極端に暑くなり始めた。昨日はようやく梅雨が明けたようで、「風風の湯」の常連客の間でその話題になり、水風呂がこれまで以上に心地よいことで意見が一致した。猛暑になると筆者はクーラーのない3階では過ごせない。

それで毎年1階の北端のわが家で最も涼しい場所に陣取るが、ノート・パソコンでは文章を綴りにくく、3階のデスクトップを移動しようかどうかと迷っている。夜は比較的風が涼しいので、深夜にこれを書けばどうにかまだ3階が利用出来るが、そのうち熱帯夜の日が続くだろう。猛暑であれば長文を書くのが面倒で、本来は一度で全部載せるべき写真を今日と明日の二度に分けて使う。今日の最初の写真はある人から先週いただいたファイルで、0型つまり初めて登場した「飛び出しボーヤ」の一部をデザインしている。これをいつも筆者が座っている3階の部屋の真正面より少し上にかざして撮影した。この0型の「ボーヤ」の著作権があるのかどうか知らないが、あるとすれば発案者が所有しているだろう。またさまざまな商品が作られていると思うが、その商品をそろえた店が発祥の地の東近江市のどこかにあるのだろうか。あるとすれば京都や大阪の百貨店などに販売コーナーがあっていいと思うが、筆者はそういう売店を知らない。今日の写真の2,3枚目は金森幹夫さんが4月20日に東近江市に出かけた際に見かけた「ボーヤ」で、昨日と今日、三度のメールで送られて来た。つまり、筆者が見つけたものではなく、筆者がブログで「ボーヤ」についてたまに書いていることを知る人の協力による。これは初めてのことで、嬉しい。金森さん撮影の残り3体の「ボーヤ」は明日使うが、どの写真も筆者がかなりトリミングし、また「ボーヤ」の裏と表が同じデザインの場合は表側の写真のみ採用する。ということは今日の3枚目は裏と表が女子と男子という変わり種だ。2枚目は奧に0型、手前に近江米の俵を担ぐ姿で、これは農協辺りの看板かと思うが、奧の0号の支え棒には「東近江市観光協会」の文字がある。また写真を切り取った左端部分にはさまざまな無料の観光案内パンフレットを置いたスチール棚が写っていて、駅前の観光案内所だろう。右下隅にスマホをかざす金森さんの、また左下隅に別人のそれぞれシルエットが見え、ふたりの笑顔が見えるようだ。また影の長さからして午前9時前後か午後5時前後だろうが、ファイル名前の番号からして最初の撮影で、前者の午前中であろうか。それはさておいて、東近江市には種類も数も豊富にありそうだ。ひょっとすれば「ボーヤ」を観光資源のひとつとして役所は考えているかもしれず、それが2枚目の写真に表われていそうだ。金森さんが東近江市を訪れたのはサッカーの試合を見るためで、サッカー場があるとは筆者は知らなかった。金森さんはライヴハウス通いと、夏場の盆踊り、それにツイッターにスポーツ好きと紹介されている。

3枚目の写真と明日の3枚の写真は金森さんが同じ日、水口の曳山祭りに立ち寄った際に見かけた「ボーヤ」で、3枚目は実は以前にたとえば
「その7」で紹介したことがあるが、男女が裏表一体になったものは珍しいかもしれない。あるいは2種を貼り合わせたものか。0型ほど有名ではないが、商品として売られている。またこの型を手作りし、デザインを少し変えながら、色目は0型に近いものを、先日
「その51」に紹介した。目がぱっちりとしていて、手製のほうがかわいらしく、また目立つ。ここまで違うと著作権侵害は問われないだろう。0型以外に市販されているものでよくみかけるのは3種類あり、手製ものはだいたいそれらを模しているが、全く自由奔放なデザインのものが京都には多い気がする。これは何事も発祥の地から離れるほどに変化が著しくなることの一例だが、またさらに遠く離れるとより変化に富むかと言えば、これは調べてみなければわからない。案外大阪のものは滋賀に近く、0型が目立つかもしれず、これは地域によってどういうデザインを採用するかという事情がまちまちなはずで、種類の統計を取っても、種類の多さや滋賀に近いことの理由まではわからないだろう。また筆者はこの「ボーヤ」の設置がどこまで広がっているかに関心があり、たとえば滋賀を越えて福井にもあるのかどうか、設置の極北はどこかが気になる。案外それももう調べている人がいて、ネットでわかるのではないか。そう思いながら、「ボーヤ」はせいぜい数年しか持たない消耗品で、調べて報告した時点でもうなくなっている場合もある。それはわが地元の嵐山を何年にもわたって見ているとわかる。あったものがなくなることはさびしいが、新たなデザインのものが設置される楽しみもあって、人生とはそういうものという感慨が味わえる。誰にとっても明日は新しく、その中で予期せぬ何かと遭遇することがある。その「飛び出しボーヤ」的な出来事に気を取られながら、やがて忘れ、また新たな「ボーヤ」が飛び出して来るが、それは車を運転しながら「ボーヤ」をちらりと見ることに似て、人間は気がかりを抱えながら生きる。その気がかりに苦しめられることも多いが、その苦しみが生きている証と達観するほどに自身を客観視出来れば、苦しみも楽しみに少しは変わる。苦しみと喜びが表裏一体であるのは、「ボーヤ」が裏表反転可能なことからもわかる。最初の写真のファイルは、「ボーヤ」が左向きで、ファイル裏面は右向きのものが印刷されているかと言えば、無地だ。座標としては左向きはマイナス方向で、前進よりも後ろに向かっているように感じる。そこまでこのファイルの「ボーヤ」の意味を読み取るのは極論だとデザイナーが言えば、彼は二、三流だ。そこで「ボーヤ」がマイナス向きに飛び出す図が負へ向かうのでないならば、他にどういう読み取りをすべきか。これは各人が理屈をつければよい。