億単位のフランを手にするという夢のような話を描く映画について今日は書く。一攫千金は誰しも思うことがあるだろう。それで宝くじや賭けがなくならないが、たいていは普通に仕事を持ち、趣味で挑戦する。
そうでなければ、やくざ者というのが相場で、言葉を替えれば「アウトロー」や「冒険者」と呼ぶことになる。最近取り上げた映画『ワイルドバンチ』の主人公の男たちもそうで、映画を見て楽しむ人種とは正反対の生き方で、それで映画によく取り上げられる。彼らがすんなり巨額の金を手にし、夢をかなえるという結末にすれば、無茶な生き方を礼賛し、世間的に不道徳とされるから、必ず結末は夢が萎むように描かれる。そのことで映画を見る者は、大それた夢はしょせん夢で、実現しないことがあたりまえと思い、また普段のこつこつとした慎ましい生活に戻る。映画はそういう庶民のために1,2時間の大いなる娯楽を提供するが、一攫千金への行動を描く映画自体が監督にとっての一攫千金の冒険で、20世紀後半に特徴的なことではなかったか。筆者は近年ほとんど映画館で映画を見ないが、今はアウトローを主人公とした作品は減っているのではないだろうか。大がかりなロケやセットを必要としないアニメであればいくらでも非現実的な世界を表現出来るが、先ごろ放火された京都のアニメ会社が制作する作品が、日本の普通の若者を主人公とする普通の青春物語を描くものが大半であるならば、今の若者はアウトローや遊び人の生き方に憧れるのではなく、普通の生き方でさえも手が届かないのかもしれない。そして夢の実現が困難で、またそれを誰かに阻害されたと思うと、逆上して破壊的な行動に出る。一昨日は京都アニメを放火した犯人が小説を同社に応募していた事実が明らかにされた。一次審査で落ちたので、応募作は今のところ箸にも棒にもかからないものとみなされているが、放火犯が自己表現によって自分が置かれた現実から這い上がろうとしていたことは確かで、彼なりに夢に挑戦し、そのことに挫折していたことがわかるだけに後味の悪さが増す。さて、先日『追想』の感想を書いた。そのヴィデオのジャケットの説明文に「クライマックス、ドイツ軍が立てこもる古城でのアクション・シーンは『冒険者たち』の軍艦島での壮絶な撃ち合いを想起させ、……」とある。筆者は1975年の『追想』が1967年の『冒険者たち』から一部をパクっていることを知り、京都アニメ放火の事件を思うと同時に、『冒険者たち』を見なければと思った。それでこれを書く段になったふたつの映画は同じロベール・アンリコの作品で、パクリであっても許されることを知った。またパクリと言われればそうかもしれないが、物語は全く異なり、『追想』は現実にあった戦争を描き、『冒険者たち』はいわばいつの時代でもいる遊び人の一攫千金への夢と行動の物語でファンタジーだ。
『追想』を見た後、『冒険者たち』のDVDを買おうと思い、家内にそのことを話すと、以前TVで放送されていたのを一緒に見たと言う。筆者はすっかり忘れていたが、家内があらすじを言うとおぼろげに思い出した。そしてその日か翌日か忘れたが、TVでその映画が放送されていることを家内が気づき、最後の20程度を録画した。それを見ただけで感想を書く気はないので、やはりDVDを買おうと思っていると、以前家内と見た放送の録画を消していなかったことをたまたま知り、早速見た。つまり、2,3年後にもう一度見たが、初めて見た感じがしたほどに内容を忘れていた。これは娯楽映画としては名作と言ってよい。見ている時が楽しく、鑑賞後はもやもや感を残さないのがよく出来た娯楽であり、日常に嫌なことが多々ある人をせめて作品に接している間はそのことをすっかり忘れさせることがその第一条件だ。となれば筆者がここでわざわざ感想をあれこれ書く必要はなく、「面白かった」の一語で済ませばいいことになる。それを前提に、映画を見ながら思ったことを思い出すままに適当に書くが、まずは読んだばかりの辻まことの文章を紹介する。10ページほどの「夕焼けと山師」と題する随筆で、戦前の20代前半の体験を戦後になって書いたものだ。これが実に味わい深くて面白い。そのまま映画になりそうだが、映画にすれば適当な俳優がいないだろう。当時の辻まことは父親の潤から離れてふたりの友人とともに北海道や東北、信州で金鉱探しをした。その過程で知り合った東北の名の知られた山師の20代半ばの青年Sとの出会いや、またSに出会ったことで、辻も山師を卒業したことが綴られる。そのことは「夕焼けと山師」の題名に込められている。Sは辻に向かって、山は登れても夕焼けには登れないと言い、また辻の描く山の写生の頂上がよく描かれていることと、背後の夕焼けの色合いを褒める。辻は有名な山師というのでSに会いに行ったが、年配者と思っていたのが同じくらいの年齢であったことに驚く。なぜそのような若さで有名な山師になったかただが、独特の勘が働くらしい。それは天与の才能で、地下に何か特別なものが埋まっていることがわかるのだ。またその青年が見つけたのは硫黄だが、その権利を地元のやくざに脅迫されて一旦手放すところなど、映画『冒険者たち』以上のスリルがあって、現実のほうが作り話よりはるかに胸躍ることがあることを知る。また辻はその随筆で弘法大師のことを口にしているが、最晩年の辻は弘法大師の書いたものをよく読んでいたとのことで、父親とヨーロッパで過ごした後の20代前半は、辻のその後の登山好きな人生を決定づけ、またその中の最大の経験が山師であったことは、彼に博打打ちや冒険者、アウトローとして生きる覚悟があったことを示し、またそのようにしてしか生きられない出自でもあった。
そのように思うと、『冒険者たち』に登場するふたりの男と21歳の女性彫刻家レティシアも、社会から逸れた冒険者として生きる育ちや性質であったと理解出来る。ただしレティシア以外はそういう出自までは描かれない。逆に言えばこの映画は、レティシアの出自と死に至るまでの短い人生をふたりの男が同情しながら見つめ、彼女が果たせなかった夢を自分たちで成就しようとする内容だ。また当然彼らは冒険者であるので、夢はかなわない。映画の後半はその3人による宝物探しの過程で、命を落としたレティシアの故郷をふたりの主人公が訪れ、彼女の出自を明らかにして行くことが描かれる。つまり後半は主人公がひとり減り、女の色気がなくなるが、前半とがらりと違ってドキュメンタリー的かつミステリー的となって、彼女がどういうところで育ち、どういう家庭であったかが明らかにされる。筆者はそれがとても面白かった。その彼女の夭逝の人生もまた冒険者と呼ぶにふさわしいからだ。ここはとても重要で、日本の映画ではまず考えられない設定と言ってよい。田舎出の女性がパリに出て前衛彫刻家になり、大きな個展を開いて勝負に出ることは、フランスにはあり得る話でも、芸術への理解がきわめて乏しい日本ではまず無理で、あっても映画にはならない。映画を見る観客にそういう芸術への理解がまずないからだ。前衛彫刻家を主人公とする映画を日本ではどういう監督が作ろうとするか。誰にも歓迎されないものは出資者もおらず、映画は作れない。その意味で日本の映画はつまらない。そして辻の「夕焼けと山師」の短い文章には映画以上の詩情とその美しさがある。ところが、アウトローであった辻まことの存在を知る人は希で、どうでもいいお笑い芸人が毎日大量にTVに出て卑しく下品な顔を晒す。そういう連中もアウトローだろうが、金だけが目当ての醜悪な権力崇拝者で、たぶん『冒険者たち』を見て次のように嘲笑する。『宝物探しでは直接何の貢献もしなかった若い娘になぜ同じだけの分け前を与えるのかわからない』。それで自分だけはTVで顔が売れていることをいいことに、大きな取り分を主張して恥じることがない。この映画の見どころのひとつは、レティシアを介在してのふたりの男の友情で、彼らはレティシアをものにしようと色目は一切使わない。これはふたりが女よりもスピードに関心があり、またそのことに人生を賭けているためと説明出来るが、それでも若い美女が男の友情に入り込んで来ると目を奪われない男はおらず、またそのことでふたりの男は闘争もするが、この映画では逆に友情を深める。それが現実にはあり得ない設定で、またその清潔感ゆえに安心して見られ、最後に3人とも夢を達成出来ないことになって却って夢とそれに向けての行動が純粋ものとして映る。それは、金は大事だがそれより大事なものがあるとの信念で、3人の冒険者はそれを持っていた。
金だけが人生最大の目的であれば、ただのやくざだ。またこの映画の3人の主役が探しえた宝物を横取りしようとするやくざ集団が映画の後半に登場する。彼らはいかにも悪者の顔をしているが、彼らは冒険者かもしれないが、夢が金だけの点で卑しい。さて、レティシアは金属の廃品を使った大掛かりな彫刻を手がけていて、その材料を求めて廃車を広い敷地にたくさん抱えながら生活しているローランに会いに行く。彼の夢は強力なエンジンを持つレーシング・カーの開発で、リノ・ヴァンチュラが演じている。彼はもうひとりの主役のパイロットであるマヌーを演じるアラン・ドロンより年配だが、男の魅力に溢れている。ジョアンナ・シムカスが演じるレティシアは、筆者は美女とはあまり思わない。いかにも70年代に流行った顔で、彼女は早々にシドニー・ポアチエと結婚して女優を引退した。本作ではビキニになる場面があって、とても細い体を晒す。金属の廃品を使った彫刻はピカソに優れた先例があるが、もっと大規模でかつ動く彫刻となるとジャン・ティンゲリーがいる。筆者は最初の本作を見た時にそう思ったが、レティシアはティンゲリーのように動くものではなく、溶接技術を駆使してせいぜいモビールを造る。彼女から個展に招待され、正装して出かけたローランとマヌーだが、会場は名士も大勢来ていて、彼女はふたりに気づかない。個展の翌日か、レティシアは泣きながらふたりを訪れ、酷評されている記事を示す。レティシアにすれば人生初の大仕事で、大金も使ったが、駆け出しの芸術家に対してはいつの時代も世間は厳しい。本人は自分の才能に自惚れているが、何十年も作品を見続けている識者は都会にはごまんといる。レティシアはそのことを悟ったのか、作品を作っても今後は人に見せないと言い、巨万の富があれば大西洋に面する故郷のラ・ロシェルの海に浮かぶ軍艦のような要塞で暮らしたいと言う。また彼女はローランに恋心を打ち明けるが、ローランはマヌーが強盗一味の銃弾を受けて死ぬ間際に、「レティシアはお前が好きだと言った」と嘘をつき、マヌーはそのことを冗談と見抜いて微笑む。この死の間際の冗談には伏線があり、映画の前半でローランはマヌーに新聞記事を伝える場面がある。それは絞首刑になる直前の男が、「縄が首に絡んでくすぐったい」と言ったという話で、いずれも死を軽く考える「冒険者」らしい。命を賭けなければ本当にほしいものが手に入らないのは事実だ。それに挑戦するのがこの映画の3人の主役であり、またそこに芸術家が含まれていることは注視してよい。廃物利用の彫刻のどこが芸術かと思う人がほとんどのはずで、単なる自己満足と映るだろう。ましてや彼女が今後作品を人に見せないと言うのであればなおさらだが、自己満足はアクロバット飛行をするマヌーや、最高時速をものにしようとしているローランも同じだ。
ローランとマヌーはレティシアが生活を望んだ軍艦のような要塞でやくざ相手に銃撃戦を繰り広げるが、その要塞を案内してくれたのはレティシアの甥だ。その素朴な少年は町にある小さな博物館で受付兼案内人をしている。彼はレティシアのように芸術家になって一旗揚げようという思いはなく、大人になれば同じように博物館で働きたいと思っている。そのささやかながらも高貴と言える仕事にローランもマヌーも心を癒される。この博物館の場面も重要で、本作をただの激しいやくざ映画にはしておらず、文化を嘲笑しないローランとマヌーの広い心を暗に示す。そう言えばパイロットのマヌーはサン・テグジュペリを思い出させる。さて、レティシアの甥はローランとマヌーからレティシアが受け取るべきであった宝物の3分の1の億単位を金を受け取り、その後は要塞を案内し、そこに戦時中にナチスが隠していた武器のあることを示す。つまり、レティシアに導かれるようにして彼女の故郷にたどり着き、そこで彼女の身内に会い、また彼女が好きであった要塞島も訪れるが、そこでローランがマヌーの協力で実現出来ると思った夢は、マヌーが銃殺されたことで消える。その結末はヘリコプターによる撮影で、ローランがマヌーの死体を前に嘆いている場面が少しずつ空高くから見下ろす。その時、海原に楕円形の「0」の形の要塞が出っ張って見え、3人の夢がゼロに帰したことを観客に伝える。一攫千金の夢が破れたことは人生がゼロに帰したことで、敗残者を意味するが、巨万の富を得ようとして動いて頃が華であって、それを得た後の幸福は人生のいわば残りに過ぎず、ゼロになっても本当はいいものだ。またその覚悟や死を恐れないので冒険者であって、ちまちまこつこつと生きる大多数の人にはそういう勇気はどこか憧れながらも馬鹿げたものに見える。またそう思わなければ生きて行けないので、この映画でも最後の3人は悲惨に描かれる。どっち道、死ぬのであれば人生を思い切り生きなければ損だ。それは本当はやくざな生き方だが、どのような人にもその望みは本能としてある。ただそのことを直視しないか、直視しても怯えのために見ない振りをする。またそういう夢はなるべく若い頃のもので、高齢になればせいぜい宝くじを買おうとするくらいで、またそういう大金を得てもたいていは使い道を誤る。60年代から遠く隔たった今、この映画を楽しいと思わない若者が増えているのではないか。無茶な生き方のどこが輝かしいのかさっぱりわからず、一攫千金を狙う無謀な者は不真面目であって、野垂れ死にがふさわしい。いや、いつの時代でもそう考えるのが多数派で、ずる賢い者が富をより蓄え、彼らは健気に夢に邁進している者を憎悪する。そういう連中に「冒険者」が理解出来るはずがなく、またそれほどに真の「冒険者」は小さくない。