」結句は別の箇所に使われたか、あるいは使われなかったかもしれず、「ウルフの世界観が基本的に肯定的だった」との想像はあまり意味がない。筆者が「ダロウェイ夫人」を読んだ時、全体の4分の3のところに出て来る、第一次世界大戦から戻って来た青年セプティマスの自殺の場面でとても驚いた。それを以下に訳すが、切羽詰まりながらも物事を順に考えて行くセプティマスの意識の流れが描かれ、またその自殺への願望は厭世的ばかりとは言えない。
ホームズが上がって来る。勢いよく扉を開け、「怖いのか?」と言い、彼を離さないだろう。だが駄目だ。ホームズもブラッドショウも駄目だ。彼はよろよろと立ち上がり、一歩ずつ跳びはねながら考える。取っ手に「パン」と刻印されたフィルマー夫人のきれいなパン・ナイフ。ああ、それは汚してはならない。ガスの火は? もう遅すぎる。ホームズはやって来る。剃刀を持っていたな。だがレツィアはいつも物をしまい込んでいる。窓しか残っていない、ブルームベリー地区の大きな宿の窓、それを開けて身を投げることは、月並みで、面倒で、かなり芝居じみている。それは彼らの考える悲劇で、彼やレツィア(彼女は彼と一緒だ)はそうではない。ホームズやブラッドショウがそういうことを好む。(彼は窓辺に腰をかける。)しかし最後の瞬間まで待つだろう。死にたくない。人生はいいものだ。太陽は熱い。人間だけが――何がほしいんだ? 反対側の階段を老人が降りて来て、彼を見つめた。ホームズは戸口にいた。「あんたにやるよ!」彼は叫び、勢いよく、激しく、フィルマー夫人の鉄柵目がけて身を放り投げた。
「卑怯者!」ホームズは叫び、扉を勢いよく開けた。レツィアは窓に走り寄り、見て、理解した。ホームズ医師とフィルマー夫人は鉢合わせになった。フィルマー夫人は部屋の中でエプロンをひらひらさせ、目を覆った。かなり多くの階段の上り降りがあった。ホームズ医師が入って来た。 ヴァージニアは当初ダロウェイ夫人の自殺で小説を締めくくるつもりであったのが、セプティマスと彼と一緒にロンドンにやって来たイタリア娘のレツィアを登場させ、自殺の要素は彼に適用した。ロンドンに来たのは有名な精神科医のホームズに診てもらうためだが、セプティマスは医者を信じていない。ダロウェイ夫人もそうで、ホームズが豪華な自動車に乗っていることを怪訝に思う場面があり、百年前から医者は儲かる商売とみなされていた。それはさておき、セプティマスは診察を拒否し、窓から身を投げる際に「I‘ll give it to you!」と叫ぶ。「it」は身体のことで、すでに身体と精神は離れている。また医者は死体を見慣れていても、精神科医には無意味だ。この青年の最期の叫びには肉体と魂を分けて考えるヴァージニアの思いがある。肉体は不自由だ。また医者に触られる不浄なものだが、精神はそうではない。精神科医は境界性人格障害など、新たな精神病を作り出し、そこにさまざまな症状を呈する人を当て嵌める。だがそのことで何かどう変わり、どういういいことがあったか。人は普段さまざまなことを意識しながら、他者との約束を守る行動に意識を集中させる。そして一方には多くの湧いては消える気づかない振りをする意識があるが、ヴァージニアは他者にとってさして意味のない自分の細々とした意識を掬い出し、文章を綴る。そうした文章は誰にとっても無意味かと言えば、一見脈絡のない多くの意識が生きていることをそのまま表わしていることに誰しも思い当たる。また脈絡のなさそうなことに何か本質的なことの暗示が含まれていたと振り返ることはあり、ヴァージニアの文章はそういうところに負っているとも言える。ただし、暗示や伏線を意識、意図し過ぎると小説は安っぽくなる。たとえばセプティマスの自殺だ。そのことは自殺以前に何かで暗示されているかと言えばそうではなく、それだけに驚きが大きいが、人生では予兆なしに重大なことは生じるし、また自殺が重大かと言えばそうでもない。それほどに彼の自殺は淡々とごく短く描写される。それは生にあっての異物ではなく、それも含んでさまざまな人生がある。それが人間だ。セプティマスは自殺したが、彼が車に跳ねられて死んでもこの小説は本質がさして変わらない。それはヴァージニアが死を重視していなかったと思えるからで、彼女は死に恐怖を抱かず、案外エクスタシーを想像していたからであろう。またヴァージニアは若き日の自殺直前の心の動きを記憶していて、それをセプティスマの死の間際の思いに反映させたはずで、そこにはあらゆる意識を捉えて文字にするという、冷静な執念のようなものがあった。これはどのような経験も後に活かすといういわばケチな思いではなく、ぎりぎり切羽詰まった感情を書き残さねば他に書くべきものがあるはずがないという「エクスタシー」礼賛の考えだ。
「エクスタシー」は辻まことの言う「衝動」と表裏一体だ。辻は真のエクスタシーは生きるか死ぬかの瀬戸際に生まれる、生涯で一度切りのこととして「衝動」を捉えた。それは日常の中にあって最も非日常であって、それだけに尊く、神々しい。どの生物にもそれが遺伝的に組み込まれているとするならば、またきっと組み込まれているはずだが、それは子孫を残す生殖行為の際に発動されるはずだが、人間のように毎日でもその行為が出来る存在は、その行為は局所の痙攣に過ぎないものとなって、真なるエクスタシーは得られないだろう。ではどこにそれがあるか。カマキリの雄が雌に食われながら子孫を残すように、死の間際に発揮されるだろう。死に恐怖はつきものだが、そこにはエクスタシーがあるに違いない。生殖行為と死を分けたヒトは、前者を歓迎して後者を忌むべきものとしたが、真のエクスタシーが死ぬ瞬間に訪れるとしても、味わった次の瞬間にはもう意識はなく、また他者にその快感を伝え得ないという事実の前で、死を大きな謎とした。誰もが死に、その時にエクスタシーが訪れるとすれば、人間は平等で、最期は祝福される。たまにはそういう風に死のことに思いを巡らすのもいいが、最高の楽しみはなるべく遅くまで残しておきたいものだ。つまり、自殺を急ぐことはない。セプティスマは最期に「what did THEY want?」と疑問を抱いた。これは人間の欲の限りなさに呆れ果ててのことだ。ネットでは自分の姿を誇示するインスタグラムなどのSNSが流行中だが、他人から注目されることに生甲斐を感じる生き方は滑稽だ。辻は「たいていの不安や喜びは外側の世界の鏡に映っている幻影の自分から生じて来るもので、われわれはあやふやな他人の頭の中に生甲斐を感じている」と書いた。ネットという仮想空間で相手に好かれようと日夜気にかけ、勝手な意見に一喜一憂するのは、孤独で、人気者でありたいからだろうが、いくらでも嘘をつけるネットで何か信ずるに足るものがあるのか。つまり、騙し合いに興味のある薄っぺらい人間がネットに棲息し、彼らの恐怖は忘れ去られることで、限りない虚栄で心を満たしてエクスタシーを感じようとする。そんな滑稽で孤独な人も死ぬ間際に真のエクスタシーが感得出来るが、それに気づいたことをネットで報告出来ず、歯ぎしりしながら魂は消えて行く。生きて来たように死がある。そして死んでも魂が輝き続けて誰かにその光が届く存在が稀にある。それは死に恐れを抱かず、生きている間に精いっぱい自己表現した者か、あるいはその存在に同調した者だけが体験出来る。欲を出すならば、未知なる影つまりまだ知らない人、これは死者でもかまわない、に出会うことだ。今日の最初と3枚目の写真は
「恐怖とエクスタシー」に載せた花壇のその後で、キバナコスモスと鶏頭だ。前者は今月9日、後者は11日、2枚目はわが家の裏庭で13日に撮った。