餓死した辻潤について息子の辻まことは「おやじについて」と題する文章を書いている。これがなかなか名文でどこを取っても味わい深い。少しかいつまもう。
「おやじのパッシオンの根元は、やはり「自由」ということだったろうとおもが、この自由とは、自分自身から、自分が解放される……という意味だとおもう。」や、「すこしばかりパンクチュアルでありすぎた結果、社会的なゴーモンをうけたが、わがままを貫いた。精神の自由を徹底させた人間としてめずらしかった……とおもう、殊にこの日本で……。」は特に印象深いが、『辻潤著作集』の刊行に際して書いた『辻潤を解説するという矛盾を解説』にはこんな下りがある。「私は、いつか「辻潤は理解される必要のない人物だ。」となにかに書いた。理解されるという言葉の意味がどういうものなのかを辻潤を読んだ人でも解らない人がいて、文句を言われたことがある。「辻潤を理解する」といえるほど、私は辻潤を軽蔑することができないのだ……と私はその人に答えた。」これを理解する人は辻潤や辻まことを少しは理解出来るだろう。文字が読めることと理解出来ることとは同じではない。ましてや普段文章を読まない人に、文章を書いて生活する人を理解出来るはずがない。そして読書しない人は人生で目指すものは誰よりも多く金を稼ぐことと思っている場合が多く、またそのことを格好いいと思う女も無数にいる。それはそれで似た者同士で調和が取れていて、金のない者がひがむ必要もないし、実際ひがむどころか、そういう連中と同じ空気を吸っている場に一時も同席したくはない人がいる。そう言えば、「おやじについて」にはこういう文章もある。「「死」の刻印から、その苦痛から逃れるためにする精神の降伏を人々は人間的なものとして肯定しようとする。が、そこには実は現状維持以外のなにものもない。それは人間の処世術であって思想の墓場だ。胃袋に屈服した頭はすでに奴隷の思想家だ。現状の修正は、いつもこれらヒューマニティをのり越えたところに現実をみた人によって方向を示されたといえる。」いつの世も胃袋で物事を考え、そこに珍しくて高価なものを日々詰め込むことが出来ることを幸福と考えている人が大多数だが、そういう幸福は人生の降伏で、かつて藤本義一がいみじくも言っていたように、人間は食べることだけに関心を抱けばおしまいだ。そして若いのに終わっている人は目立つ。ともかく、息子のまことから見た父は「すこしばかりパンクチュアルでありすぎた」が、その息子もそうとうパンクであり、筆者は70年代の末期に辻まことの存在を知ってその精神に大いに同調した。それは辻まことを理解すると言えるほどに軽蔑していることかもしれないが、筆者なりに自由に生きて行くことの中で筆者ならではものが生まれ得ると信じている。
今日は家内の妹の夫の法要があって朝から高槻に行った。法要が終わって駅前の居酒屋で飲み放題を頼んで食事をし、話も大いに盛り上がった。昨日と今日は高槻祭りで、どういうわけか毎年のようにそれが実施される日に高槻の家内の実家に行く。今日は居酒屋で飲んだ後、その祭りを見に行ってもよかったが、夕方になっても暑く、道路を歩くのが億劫に思えた。それはさておき、義妹宅を訪れたのは四半世紀ぶりだ。玄関脇の植え込みに大きな「カネノナルキ」があって、その立派な姿に驚いた。これほど大きく育つのは直植えでしかも日当たりがいいからだ。あまりに成長し過ぎて、隣家の人が数年前に迷惑だとばかりに勝手に剪定したらしい。それが正しく何年前かわからないのが残念だが、さっそく帰宅してグーグルのストリート・ヴューを確認した。すると今日の最初の写真の左のようにまともに写っているのが1枚だけあった。それが去年10月の撮影で、今日撮影した右の写真とほとんど同じだ。もう10年ほどになるか、誰からもらったのか記憶にない「カネノナルキ」がわが家にもあって、鉢に植え替えた。それが冬場に外に出して雪を被って葉が全部落ちたことがある。その時に撮ったのが2枚目の写真で去が年2月26日の撮影だ。確かその前年か前々年にも同じ姿になって、ようやく葉が生茂った頃にまた枯らした。葉がポロポロと落下するのは憐れで、さらに太い茎までぶよぶよになって枯れた。ところが根が丈夫であったようで、春になってまた葉が出て来た。3枚目の写真は先日撮ったもので、義妹宅のような大きな姿になるのはこの鉢では無理で、また日当たりのよい地面がないので直植えは出来ない。それで冬場は部屋に入れる。植物の世話をするのがあまり得意でない筆者だが、最低限のことはするつもりでいる。またそれは自分自身もグルメでは全くなく、お腹がふくれれば何でもよいと思っていることと釣り合っている気がする。カネノナルキがよく育つ義妹宅は確かに経済的不安はない。一方、その木を二度も枯らした筆者はやはり金に無縁で、この調子でたとえば認知症にでもなればいずれ餓死するのではないかと思わないでもない。それでせいぜいカネノナルキの世話をして大きく成長させればゲン担ぎでいいかもしれないが、そのような迷信は信じない。それに世話する植物はほかにもいろいろあって、今は鶏頭の水やりを欠かさない。そうそう、辻まことの文章に「鶏頭牛尾」の言葉を使ったものがあったが、彼や父親はもちろん牛のしっぽに甘んじる男ではなかった。存在は小さいが、鶏の頭であるほうがよいと思うのは筆者もだが、そう言えば頭が鶏頭の花のようであることをパンクだと言った女性がいる。辻潤が今生きていれば、パンク・ミュージシャンのように髪を赤く染めて逆立てたか。まさか! 恰好をつけたがる人種と最も遠いのが彼であった。餓死覚悟はそう簡単な生き方ではない。