俳句をまず。「ツーオーツー 乙な音玉 増えつ消え」。先月25日に4番目に登場したのは「2o2」と称する若い男性だ。金森幹夫さんに訊くと、「イケツ」さんと呼ばれている。奧さんとのふたりでは
「hatonoband」として活動中で、YOUTUBEによれば奧さんがシンセサイザーを奏でながら歌う。

その際のイケツさんの伴奏は「2o2」の演奏と音色は似つつもポップス指向だ。「2o2」としてのYOUTUBE映像は、ごく短いが
瓢箪山にあるバーでのライヴがあって、昨日取り上げたギタリストのtbt Sさんの名前が併記されているので、知り合いであるのだろう。だが、同じギタリストでも全く音楽性は異なり、「2o2」はより静的で詩情の表現を目指すサウンドスケープと言ってよい。ライヴ終了後にイケツさんと少し話が出来たが、彼によれば「2o2」の真ん中の丸は小文字の「O(オー)」で、それを挟むふたつの「2(ツー)」は水鳥をイメージしたとのことだ。いかにもケータイ世代を思わせる「顔文字」的発想で、「2o2」はボールを両側で支える水鳥ではなく、笑っているか泣いている仔猫の顔にも見える。いずれにしても「2o2」の名称は視覚性への関心を伝え、それが彼ひとりで演奏する曲の特徴になっているが、サウンドスケープと形容するのであれば視覚的であるのは当然だ。また彼の奥さんは金森さんと同様、盆踊りを好むようだが、彼はそうではないらしい。その理由は盆踊りの音楽が繰り返しであるからで、彼は繰り返しの多いダンス音楽は好きではないのだろう。となればミニマル音楽も好まないと想像出来るが、たとえばスティーヴ・ライヒの音楽は全く同じメロディを繰り返すダンス音楽ではなく、数小節ごとにある楽器が音を少しずつ加えたり、変えたりして行く。そのため、ある数秒間を取り出すとどれも全く違うが、一方で劇的なクライマックスがあるのではなく、どの瞬間も均質的である反復性に特徴がある。つまりいつ終わってもよく、いくらでも長く出来る音楽と言ってよい。そのため、聴き手は退屈と思いがちだが、即興演奏を含まないその絶えず少しずつ変化する様子に身を任せて楽しむ立場もある。ライヒはコンピュータも使うが、表向きは精密に作曲されたライヒのミニマル音楽と似た作品が、サンプリングの手法によって誰でもパソコンで生み出せるようになった。それはつまみひとつでミニマルな単位の音の列をパソコンで奏でさせ、その速度を緩急自在、音量を大小に変調するものだが、そこに別のサンプリングした音を加えたり減らしたりすれば、その音の重なりはつまみ操作の開始終始によって毎回違うものとなるし、またそこに生演奏の音を加えると、毎回ある程度似ていながら異なる絵を描く行為と同様の演奏が出来る。それは移ろう自然を連想させたり、またその自然を通して夢見るような自由な場面を思い描かせたりする。

さて当夜の演奏はニューエキスポよりも若干短く、15分程度であった。玉が弾けるような「パチン!」という音から始まり、やがてその音の間隔が縮まって明白なリズムになり始めると、今度は口琴で発したかのような、バネを伸縮するよう「ビヨヨーーン!」といった音が現われた。その後さらに別の音が小さく順次加わり、家内工場のいろんな機械が同時に動いているような様子を想像させたが、これらの音は奇妙な打楽器の集合体と言ってよいもので、カフカの小説『流刑地にて』に登場する拷問機械の動きを思い浮かべるのもよい。また実際イケツさんは今日の最初の写真の機器の前で立ったまま、たまに操作する程度で、ほとんど自動演奏の趣があったが、彼の姿から筆者はザッパのアルバム『グランド・ワズー』の裏ジャケットのイラストのように、実験室内の人物つまり錬金術師のように見えた。イケツさんはほんの少しつまみなどを操作してやがて音楽がさまざまな音の洪水状態になった頃、その状態のまま、機器と並べ置いた小さなギターを奏で始めた。それは弦楽器のような持続音を発し、その音がさらに増加して行って騒々しさの頂点に達した時、突如音が途切れた。そこまで10分ほどで、その時点で演奏が終わってもいいのだろう。その10分は最初の1音に別の音色の音が加わり、さらに別の音が加わるという多重演奏で、それぞれの音はリズムが違うので、次第に混沌さが激しくなって行くが、それが頂点で突如終わるのは、最初の1音から予想されることだ。それは最後がどうなるかという予想がつく点で使い古された古典的な形式で、ある意味では退屈だ。演奏を聴きながら筆者が思い浮かべたのは、ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の中間部と最後の弦楽器群のゆっくりと高まって行き、最後にぷつりと終わる様子だ。その形式を、自分で録音した音をいくつか揃え、パソコンを通じて小出しにしながら同時に奏でつつ、そこに変調させたギターをある程度即興で奏でて加えて行くことで再現したものと言ってよい。電子音楽が発明された当時、そういう音の増殖の音楽が書かれた。最初の1音は水の滴りを表わし、やがてその音の間隔が短くなって行くと水の流れを想像させるが、そこに別の水流の音が加わるなどして、最後は豪流を想像させる大音量へと変化して行くという曲だ。その手法は新しいものではなく、スメタナの『モルダウ』の川の流れの場面にあったものだ。それがさまざまに形を変えて電子音楽の作品に使われ続け、先日触れたアルヴィン・カランの『磁場庭園』にもある。つまり、最初の印象的な1音の微視性が、やがて巨大な集合音としての巨視性へとつながるのだ。そこでまた音を少しずつ減らして最後は最初の1音で終わることも出来るが、その全体として二等辺三角形の底辺を上下逆さまにくっつけた形の作品は、後半部に入るとさらに成り行きが想像出来る点で退屈だ。

それでやはり最大の音の種類と音量となった直後に断ち切られるほうが潔くていいが、曲全体は完全な予定調和で、いわば誰でもやりそうなことだ。そこでイケツさんは「2o2」の二番目の「2」としての音楽をさらに続けた。つまり、「o」で一旦ご破算になった増殖音楽は、その後アンシンメトリカルに前半部を減衰させず、「2」の反左右対称が「2」ではないように、最初の「2」と違うもうひとつの「2」としての新たな音楽を始めた。それは前半の「2」としての、打楽器に弦楽器を加えたような音とは全く違うもので、ハーモニカのような空気を震わせたような音色だ。それが数音鳴り始め、また次第にその音の数を増して行き、最後はやはりぷつりと終わって演奏が終了したが、前半の「2」の部分とは音色が全然違い、また演奏時間も半分ほどなので聴き手の注意を引きつける効果がある。それにハーモニカのような音のみが増殖するので、前半の「2」の一種余韻を味わうような感じだ。それが詩情を掻き立てると言えばよい。おそらくイケツさんは同じ曲を倍の30分に引き伸ばして演奏することも出来るだろうが、冗漫さを排除出来るぎりぎりの長さが15分程度なのだろう。スティーヴ・ライヒの作品は筆者には長過ぎると感じさせるが、聴き手に緊張を強いて聴かせるには、15分程度がいいのだろう。短くても内容が濃いのは俳句の伝統だ。ところで、当夜の曲名は伝えられなかったが、前半の「2」の冒頭に、玉が弾けるような音ではなく、後半の「2」のハーモニカのような音を奏でることは簡単なはずで、その演奏であれば全体の印象はがらりと違うであろう。これは漸次増殖する音群という型は同じでも、その内容を変えることは簡単で、またそのたびに違った音の風景を現出させ得る。画家で言えばパレット上の絵具の色数は同じでも、その配置や使用量の差によって全然違う絵が描けるのと同じことだ。つまり、漸次増殖が最大に達した時に音楽を停止するという月並みな方法であっても、いくらでも変化は可能で、この型の内部で自由を追求する態度は、たとえば俳句と同じだ。イケツさんが同じサンプリングの音を使いながら漸次増殖ではなく、スティーヴ・ライヒの作品のようにほとんど最初から最後まで音の厚みを均一化した演奏も出来ると想像するが、それではライヒの作品のようなスリリングさはまず得られないだろう。ライヒの作品は楽譜に厳密に書かれたもので、再現可能なものだ。イケツさんの演奏はパソコンを使いながら、基本は即興で、同じ演奏の再現は不可能なはずだ。それでもtbt Sさんの即興ギターと同様、演奏はいくつかの型に分解出来るはずで、またそこに個性が宿る。つまり、その型とはいつでもどこでも全く同じく演奏可能という意味ではなく、本人しか演奏出来ない、分解不可能な確固としたもので、そこに本人の詩が宿っている。