甘さの中に苦味が混じっていればなお印象深い。その苦さは後悔を含む場合があるが、過ぎ去ったことはもう覆せない。それで苦い記憶は何らかの自己表現の形で忘却の蓋を被せておきたいが、それが苦手な人は内面に苦味を抱えたまま生きて行く。
その重みに耐えられない時、どうなるかは人さまざまだ。それに自己表現が世間にそれなりに認められても、そのことで生きる喜びを見出せる人はもともと苦味はさして問題なく克服出来ると言える。その苦味があまりに大きく、どのような気の紛れることがあっても拭い去れない場合、いつか爆発して自殺という結果も導くだろう。これを書きながら思い出しているのはヴァージニア・ウルフだ。彼女は小説家として認められながら、自殺した。小説家にならなければもっと早く自殺していたかと言えば、それはわからないが、彼女が小説を書いたことは社会から見れば大いなる収穫で、彼女がこの世に生まれて来た意味は他者にとってもあった。だがそう言う人生は稀で、たいていの人はそういう自己表現の才能がない。あっても社会に広く認知されない。そのため、ヴァージニアと同じ精神的疾患つまり「境界性人格障害」を抱えながら人生をやり繰りして行く。となれば、ヴァージニアのような人とそういう特別の才能のない人との間には大きな溝があることになるが、誰しも自分の人生を生きて行くしかなく、特別な才能の有無にかかわらず、ひとりぽっちだ。そこからどう自分を満足させるために人生を進めて行くかであって、才能のない者が才能のある者を羨むのであれば、自分も何かを発見して才能を磨くか、諦めて別の心のよりどころを見つけるしかない。それに才能があっても苦しいもので、才能を信じて自己表現作業に没頭している間は嫌なことを忘れる程度であって、心の底に溜まった苦味を忘れることはない。あるいはその苦味が才能を駆使する原動力になっている。そしてその苦味は誰かによって生じさせられたものかと言えば、だいたいそうだが、自分の出自を理解出来る年齢になった時、なぜ自分はこういう境遇で生まれて来たのかと苦悶する場合、つまり家の経済状態や育てられ方といった家庭環境が原因である場合はよくある。未成年であればそれをそのまま受け入れるしかない。もちろん反発も含めてのことだ。さて今日は、境界性人格障害と診断され、同じ患者がたくさんいる病院に1年間入院させられた17歳のアメリの女性スザンナ・ケイセンが1993年に発表した小説『Girl,Interrupted』をもとにした1999年の映画を取り上げる。スザンナは1948年生まれで、この映画に描かれるように17歳で精神病院に入った頃には作家になる夢を持っていた。最初の本はそれから22年後に書かれたから、作家への道のりがたやすくなかったことがわかる。
『Girl,Interrupted』は3作目のようで、また2014年には5作目を書いているので、寡作ながら作家活動を続けている。『Girl,Interrupted』を『17歳のカルテ』という邦題にするのは映画だけのことで、同小説の邦題は『思春期病棟の少女たち』とされた。「病棟」という言葉はどぎついので、「カルテ」とされたのだろう。原題を直訳すれば「中断された少女」だが、これは順調に進むべき人生が挫折し、1年間精神病院に入ったことを意味する。その1年は境界性人格障害(Borderline Personality Disorder)を患っていた期間で、原題は病名に含まれる「Disorder(無秩序)」であったと認めていることになる。彼女は入院中にさまざまな患者を目撃しつつ日記をつけたり絵を描いたりする。作家になりたい夢が将来どう実るかはわからないが、ともかく患者たちを観察し、思ったままを記録した。その客観性が彼女を自傷行為や薬の過剰摂取といった病気の悪化を防ぎ、やがては治癒して退院することにつながる。そして映画の最後で語られるように、大半の同じ病棟の患者は後に退院し、彼女と会う。そのことはその病気が10代から20代の女性に患者が多く、自殺する場合もあるが大半は治ることを示唆している。つまり思春期にありがちな心の病で、そのことはネットでいくらでも情報があって珍しいことではない。筆者が知りたいのは20代を越えて境界性人格障害を患っている人の実態だが、思春期に特に多いとなれば一過性の病としてそれほど深刻には考えられていないのではないか。心身ともに大人に成熟すれば無縁な病気と位置づけるのであれば、この映画は60年代を描いた青春ものとして軽く考えられるが、本作に描かれるように奧に広がる闇は大きい。本作は1968年を舞台とするが、戦後アメリカ文化に染まり続ける日本では20年ほど遅れて同じ精神病が広がったと考えてよい。そして本作と同じく、20代を過ぎると急速にこの病気から治癒するかと言えば、その実態を筆者は知らず、また本作からもわからない。スザンナはその病気から脱し、また自分のことで精いっぱいで、他の同じ患者の治癒には関心を抱いていない。これは彼女が精神科医でないので当然のことだが、境界性人格障害者は自分に大いに興味があっても他者には無関心、つまり手を差し伸べないことを想像させる。そのことを本作を見て強く感じた。その個人主義は個人を大切にする国ならではで、スザンナからすれば、両親から入院させられ、また他の患者に仲間意識を芽生えさせつつも客観性を失わない自制心があって、医者とのカウンセリングを通じて心の落ち着きを少しずつ取り戻し、病状はそれほど深刻ではなかったということだ。
現実のスザンナは子どもがひとりいて離婚している。そのことは珍しくないので境界性人格障害と関係はないと見ることも出来る。また彼女は現在70歳を超えているので、ヴァージニア・ウルフのように自殺することはもうないと思うが、境界性人格障害を若い頃に患っていたことは彼女の作品を考察する場合の手立てとして利用されるであろうし、またそれは有効な方法であろう。映画で彼女を演じるウィノナ・ライダーも同じ病を患ったことがあり、それで映画の権利を買って映画を製作したとのことだが、映画の結末ではカルテにある「ボーダーラインが治癒した」との記述に対して「よくわからない」という感想を述べる。先日筆者が書いたように、新しい精神病が命名されると、今まで一風変わっているとされた性質がその病名に吸収されてしまう懸念を感じさせる。入院させたい側は、理解不能な行動に手を焼くあまり仕方なきことであって、病院側は患者に対する病名が必要であるから、双方の思惑が一致して患者が生まれる。そこで各個人にふさわしい治療が行われるかと言えば、同じような薬を同じ時間帯に飲ませるなど、一般社会から隔離して暴れないように管理している面が強い。そのため薬は精神安定剤が中心であろう。映画で描かれるように、精神病はさまざまで、虚言癖や拒食症、無気力や先天的な一種の知恵遅れなどもあって、それぞれの患者は緩いつながりを持ってはいても心に余裕がなく、お互い親友とは思っていない。境界性人格障害は摂食障害や異性と肉体関係をすぐに持つことや、リストカットなどの自傷行為などさまざまな病状を呈し、またその原因は幼少時の育てられ方が大きいとされるものの、それらの症状の出方は違う。本作でスザンナはある場所で知り合った若い男性が、徴兵が決まったというので入院中の彼女を訪れる。そして彼は5000ドルを持っていて、一緒にカナダに逃げようと言うが、彼女はそれに応じる気はない。最初に知り合った夜と再訪時の病院のベッドでのみのセックスした間柄では、結婚に踏み込む勇気が出なかったのだろう。ところが彼が去ったその日の夜、病院の雑用係の若い男性の優しい振る舞いにスザンナはうっとり、彼を誘ってセックスし、そのことが院長に知られる。境界性人格障害の特徴として誰彼かまわずセックスする、つまり淫乱であるとされたスザンナは、何人の男と寝れば淫乱か、また男の場合もそう言えるのかと院長に反論する。この発言は言い訳に聞こえる。同じ日にふたりの男とセックス出来るところに、自分を大切にしていない自虐性が認められ、それはリストカットに似た行為であるとみなされる。もちろんセックスは相手があってのことで、また痛みではなく快感を伴なうが、同じ日に相手を換えて衝動的にセックスすることは「無秩序」に振り回されていることだ。
若さとはそういうものという意見があるが、そうでない人のほうが多い。そこで「無秩序」な人は境界性人格障害者とされ、またその烙印を自覚させられることでより「無秩序」が進行する場合があるだろう。一方、20代を過ぎても、また境界性人格障害と認定されなくても、毎日相手を変えてセックスする人はいる。彼らは世間的には「淫乱」であって、それは境界性人格障害のひとつの病状だが、となればこの精神病は若者に特有とは言えず、病院で診断を受けないままに生活している人がいることを想像させる。そういう人たちは境界性人格障害を脱したと診断される、されないかに関係なく、それなりに普通に生活し、また時にはスザンナのように作家になる。そして彼女が淫乱であるかどうか、また自殺するかどうかは他者にはどうでもいいことであって、それで『17歳のカルテ』の原作は『思春期……』と題されるが、となれば問題は「思春期」にありそうで、それを過ぎた大人は他者に危害を加える可能性がない限り、好きなように生活してよく、実際アメリカでも日本でもそうなっている。たとえば淫乱な女性がいれば、自分もセックスさせてもらいたい男性はいて、需要と供給は一致して何事も問題は起こらない。また日本では年間3万人が自殺し、その中には大人の境界性人格障害者もいるはずだが、この精神病は10代、20代に対しては治癒の必要があっても、それ以上の年齢の大人は自然と治癒する場合が多く、そうでなければ個性として自他ともに認めて生きて行くしかないものだ。そしてその個性が創造を目指す場合はその作品が世間に提示されるが、広く認められなくてもその表現行為が生き甲斐になっていて、行き着くところまで突っ走るしかなく、やり終えたと思う時点で自殺するか抜け殻になるかは本人にもわからない。境界性人格障害者はそういう遠い将来のことを考える気持ちの余裕はなく、現在をどう満足して生きるかに難儀し、またそのいわば刹那的なところが境特徴と言ってよい。スザンナはこつこつと文字を積み上げることを得意とし、刹那的ではなかった。それは目指すものに向かって一歩ずつゆっくりと進しかないことを知っていたからで、17から18歳の1年間という、人生においての中断時期から多くを学んだ。その実例が同じ精神の病を患う人たちに好影響を与えるだろうか。才能の自覚がまず困難で、その後それを磨き続けることも根気を必要とし、さらに作品が他者に評価されるとは限らず、本作に表現されるようにスザンナのような成功例を知っても何の益にもならない人がいる。となれば本作は少々常識外れのことをする、つまりアスピリンの1瓶とウォッカの1瓶を丸飲みするスザンナが入院させられ、正気を失わずに退院し、入院中の他の患者の観察によって有名になったという成功物語であって、そうであるだけに他の患者の悲惨さが浮き彫りになっている。
それは過激な行為のさまざまだ。たとえば飼っていた犬が本人のアトピー症状にはよくないという理由で取り上げられ、自分の顔にガソリンをかけて火を放った若い女性がいる。彼女はたまに鏡を見て大声を出すが、彼女の自傷行為はリストカットのためらい傷に比べて爆発的なもので、そう言う情緒不安定さは育てられ方に原因があるだろう。かっとなった時の大それた行為は大人にもよくある。先日の京都伏見のアニメ・スタジオの放火犯も何らかの精神障害を患っていたのではないか。それは生まれ育ちに大きな原因があるはずで、自傷行為ではなく他者を傷つけることに突き動かされたところに、境界性人格障害ではない別の精神病であったとも思える。ともかく、本作では顔半分に火傷を負った女性は、退院後に自殺した女性が飼っていた猫をスザンナから託されて笑顔になる。そういう布石をうまく辻褄合わせをする場面がよくあって、本作は二度見ると気づくことが多い。話はそれるが、スザンナが医者と話している間、建物の外で「ポールが死んだ」と叫んで走り去る裸の少年が映る。これはビートルズのポールの死亡説を信じての行為であろう。ビートルズの曲は本作に使用されないが、ジョン・レノンへの言及はあって、病院のある部屋の壁に「COME TOGETHER」のサイケデリックな文字を書いた紙が貼られている。また患者たちが見るTVではキング牧師が殺されたニュースが流れて68、9年の物語であるとわかるが、スザンナが17歳であったのは1965、6年で、2年ほどずれがある。その違和感は使用される音楽に強く表われている。映画は最初にサイモンとガーファンクルの「ブックエンド」が流れる。これは1968年初頭のアルバムで、老人たちがブックエンドのように並んで座っていることを描写した歌詞だ。この曲によって物語は1968年であることを示唆するが、本作で最も効果的に使われる音楽は「恋のダウンタウン」だ。これをスザンナがギターを弾きながら顔半分に火傷のある女性を慰めるために歌う。この曲はペトゥラ・クラークが歌って1964年に大ヒットし、そのことを筆者はリアルタイムで経験している。そのため、同曲の歌詞に大いに意味をもたせて撮ったこの映画は、映画に実際に描かれる68,9年からは過去を懐かしんでいるところがあって、彼女たち患者が思春期前の平和な時代に憧れていることを思わせる。映画では描かれないが、スザンナが一夜をともにした男性は脱走してカナダに行くか、そうでなければヴェトナム戦争で死ぬだろう。その惨さはキング牧師の射殺でもほのめかされ、アメリカが64年以降さらなる激動期を迎えることを誰もが知っている。そんな時代の激変期にスザンナが精神を病んだと見ることも出来る。ヒステリックな時代にヒステリー症状が増加するのは道理だ。
筆者は本作で初めてアンジェリーナ・ジョリーの演技を見た。さすがに有名なだけはある。彼女は女優になるべき運命にあったが、10、20代に鬱病になった。そのため、本作でのリサ役はなお迫真的に見える。リサは8年も入院中との設定で、スザンナより年上と思うが、ウィノナ・ライダーはアンジェリーナより4つ年上の71年生まれだ。つまり、ウィノナは28歳で17歳役を演じた。それには無理があるが、スザンナは早熟であったろうし、周囲から呆れられながらも作家になりたい意志を崩さず、17歳で28歳に見えたかもしれない。さて、リサはひときわ目立つボス的存在で、何度も脱走し、別棟に移されてはまた戻って来ることを繰り返して怖いものがない。スザンナはリサがいない間に快復を迎えるが、それは何かとかき回すリサがいないほうが生活にくつろぎを感じることが出来たからだ。リサはスザンナの日記を盗み、その赤裸々な内容をからかい、「患者は誰もが崖っぷちにいて、ちょっと背中を押されれば自殺するのに、なぜ自分は誰からも押されないのか」とスザンナに言うと、彼女は「もう死んでいるも同然で押す必要がない」と口走る。スザンナのこの皮肉はリサが8年も入院してそれに耐えられているからで、一夜をともにした男性の言葉を思い出させる。彼は一緒にカナダに逃げようとスザンナを説得する時、「絵に描いたブドウを食べようとする者のどこがまともか」と言う。スザンナは精神病院にいる者たちのまともでないことをリサを通じて気づいたのだ。リサはスザンナの皮肉に涙を浮かべ、持っていた錐で腕を刺そうとするが、死んではダメという言葉でそれを落とす。そこに激高から自傷しないリサの冷静な性質が見える。そのため、おそらく彼女は間もなく退院したであろう。本作で最もショッキングなのはイタリア系の若い女性ポリーだ。彼女は父親が経営する店のチキンしか食べず、年中便秘気味でその薬をほしがっている。やがて彼女は退院し、かわいい飾りが満載の部屋に住む。そこへリサとスザンナが訪れる。そしてリサはポリーが父親とセックスし、それに満足していることを見透かして揶揄する。その夜、ポリーは2階の自室で首を吊って死ぬが、近親相姦によって精神を病む事例は日本でもよくある。義父と娘だけはなく、実際の父娘がそういう関係になることもあって、娘は境界性人格障害にもなるだろう。スザンナもパーティ好きな両親やその取り巻きによって精神の安定を崩した。境界性人格障害は遺伝的な要素もあるらしいが、思春期以前の家庭環境が大きな要因だ。筆者はスザンナのように誰かに文章を読んでもらい、そのことで喜びを見出すという考えはない。誰からも理解されなくても充分で、燃料が切れるまで走り続ける暴走機関車だ。他者からの賛辞を原動力にしないので、これ以上強いことはない。