麦酒を切らしているので今夜は麦茶で我慢したが、酒と茶では亀田窮楽と売茶翁の仲よしでもあって、たまには酒を我慢して冷えた麦茶をがぶ飲みするのもよい。
息子のアパートには安物の蒸留麦酒の瓶があったが、安い賃金では何もかも質が落ちるのはやむを得ない。それで極上の気分になるように努力するのがまた楽しというほどの気楽さを持てばよい。それにしても最近のTVのひどさは頂点がきわまって、ただただ腹立たしい。それでほんとど見ないが、ネット・ニュースで嫌でも目につく。昨夜はお笑いを大阪の文化の代表と言う女性お笑い芸人の意見を見たが、大阪のお笑い芸はまだ百年の歴史もない。吉本のお笑いは大阪の下品さを日本中にまき散らしている元凶でもあって、蒹葭堂やその交友の時代から『細雪』でも描かれる大阪独特の品のある文化を復権させる気運がいつ湧き起こるのかと思っているが、TVがある限りは無理だ。つまりはもう不可能だろう。これも前に書いたが、日本の政治家はほとんどやくざで、それがTVを利用して地位の安定化を図り続け、そこに吉本やジャニーズもどこかで絡んでいる。政治家はもとより、吉本を代表する芸人もジャニーズも筆者にはみな下品で薄汚く、ずる賢く見えて仕方がない。昔、母校のK先生とそのような話になった時、先生は『あくどく大金を稼いで派手な暮らしをするのはやくざの本質』と意見された。そのとおりで、筆者は金に縁のなかった窮楽や売茶翁の世界をしばし夢想し、また精神的にK先生とつながっていたいと思い続けている。今の日本が画家や音楽家、小説家の時代ではなくなり、「お笑い芸人の時代であった」と百年後に歴史観が共有されるとすれば、これほどなさけないことはない。ではアニメの時代であったかとなると、筆者はこれには全く関心がない。日本では反権力の思想が根付かず、どんなに搾取されても現状維持がよいと若者も考える超マゾ社会で、金の分捕り合戦を人生最大の意義と捉えて消耗して行き、その勝者は肥溜めのように臭う。筆者の人生も年齢的にもうかなり消耗しているが、それでも未経験のことに挑戦したい思いは無限にあって、ちょうど1か月前に鶏頭の種子を入手した。その種子を蒔き、水やりは梅雨の雨に任せて幼葉が生え揃い、今日はしげしげ見ると、黄緑色の葉や茎に臙脂色が一人前に少し混じっていることに気づいて笑みがこぼれた。今日の最初の写真はわが家、2枚目は隣家で、前者の鉢から成長のよいものを抜いて隣家に直植えしたが、成長の遅い周辺部は、庭全体に広がっている蕗の大きな葉に光を遮られていたためだ。それに梅雨が長引き、日照時間が短い。近日中に鉢植えのものから抜いて後者に植え替えよう。目下鶏頭に傾倒中で、どんな花が咲くのか楽しみだ。ともかく、麦茶で乾杯。迷路のようなくねくねした形の赤い花が咲けば、冷えた麦酒を飲みながら窮楽の書を眺めよう。