緋色で染まる地下の牢獄で爆音を聞かされる拷問を思う人があるだろう。先月25日に3番目に登場したドラムスとエレキ・ギターのデュオによる20分ほどの即興演奏は、これまで筆者がライヴハウスで聴いた中では最も「マジすさまじ」の音であった。

日本の『地獄草紙』が描かれた時代には聴覚を麻痺させる拷問はなかったと思うが、釣り鐘に人を閉じ込めて鳴らす責め苦は考えられたかもしれない。ともかく、電気の時代になって人間の聴覚は以前には知らなかった音を認知出来るようになり、またそれはまだすべて開発されたとは言えず、音楽家が未知の音を日夜探している。それはザッパが言ったように、「空気の彫刻」としてまだ誰も見たことのない作品で、たとえば同じエレキ・ギターを用いながらも、エフェクターによってギターとは思えない音が出せる。またその出し方は演奏者の個性によるから、似たようでいて違う作品が無限に出来る。これは同じ人の作品の場合にも言えるが、同じ個性であるから、即興演奏であってもどこか似た箇所はある。これはA,B,Cという3つの作品を措定し、AとB、BとCにそれぞれ共通する何かがあってもAとCにはそれが全くない場合があるが、Bの存在を介してAとCはつながっているので、3つの作品は同じ人物のものであることがわかる。ここに様式の考えを持ち出してもよい。全体が即興演奏である曲は厳密には毎回違うが、意識しなくても似ている部分は必ずあり、それが演奏者の個性を形成するとみなされる。即興演奏に限らず、どのような音楽、また作品であってもその個性を味わうところに芸術の意味や面白さがあるが、作品間の似ている部分が多過ぎると創造力のない自己模倣だと言われ、少な過ぎると何を表現したいのかわからないとみなされる。もちろんそれは聴き手側の感受性の差により、また明らかなマンネリでもそれを喜ぶ人がある。また毎回全く違う即興演奏をしようとしても、短期の間ではそう変化はなく、そのことをマンネリと指摘する人もあるはずだが、そのマンネリを様式と言い換えてよい。即興演奏であっても数をこなせば型にはまったところが生じるから、聴き手は気後れする必要はない。どういうことかと言えば、騒音地獄を表現したような爆音即興であっても、そこには一定の意識の流れや音を変化させるその技にある程度の規則があって、それを把握すると演奏者の個性がわかり、普通の音楽と同じように楽しめるということだ。これは演奏者が全く何からも自由になって演奏しているようでも必ず型を用いていて、そのいわば癖が演奏者の様式となる。演奏するほどに慣れや得意な奏法によって、聴き手には個性と思われる箇所が定まって行くが、演奏者がそれを捨てるには新たな自分を見つけることだ。その批判的精神を常に自分に突きつける者だけが豊かな創作への道を歩む。

「ニューエキスポ」は「new expositin」で「新万博」のつもりであろうが、筆者は「ニューエキスプロ」(new explosin)で「新爆発」を思う。また彼らの演奏が爆音即興であるからには、その勢いを表現するために筆者も思いつくまま書き進む必要を思っている、予め何を書こうかはおおよそ頭に描いている。それに筆者の語彙の少なさから自ずと癖すなわちマンネリとしての型、悪い意味での様式が随所に表われるはずで、そのことから彼らの演奏にも型があると考える。さて、金森幹夫さんが当夜ベアーズに行くことにしたのは、以前見たニューエキスポの演奏をもう一度見たいと思ったからだ。さて、金森さんによれば、ニューエキスポのギタリストのtbt Sさんは去年11月中旬までは女性とのデュオ「終わらない映画」で活動し、その後kevinというバンドに在籍するYuichiさんと加わって「ニューエキスポ」と名前が変わった。その後男性を加えた4人編成で二度ほど演奏し、さらにtbt SさんとYuichiさんのデュオになって、これまで4,5回演奏しているとのことだ。なお、筆者は5月24日、Annie‘s CafeでYuichiさんと面識を得た。金森さんが聴いた演奏はドラムスが今回のジャズ的とは違ってロック的であったそうだ。これは実験精神に富んでいるためであろうが、似た部分はあるはずで、それは今回の演奏で最も顕著であったところ、つまり本人たちが聴かせどころとしてさらに熱が入った部分に含まれるだろう。ドラムスは背後で鳴り続けている感が強かったが、当然ギターの音を聴きながらの演奏で、ギターの単なる伴奏はしないという思いがあり、シンバルを手で止めて音を消したり、ギターが無音になった瞬間、スティックの手も止めたりするなどしたが、素の音である太鼓とシンバルでは多彩な音色の点でギターにかなわない。爆音はほとんどギターによるもので、エフェクターで自在に音を変え、ルーパーを使って音を重ねた。またギターとドラムスはお互いの姿を見ずにほとんど下を向いたままお互いの演奏を聴きながら自由に動き回るので、聴き手は舞台上に風神と雷神の乱舞の相乗効果を目の当たりにすることになる。ギター、ドラムスの個々でも同じように演奏出来るだろうが、それでは燃える炎の緋色具合が濁るだろう。ふたりの演奏であるのでより熱がこもり、迫力が増す。それは若さゆえにその発露の場を求めているからで、実際演奏後のYuichiさんは力を出し過ぎて両手が疲れたと語っていた。今回はジャズ的に聴こえたというのは、ロックのような強くてわかりやすいビートではなく、小刻みに叩き続けたからであろう。それは全速力で走っている時の心臓の鼓動のようで、それを始終聴きながらのギターの起伏ある綾が絡まり合った音の連なりで、さまざまな花火が休みなく打ち上げられる様子にたとえてもよい。

一昨日の「ALEX RAFAEL ROSE」が使用したギターはtbt Sさんから借りたもので、普通の調弦がなされていた。tbt Sさんはその調弦のまま使ったはずで、彼はギターを学び始めた頃はごく普通にメロディや和音を弾いていたであろう。それに飽き足らなくなって、旋律らしきものがほとんどない前衛的な演奏となれば、調弦が出鱈目であってもいいようなものだが、その出鱈目が演奏のたびに異なるのであれば、予め脳裏に描いている音を即座に発しにくい。そのため、出鱈目な調弦を使うにしてもその出鱈目さを固定化した方がよく、ならば普通の調弦でよいことになる。またそういうギターで耳馴染んだ和音を奏でないことは却って難しいだろう。そのため、tbt Sさんの演奏が調性を感じさせないことを意図するのであれば、熟知している調性をずらす行為であって、それはある意味ごく普通の旋律を弾くよりも神経を使うであろう。またそうであればそれなりにその不協和の旋律は即興演奏を繰り返すほどにいくつかの型が出来上がるはずだ。それらは彼の語彙であって、それを組み合わせてたとえば20分演奏するが、そこには大きく分けて腕鳴らしの導入部、最も活力がみなぎり、さまざまな奏法を駆使する展開部、そして体力と気力の消耗から締めくくりを模索し、活力が下降気味になる結末部があって、それら3つの部分にまたそれぞれに大きな型がある。そこにエフェクターを使えば同じ型でも違った様相を呈するので、たとえばいわば見えない楽譜にしたがった型どおりの演奏であっても、毎回違ったものとして提示出来る。彼は椅子に座って演奏したが、展開部ではギターのネックを大きく揺り動かし、ほとんど神がかったムーダンの舞踊と同じ陶酔感に浸る様子が伝わった。それは大きな工場にも存在しないような爆音をギターひとつで発することが出来ることを知り尽くしたうえでの、セックスと同じ自己の開放であって、また必ずそういう境地に至るという覚悟を前提とし、それだけに炎のように熱い演奏ではあっても、どこでどう演奏するかというある程度の方向性は定まっているはずで、そこに冷静さが裏打ちされている。それは放縦を旨としても計画性があることで、即興でありながら型があると言い換えてよく、デュオの活動を続ける間により個性が確立されて行く。それは前述のようにマンネリと見ることも出来るが、そこに今までにない斬新な型を少しずつ加えて行けばよく、とにかく演奏を続けることだ。またギターでなければ出せない音色で、ルーパーはわずかに使っても、サンプリングの音を使って装飾していないところが潔い。つまり禁欲的で、男らしい骨太の演奏だ。そこに加えられるのはたとえばヨーコ・オノの絶叫ヴォーカルだろう。またそれには「間」をもっと読み取って表現する必要があるが、Yuichiさんとの間でその当意即妙がもっとあってよい。