擬態は人間の本質だ。いろんな服を着たり、背を高く見せるために底の厚みが10センチもある靴を履いたりもする。化粧もそうだ。美容整形は実態を物理的に変えはしても整形したという自分の心を変えることは出来ないので、やはり擬態に含めてよい。

さて、23日のライヴは二番目に女性ふたりがアコースティック・ギターを演奏しながら歌った。「くつした」という変な名前のふたりで、金森幹夫さんによれば本来は男性のドラムスを加えた京都のロック・バンドだ。当夜のふたりのうち左に座った女性はベース担当、右の女性は、YOUTUBEで名前を知ったが、エレキ・ギターとヴォーカルの永岡美央さんで、彼女が中心になったバンドだ。ドラムスが女性ならば少年ナイフを同じ編成になるが、実際「くつした」のロックは少年ナイフの次世代と言ってよい。それがアコースティックの伴奏となればフォーク的になるが、60年代からフォークとロックの境界は曖昧で、ギターをアコースティックからエレキに持ち替えるとロックになる。これはフォークは静かでロックはうるさいという世間の固定概念だが、同じ歌詞をアコースティック・ギター中心の伴奏で歌う場合と、エレキ・ギターを使うロック・バンドで歌う場合とでは、歌い方に差があるべきだ。またそうであればどのようなフォーク調の曲もロック・アレンジで歌っていいとは限らないことになる。この辺りの好例は60年代末期のジョン・レノンの曲にある。ビートルズの「レボルーション」は同じ歌詞を、『ホワイト・アルバム』ではスローかつ静かに歌い、シングル・ヴァージョンでは激しいロックで歌ったが、ジョンのどの曲もそのように極端な差の編曲が可能であったかと言えば、そうではない。たとえばソロ・アルバム『ジョンの魂』では、激しいロックもあればフォーク調の曲もあって、後者は前者のアレンジは無理だ。これはジョンが曲の雰囲気を硬軟自在に操れたことを示す。その静かであるかと思えば激しいというロマン主義の特徴は、ビートルズ後のロックでは激しさが誇張されたハード・ロック、そしてさらに激越なパンクに推移する。フォークもそれに合わせてロック寄りになり、ニール・ヤンではギター1本による静かで語り調のフォークを基本にしながら、もっぱらハードなロックを演奏するが、作曲をギターで行なうロック・ミュージシャンの場合、アコースティック・ギターの伴奏で静かに歌う曲を書くことがあるだろう。ジョン・レノンがそうであった。今回のライヴはおそらく普段はロック・アレンジで歌っている曲で、そのフォーク調ヴァージョンを楽しめたことになるが、永岡さんがロック・ヴァージョンを念頭に置かない曲をよく書くかどうかを筆者は知らない。ただし、YOUTUBEの彼らのロックと今回のライヴとでは歌い方がまるで違い、前者のやや投げやりでぶっきらぼうな様子が力まない静かなものに変わっていた。
彼らのCDジャケットのイラストはなかなか色彩感覚がよく、また個性もあってよいが、それは永岡さんが描いたもののようだ。サウンドクラウドに「イスタンブール」という曲が挙げられていて、その歌詞は教科書に載っていた画家の絵を模写したところ、それが選ばれてイスタンブールに送られたという内容で、永岡さんは絵の才能に恵まれていることがわかる。またその曲も興味深い点は、有名画家の作を模写した点で、これは擬態行為であることで、彼女はそれを音楽でも行なったはずだ。その最も身近な存在が少年ナイフであろう。彼女らのようになりたいという思いが、3人組のロック・バンドの結成となったに違いない。ただし、擬態行為から先が問題で、彼女は少年ナイフが学んだ音楽に遡って知識と技術を蓄えたはずで、それがビートルズやラモーンズであったことは必然だ。少年ナイフにはラモーンズを賛美する曲があるが、「くつした」のパンク調ロックはラモーンズの様式の擬態と言ってよい。だが、少年ナイフを崇めるとして、「くつした」の個性をいかに発揮するかとなれば、ビートルズが影響を受けた60年代前半のポップスまで吸収したり、あるいはラモーンズ以降のロックその他の音楽に関心を抱いたりしながら、自己の内面に沈潜して創造に励むしかない。少年ナイフの二番煎じでは欧米やイスタンブールでライヴが出来るようになるかと言えば、ここ10年、20年の間に時代は変わったはずで、「くつした」は彼らなりの様式を確立する必要がある。そのことは彼らが最もよく知っているはずで、そのためにも今回のライヴはふたりによるアコースティック・アレンジになったのではないか。永岡さんひとりで街角に立って歌う動画がYOUTUBEで見られるが、今回のライヴはそれにもう一台のアコースティック・ギターの伴奏とコーラスを加えた形で、地味ながら2台のギターの音色の絡まりは練習の跡がよくうかがえた。少年ナイフとの差は歌詞が日本語であることだが、海外進出を狙うのであれば英語で歌う曲があってよい。永岡さんの歌詞は韻を意識して言葉を選んでいて、その才能があれば簡単な英語の歌詞も書けるだろう。そうそう、『ジョンの魂』やビートルズの『レット・イット・ビー』はフィル・スペクターのプロデュースであったが、彼はラモーンズのアルバムもプロデュースした。となれば永岡さんが最初期のビートルズがカヴァーしたフィルの曲に学ぶというのも手で、最もポップス的であった50年代末期から60年代半ばのアメリカのポップスの明るい香りを再生してほしい。パンク・ロックを歌う永岡さんよりもギター片手に歌う彼女のほうがしっとりとしていて素直によさが出ている気がするからだが、単なるフォーク調ではないポップスへの道が後期のビートルズのように多重録音に凝るしかないのかどうか、そこは筆者にはわからない。

創作における擬態、模倣について話を広げる。ロジェ・カイヨワは遊びを「擬態(ミミクリ)」と「めまい(イリンクス)」、「競争(アゴン)」と「運(アレア)」の4つに分類したが、何事も例外はあるから、この4つに含まれないものとして「技を用いたひとり遊び」を置いた。そしてその例外的な遊びは、見物人がいたり、競争の要素が加わったりすれば、遊び手をより熱中させるとした。これは現在のSNSを予言している。またライヴハウスでの演奏者にも言え、筆者のこのブログも含めてもよい。「技を用いたひとり遊び」は高尚に捉えれば「創造」となるが、そこには「ミミクリ」や「イリンクス」、さらには「アゴン」や「アレア」も含まれ、カイヨワの4分類では収まりが悪い代表的な遊びと言える。その「アゴン」的なことは、たとえば音楽コンテストに参加する場合に顕著となり、そこで優勝を狙うことは「アレア」だが、コンテストを目指さなくても技をきわめたい者がいる。またそのようにして誰もが認める超絶技巧を持った者が存在し、筆者はそういう人物の作品を愛好するが、それは克己の果ての自由を知っているからだ。レザニモヲのさあやさんと話した時、彼女は「音楽はスポーツのように明確な優劣がない」とやや不満気に意見した。それはコンテストに出場しても審査に情実が入ることを一方では思っての言葉としても、実際はやはり才能の多さと猛練習によって超絶技巧を持つ表現者が存在し、その意味でスポーツの成績に似た優劣は存在する。ただし、そういう人物の作品が必ず人を感激させるとは限らない。そこで芸術の創造は「イリンクス」に最も近く、「技を用いたひとり遊び」に留まり、その評価は他者の自由に負う。つまり、「自慰」と言ってよい遊びだが、セックスの自慰を遊びとしてカイヨワが存在を認めたかどうかは知らない。それはさておき、「技を用いたひとり遊び」は誰かの絵を模写したり、スター歌手を物真似したりするなど、最初は「ミミクリ」だ。輝いて見える存在に近づきたい、同一化したいこの望みは、技を必要とするので、克己と切り離せない。そこに「アレア」へ心が揺れながら、「アゴン」に参加もする状態が生まれるが、大多数の人には「生活」の中に「遊び」があるから、たとえば「技を用いたひとり遊び」によって生活の資を得ようとする「アレア」的生活は、規律や忍耐、努力を続けた結果が無駄に終わるかもしれず、その立場を冷静に直視する態度を必要とする。その立派な「遊び人」は熱中しながら一方で冷静だが、その代表を筆者はザッパに認めるが、ライヴハウスで演奏するミュージシャンは生活の中の「遊び」と割り切っているのか、あるいは生活そのものと思っているのだろうか。超絶技巧を身につけるには生活の大部分を捧げる必要がある。そしてそういう超絶技巧を持った表現者しか歴史には残らないだろう。現実は非情だ。