へまをすることで一番厄介なのは方向を間違えることだろう。筆者は登山に関心がないが、昭和30年代にそれなりに登山ブームがあったようで、その頃のことと思うが、富士正晴の文章に、登山者向けの方向指示板を出鱈目な方角にあえてねじ曲げる登山者がいることを書いてあった。

ちょっとした悪戯のつもりだろうが、その方角を信じて全然違う方角に迷い込むか、大いに遠回りさせられ、場合によっては命に関わる。笑い事ではないのに、悪さをする者は後から来る者がどう困ってもかまわないという思いだ。それに似たひどい悪戯はいつの時代でもあると思うが、事の重大性を知らない、あるいは知っていながら他人はどうなってもかまわないという馬鹿野郎がいる。しかもそれが登山者にいるというのは、登山のイメージを悪くさせる。方向指示板の向き変更ならまだしも、そういう連中は上から石を落としても平気だろう。自分がされれば大いに怒ることを他者に対してするという根性は、人間の進化の過程でどこでどのように遺伝子に組み込まれたか。動物がそういうことはしないはずで、人間は他の動物より劣る、つまり進化していないと考えることも出来る。それはさておき、筆者は方向音痴で、これまでひどい間違いを何度かしたことがある。そのひとつは10代後半だったと思うが、8月に淀の町を歩いた時だ。岐路に遭遇し、どっちへ行けばいいかわからず、ともかく片方の道を進んだ。しばらくして間違っている気がしたが、30分ほどそのまま歩き続けると、見覚えのある場所に出た。それは先の岐路で、その時の筆者の驚きは今でも鮮明に記憶している。どこをどう歩いて元の場所に戻ったのか。とにかく大いに不思議であったが、元の場所に戻ったことで安心もし、その後は目指す場所へと間違わずにたどり着けた。それはさておき、10年ほど前、妹が八卦見に言われたとのことで、西南が鬼門で、その方角には行きたくないと言った。妹宅から西南は嵐山でわが家の方角だが、鬼門は東北であるのに、個人によってそれが異なるということか。城南宮は方除けで有名だが、これは何か事を起こす際に方角がよくないとされることをお祓いしてもらうのだが、方角を気にする人はお参りすればいいが、気持ちの問題で、ほとんど何の意味もない。ただし、筆者は鬼門に当たる場所はあまり物を置かず、きれいにして風通しのよいことを心がけてはいる。さて、大将軍という名称は京都では西大路通りの北野辺りにあって、その地に大将軍神社があるのかどうか知らないが、この大将軍神社は桓武天皇が都の四隅に置き、邪霊から都を護る意味があった。そこから祭神は方除けを司ることになったが、現在その四つの神社があるのかどうかは知らない。ネットで調べると西賀茂にあるが、最も有名なのは東山三条のものだろう。

この神社が現在の三条通りより20メートルほど南に位置して目立たないが、江戸時代は三条通りに面していたかもしれない。また当時は建物が少なく、遠目に森のように見え、本殿背後の銀杏の木は目立ったであろう。京都が御土居で囲まれていた当時、七つの出入り口が設けられ、そのひとつがこの大将軍神社に近い三条口であった。京都と近江を結ぶ要所で、その趣は徒歩で三条口から大津へ行く人には実感出来るだろう。またその東海道は現在の三条通りではなく、一本南の道で、となれば大将軍神社は三条通りに面していたことになる。つまり、現在の三条通りは京滋の路面電車を走らせるために拡幅したものではないか。それが今は少し南に入ったところに位置し、観光客の目に留まらない。またその現状は、神社の重要性が減り、方除けの考えも廃れたことを意味しそうだ。さて、今日の最初の写真は本殿で、左端の灯籠は上部がなく、去年の台風で被害を受けたままになっている。左上の緑が神木の銀杏だ。2枚目の写真はそのクローズアップと灯籠前の小さな立て看板で、銀杏の木が本殿の外にもあるこことがわかる。拝殿は細い4本の柱で屋根を支えていたこともあって台風で倒壊したが、樹齢800年という途方もない長生きの銀杏が無事であったのは何よりだ。これが倒れるとこの神社はほとんど意味をなさないだろう。また銀杏は写真からは痩せ細って見えるが、本殿に接触しないように適当に枝を切っているのかもしれない。そう言えば松尾橋の少し上流、左岸の公園内に大きな銀杏があって毎年見事に黄葉する。その写真を何年か前にブログに載せたことがあるが、やはり去年の台風でかなり枝が折れ、みすぼらしくなった。四方から風をまともに受けるのでどうしようもないが、この大将軍神社の銀杏は建物に囲まれて安泰のようだ。3枚目の写真は西を向いて撮った「荒熊稲荷社」で、去年の台風で倒壊した後に建て直された。稲荷社はさまざまあり、「荒熊」と名乗るものは全国にあるようだが、その意味はわからない。背後に鉄筋コンクリートの新しい建物が見えるのが残念だが、これは台風で社を囲む樹木がなくなったからだ。以前の様子はネットに写真が出ていて、屋根は唐破風であった。それを復元しなかったのは理由があるのか。植樹して2、30年経つと鬱蒼とした雰囲気に戻るだろう。それにしても台風ひとつで大きな被害を受け、修復には費用と月日を要する。その費用をこの神社がどう捻出するのかだが、寺と違って檀家があるのではなく、篤志家による寄付にもっぱら頼るのだろうか。あるいは地元のお祭りがあり、氏子が負担するか。大きな神社ではないので、誰が負担するにしても大変なことだ。これは筆者の想像だが、村山造酢が氏子では最も金持ちのはずで、その会社がかなりの部分を尽力しているのではないか。