のっけから男くさい場面で、主役のウィリアム・ホールデンが数人の男とともに保安官の恰好をして馬に乗って登場するが、インディアンを殺すカウボーイ映画ではなく、20世紀初頭のアメリカにいた強盗集団「ワイルドバンチ」を描く。
監督のサム・ペキンパーは彼らの生態を忠実に作品化せず、娯楽映画として仕上げた。全編でどれほどの銃弾や火薬が使われたのか、戦争映画さながらで、その暴力の描写は今では歓迎されないだろう。製作された1969年はヴェトナム戦争真っただ中で、その戦争の構図を本作に認めようとする人もあるだろう。それは戦争の背後に経済的に太る親玉がいるということで、ならば本作の中心になる強盗集団はヴェトナム戦争では兵士ということになるが、彼らをアウトローと断定すれば大きな批判を受ける。富士正晴も書いているように、兵士は相手国の住民を蹂躙し、泥棒集団と化するもので、ヴェトナム戦争でのアメリカ兵にもそういう連中はいたとはいえ、本作を当時のヴェトナム戦争との絡みで読み解く人は今は少数派で、ほとんどの人には銃を撃ち合う娯楽映画の印象しか残らないのではないか。筆者が1年ほど前にこの映画のヴィデオを買って見た時はそのように感じたが、昨日また見直して理解がはるかに及んだ。本作を知ったのは数年前にブルース・ビックフォードが好きな映画として真っ先に挙げていたからだ。彼の粘土アニメは暴力的な内容がほとんどで、それが何に起因するかが本作を少しはわかった気になった。本作の公開はブルースが22歳頃で、アニメ作家として影響を受けるのはちょうどよい時期であった。また、男中心の本作をブルースが好むのは、彼が独身のままであった理由と無関係とは思えないが、それは本作に描かれるように、女は男を裏切るもので、また男の一時の慰め物であるという、今では女性蔑視として糾弾される見方に同意していたためとも考えられる。だが、そのことをブルースに質問した人はいないだろう。それで筆者は勝手に想像するだけだが、本作での女の存在は大きくなく、やはりアウトローとしての男の生き方が中心で、ブルースはそこが気に入ったに違いない。アウトローの捉え方は人さまざまで、犯罪人から単に組織から外れた人まであって、もちろんブルースは後者で、犯罪の礼賛はしていない。またそういうアウトローも収入が必要で、それには何からの仕事をせねばならず、ブルースの場合は自分の手を使ったアニメであったが、組織の一員として給料を得るのではなかった。その自由業者は給料生活者からすればアウトローかそれに近い。アルバイトにしろ、サラリーマンにしろ、誰かのために働いて収入を得ることはその誰かから幾分かは搾取されている。お互いに儲けるのであればいいが、たいていは労働者より雇用者の取り分が多い。本作はそういうことに意義を唱えるのではなく、アウトローにも情けがあることを強調する。
タイトルロールは、メキシコの貧しい子どもたちが2,3匹のサソリが蟻の大群に抵抗している様子をニヤニヤと眺めている場面で、それが一時停止して白黒画面となって俳優や監督名が表示される。この冒頭のシーンは弱肉強食の反対で、映画の内容を象徴しているかに思わせるが、名のない庶民が団結ないし意図して不正を働く為政者を倒すという物語ではない。また本作は黒澤明の『七人の侍』に多くを負っていることを早々に気づかせるが、となれば山賊に困っている農民を助ける侍たちという構図を20世紀初頭のメキシコのアグアペルデという町に適用した本作は、七人の強盗であるワイルドバンチが侍、山賊がマパッチ将軍率いるメキシコ政府軍、彼らの命令にしたがう貧しい住民たちが影の主役ということで、子どもたちが蟻にサソリを襲わせている遊びは本作の結末をたとえていることになる。タイトルロール後にもこの子どもたちの残酷な虫遊びの場面が使われ、そこでは子どもたちはサソリと蟻に藁を被せて火を放つが、この一網打尽の殲滅の様子は本作の最後に用意されているワイルドバンチとマパッチ軍との派手な銃撃戦を意味していて、サソリがワイルドバンチ、蟻がマパッチ軍と見ることも出来る。またそうなれば住民にとってどちらも厄介な存在で、マパッチ軍が全滅してワイルドバンチが生き残ると、それはそれでまた住民には災難であるとの暗示がある。実際本作ではワイルドバンチは住民から信用されず、それどころかパイクは女に殺される。つまり、サソリはマパッチでありワイルドバンチでもあって、ワイルドバンチはメキシコの住民に乞われてマパッチに対抗するのではない。またマパッチや政府軍は全滅するが、銃撃戦の場にいなかったひとりの老人のワイルドバンチだけは生き残り、彼は銃撃戦が終わった場を訪れ、そこで座り込んでいた、賞金のついたワイルドバンチを追っていたかつてのパイクの知り合いの男ソーントンに向かって、「昔のようには稼げないが、これから一緒に仕事をやろう」と声をかけ、同意される場面で映画が終わる。これはワイルドバンチのような存在が形を変えて生き残って行くことを意味する。ワイルドバンチは強盗であるので、あまり格好よく描くことは不道徳だが、彼らよりもっと悪い連中としてマパッチ、あるいは彼を陰で支える白人の資本主義者がいて、観客が彼らよりも権力を持たない悪としてのワイルドバンチに肩入れしたくなるように描いている。この半権力の姿勢は当時のヒッピー文化の反映だが、浪人の侍と銀行強盗を同列に置くことには無理があり、ワイルドバンチが人の情けをさまざまな場面で見せはするが、結局は銃撃戦で全員が死ぬところに、「悪は滅びる」というキリスト教的な教訓を盛ることを忘れていない。それゆえ、『七人の侍』とは違って、物語の構成はもっと複雑で、それが一度見ただけはわかりにくい理由になっている。
ウィリアム・ホールデンがパイクを演じるのは実在のワイルドバンチを美化し過ぎのように感じる。彼らは豪胆ではあったろうが、紳士的な雰囲気はなかったと思う。紳士的であれば銀行を襲わずにもっと知的な方法で大金を得ようとするだろう。人は見た目で判断されると言われるが、ワイルドバンチの時代もそうであったはずで、銀行強盗をする連中はそれにふさわしい一種の威圧感を持った独特の雰囲気を発散していたであろう。お笑い芸人の闇営業が問題になっているが、呼ばれて行ったところにいる連中の顔や姿を見れば、即座に反社会的な人物たちであることがわかるはずという指摘は正しいだろう。それは子どもでも感じるもので、生きて来たとおりの雰囲気を大人は発散している。俳優はそれを真似する職業ではあるが、知的で落ち着いた雰囲気のあるホールデンは役柄に限界があったのではないか。あるいはペキンパーがあえてホールデンを選んだのは、ワイルドバンチを単なる強盗集団として描きたくなかったからで、その頭であるパイクはみんなを統率する特別の才能があり、また金や命よりも情を重視する男ぶりを強調したかったためだ。だが後者は強盗として詰めの甘い行動を引き起こしがちで、本物のワイルドバンチは薄情に徹していたかったはずだ。それで本作の見どころはその男の情を描くところにあり、それによってパイクや他のワイルドバンチも命を落とす。またそうであるから彼らが恰好よく見える。それは男の恰好よさは潔く滅ぶところにあるとの考えで、言い換えれば賭博的な人生を歩むところに恰好よさがある。また賭けに勝ち続けるはずはなく、いつか失敗して命を落とすが、それをよく知りながらそういう人生へ憧れ、あるいは仕方なしに選ぶしかない出自があって、アウトローは男のあるべき姿という美意識が本作からは伝わる。そのアウトローに俳優や映画監督も含まれる。仕事がなければ食いはぐれ、仕事があってもそれが博打と同じく当たるかどうかの保証はない。また当たれば大きいが、その大きさを第一の目的として彼らは生きてはいない。乗るか反るかのスリルを本能的に好む狩りの本能を持っていて、狙った獲物を手に入れることが目的で、獲得後はあまり関心がない。そのようなことを本作はパイクの行動を通じて描いている。だが、繰り返すといわば芸術に携わる者と銀行強盗は本質的に顔つきが違うはずで、ホールデンは最初に登場する瞬間から悪党には見えない。もちろんこれはペキンパーがパイクを根っからの悪党ではないと考えたからで、その甘い考えに、強盗を美化することとは別の生ぬるさ、またワイルドバンチの脆さを感じる。フランス映画であればもっと非情さを強調し、ワイルドバンチは金は失っても生き延びるように描いたのではないか。そっちの方がはるかに現実的で人間臭い。
本作のワイルドバンチは最初は7人だが、映画が始まって間もなく、銀行強盗をする際に見張り役の若い男が撃ち殺されてしまう。残りの男たちはその若い男の祖父と合流し、その際パイクは孫が立派に仕事をしたと伝える。祖父は淡々としたもので、悲しまない。そこに悪党として生きて来た死生観、つまりいつ死んでもよいとの思いが垣間見える。その爺さんはパイクらに加わって、マパッチ軍に列車強盗で奪った銃や機関銃を売りつける交渉の過程で足を負傷し、パイクらとは別行動をする。その爺さんを山の上から監視していたのがパイクらを捕まえて賞金を得ようとするソーントン一味だが、ソーントンはかつて売春宿にパイクといた時に襲撃され、パイクは逃げのびたものの、逮捕される。それで服役したが、パイクにまた襲われることを心配する人物から、「服役から逃れたければ、1か月以内にパイクらを捕らえるか殺せ」と命令される。それでパイクらを追うが、結局映画の最後でパイクらは全滅し、それを現場で知って途方に暮れているところに、足を負傷したワイルドバンチの最も高齢の前述の爺さんがやって来る。時代を継ぐべき孫が強盗を働いている時に死に、何も役立っていない爺さんが生き残るというのは、ワイルドバンチのような派手な強盗集団はもはや時代遅れであることをうまく説明している。ソーントンは本作では全くの役立たずという存在として描かれているので、彼が爺さんと組んで時代に見合った一攫千金の夢を見たところで、ドジを踏むのは目に見えている。そういう本性であるので売春宿でも自分だけ捕まった。この売春宿のエピソードは、女を厄事をもたらす存在であることを暗示し、パイクがメキシコ人の赤ん坊を持つ若い美女に撃ち殺されることと呼応している。荒くれ男であるので精の吐け口は必要で、マパッチ軍と一戦を交える直前、彼らはメキシコの女性たちと戯れる。ワイルドバンチは好きになった女とまともな暮らしをする夢をどこかに持っていて、一味に兄弟で加わっているふたりはメキシコ人女性とどんちゃん騒ぎをした後、真面目な顔で彼女らと結婚するとパイクに言う場面がある。だが、そういう生活には大金を手にしなければならない。パイクは美女と寝た後、赤ん坊がいることを知り、彼女に金貨を1枚手渡す。それは法外な代金で、彼女はパイクに感謝するかと思いきや、銃撃戦が始まった後、彼女はパイクの隙を突いて銃弾を放つ。これにペキンパーは言葉を全く使わない。女はパイクの優しさを知ったはずだが、それでも拭い去れない憎悪があった。それは映画冒頭のサソリと蟻の戦いを藁で燃やしてしまう子どもたちの心境と一致している。結局はマパッチもワイルドバンチも虫けらとの見方だ。言葉の代わりに俳優の目で事情を語らせるペキンパーで、パイクを撃った女は理不尽なことで夫を殺されたのであろう。彼女にすれば政府軍もワイルドバンチも同類だ。
メキシコ革命は1910年から17年にかけてで、本作はその様子を直接には描かないが、ちょうどその間の出来事という設定だ。好き放題しているマパッチに好きな女を奪われたワイルドバンチの一員であるメキシコ人の男性が、マパッチに媚びを売る彼女の様子に激怒して射殺する場面がある。当時のメキシコの女はわずか2ペソで男に体を買われ、金のある権力者にすり寄らなければまともな暮らしが出来ない状態にあった。その現実を知りながらも、男はマパッチにすり寄った女が許せないのだが、女に向けて放った銃弾がほんの少し外れればマパッチに当たっていたので、マパッチは彼を捕らえる。パイクはメキシコ人同士の諍いとして一旦はその場を去りながら、マパッチとの銃の取り引き後、彼を取り戻そうとする。だが、マパッチはすでに彼を車の背後にくくりつけて引きずり回し、半殺しの状態にしている。それを目撃してパイクはマパッチや政府軍相手に銃撃戦を仕掛けるが、それはメキシコ革命への同情ではなく、ワイルドバンチの仲間を見捨てられないという義侠心だ。これは日本のやくざ映画にいくらでも似た筋立てがありそうだが、逆に日本のやくざ映画が学んだかもしれない。日本のやくざ映画にも女は重要な役で登場すると思うが、本作ではほとんどパイクとその仲間のメキシコ人のふたりに絡む女のみが目立ち、またどちらも男を裏切るので、男女の愛を信じない暴力映画となっている。その殺伐さと反比例するかのように、テキサスやメキシコの空は晴れわたり、自然がとても美しい。また本作はカット数が3000に及んで人間の表情をほとんど1秒ごとに切り替えて見せる場面があるが、そうした人間のせわしない動きをする人間は雄大な自然をかき回して砂塵を巻き起こし、それを血で染める。そこに人間の愚かさを天上から見下ろす監督の眼差しを感じさせるが、それは本作が始まって間もなく登場する野外のキリスト教信者の集まりによる禁酒奨励などの訓戒行動が、ワイルドバンチによる銀行強盗の直後、銃撃線で蹴散らされてしまい、神の存在もあったものではないという無慈悲さ見据えてのものだ。また、ペキンパーはメキシコ革命を描く資格はないと自覚していたはずで、アメリカの常に死の危険のある生き方をしている強盗団が罪から逃れるために国境を越え、そこで政府軍相手に大儲けしつつ、結局はその地で死に絶えるというまっとうな筋立てで娯楽映画を撮るしかなかった。監督によるメキシコ革命に対する一種の総括としての思いは、新しい世代が新しい国を造ることを示唆するのみで、それはタイトルロールに登場するサソリと蟻を戦わせた挙句、藁を燃やして死滅させるメキシコの子どもたちになぞらえられた。また、メキシコらしさとして銃撃戦のさなかに演奏家がのんびりと音楽を奏でる場面は違和感があるが、悲惨な生活の一方、そういう気晴らしも必要であったことを思わせる。
ワイルドバンチが汽車に積まれた銃や機関銃の武器を奪う場面は見物だ。その汽車にソーントン一味が乗っているが、パイクは一枚上手で、ソーントンらは何も出来ずにへまをする。パイクらは汽車ごと奪った武器を2回に分けてマパッチらと現金と引換え、また銀行を襲った時のようにワイルドバンチのふたりの兄弟は取り分で文句を言わない。これはパイクの頭があっての収入で、大物はどの世界でも賢い人物がなるものだということを思わせる。また汽車の登場は西部劇ではよくあるが、マパッチが派手に乗り回す赤い車はヨーロッパならいざ知らず、砂漠が広がるメキシコでは異様に映る。それはマパッチの権力と派手好みの性格を示すが、外国の資本家と結託して贅沢な暮らしをしているマパッチは、ワイルドバンチのどこか時代遅れの雰囲気を凌駕していて、ワイルドバンチに限らず古き存在は滅びる運命にあることを本作を見る者に感じさせる。面白いのは、飛行機は登場しないが、それについて語られる場面があることだ。性能がよくなった飛行機が空から攻撃し、またノンストップで長距離を飛べるようになって、そのことで第1次世界大戦は都市が空爆された。それは馬に乗って銀行や汽車から強奪するワイルドバンチの時代ではないことを側面から伝える。またそうした新しい文明の機器の象徴として、汽車から奪った武器に一丁の機関銃が混じっていた。マパッチはこれを知って欲するが、パイクは最初の約束にその品物は入っていなかったと拒否する。結局マパッチの手にわたるが、その扱い方を知らない政府軍は、村人と政府軍がどんちゃん騒ぎをしているさなか、それを派手にぶっ放してしまう。この場面は凄まじく、その後に徹底的に繰り広げられるワイルドバンチと政府軍の戦いの予告になっている。この一網打尽にする機関銃は第1次大戦に使われたもので、本作では荒唐無稽の小道具に見えて、時代背景からしてメキシコに一丁くらい運ばれてもおかしくないものだ。またこの機関銃によって村人は別として戦う人物は全部死滅するのであるから、冒頭の子どもたちによるサソリと蟻の戦いを藁を被せて燃やしてしまう行為は機関銃を意味していたことになる。つまり、機械文明の本格的な到来が新時代をもたらし、本作のワイルドバンチのような悪漢が同じように活動する機会はうんと減るとの予想は正しい。その意味で本作は『七人の侍』に倣った前時代的な、まだ情けが滅び切る前の一種の男のロマンを描いたものとなっている。機関銃はまだ手で動かすが、その後のもっと精密な機械はブラックボックス化し、ネット時代になってさらにそうなって、人間は肉体の持って行き場に困っているところがある。それで暴力は間接的にはネットの世界に、直接的には家庭や学校、職場に侵入し、悪は形や規模を変えて蔓延しているが、アウトローはそれを間接的にあぶり出す役割をするしかない。