仏教徒よりイスラム教徒が多いインドネシアでどのような音楽が流行しているか。インドネシアは日本と同じようにたくさんの島があり、また人口は日本の倍ほどもあって民族も多様なので、流行音楽も種類が豊富なような気がする。

一方、イスラム教国ではあまり娯楽音楽が盛んでないとも思うが、アラブ圏とインドネシアでは違うかもしれない。インドネシアの音楽と言えば伝統音楽のガムランを思い浮かべる。その要素を使った娯楽音楽があるのかどうか、またそういう考えがそもそも許されているのかどうか、筆者はインドネシアのことはほとんど何も知らない。それで今日から3日間、23日にAnnie‘s Cafeで見たライヴについて書くが、最初に登場した「ピンポン・クラブ」の演奏はなかなか興味深かった。「クラブ」と称しながら、若い男性ひとりがエレキ・ギターを奏でながら、またシンセサイザーのカラオケを伴奏にして体を揺すりつつ軽快に歌った。「クラブ」の意味については後述するとして、彼は客に向かって手拍子を求め、演奏した数曲はどれもジョギングの速度と同程度のリズムであった。彼が演奏する2メートルほど前でEulalieさんが踊っていたが、それは正しい聞き方だ。そう言えば昨日YOUTUBEを聴いていると、自動演奏でEiffel 65による「Blue(Da Ba Dee)」という曲が流れた。イタリアン・ユーロダンス・グループの男性3人組で、10年前の投稿だが再生回数は2億近い。筆者は初めてその曲を知ったが、10年前でなくてもいつでもヒットするような覚えやすさだ。そういう曲は深く考える必要はなく、ただ体を動かして楽しめばよいので、70年代半ばのディスコ・ブーム以降も忘れ去られることがない。それは音楽を創造と考える向きからすればアホらしいことで、それでザッパはまともに踊れない「ブラック・ページ」を書く一方、「ダンシング・フール」でディスコを揶揄したが、「Blue」の大ヒットはザッパのそういう考えを簡単に無視し、「ただ楽しければ何でもそれでOK」という楽天ぶりが大人気を博すことを証明する。現在の日本ではヒップホップを目指す若者が増え、ライヴハウスで演奏する若手が減少気味と聞くが、音楽は聴くより踊るものという考えが拡大していると言える。音楽に陶酔して体を揺らすことは自然なことで、ダンス音楽がなくなることはあり得ないが、ダンスのための音楽でありながら、そこにはディスク調ではない複雑なものもあるし、またダンス音楽と言ってよい軽快なリズムを持ちながら、歌詞がとても意味深い曲もあって、「Blue」を「ただ楽しいのでOK」とは思えない人、また場合もある。それで音楽の多様化が止まらないが、一方では新しい時代に古いものが模倣されて持ち越され続け、その模倣の中に新時代ゆえの新しい感覚が付与される。その意味で「Blue」も時代を刻印だろう。

演奏者の名前はわからないが、彼はYOUTUBEで見てもギターのネックをリズムに合わせて目立つように動かし、演奏がダンサブルであることを意識している。ジョギングの速度に4分の4拍子、それにシンセサイザーとなればユーロ・ビートで、これは日本でも大いに流行したが、ピンポン・クラブは筆者の思うところ、インドネシアの暑さを緩和する清々しさを目指している。それで声を張り上げて歌う曲はおそらくインドネシアでは暑苦しく感じてあまり歓迎されないのではないかと想像するが、これはピンポン・クラブ以外の音楽を聴かねばわからない。無料というので帰り際にもらった2種類の小さなステッカーのイラストのあるほうには「MINI JAPAN SHOW」と題し、「06/2019」の文字もあって、今回のツアーに際して作ったものだ。イラストには建物の看板に「アンカサ」と片仮名で書いてあるが、この意味がわからない。もう1枚には去年11月20日の文字があり、さらに細かい文字でこのバンドの由来を英語で書く。それを訳す。「ピンポン・クラブはインドネシアのバンドンで2017年半ばに結成されたインディー・ポップ/エレクトロニック・ポップ/ドリーム・ポッポ・バンドだ。リツキー、ハリツ、ファシャ、サトリオの4人編成で、「ピンポン・クラブ」という場所で彼らは同じ音楽に感化された。それはお互いにインディー・ポップの甘美さとシンセサイザーの未来的なサウンドを伴う端正なポップ音楽を結合し、形態を探求したものだ」。ピンポン・クラブという卓球場で練習し、バンドのスタイルを決定したことがわかるが、ステッカーのイラストはその建物の外観をそれなりに忠実に再現しているのだろう。WIKIPEDIAによれば、バンドンはバリ島西部の最大の都市で、インドネシアではジャワ人に次いで人口の多いスンダ人が生活するが、ピンポン・クラブは英語で歌う。またYOUTUBEの2019年の映像によれば、鍵盤楽器とコーラス担当の女性ひとりを加え、鍵盤2名、ギター、ベース、ドラムスの5人編成となっているが、今回演奏したギタリスト以外のメンバーが中心になって歌う場合もある。おそらく5人ともソロ活動が可能で、その場合でも「ピンポン・クラブ」を名乗ることを想像させるが、曲は全員で作っているのだろう。会場では白黒で印刷したジャケットつきの10数曲入りCDが売られていたし、演奏の合間の語りで「新しいシングル曲」と言っていたので、意欲的に活動中であることがわかる。またそうであるだけに来日もしているが、これは当夜の最後に演奏したCuBerryとの縁による。彼女らとの出会いがどこであったかは訊いていないが、今日の3枚目の写真のように彼女らと共演もしているので、彼女らがインドネシアで演奏することもあるのだろう。

会場で話をした客のナゴヤハローさん(「ナゴヤハロー」は電話番号の語呂読みだそうだが、その後はギリシア人のイエナ・クセナキスをもじったような「ナゴヤキス・ハロヤニス」に改名した)は、ピンポン・クラブの曲が山下達郎に似ていると意見した。彼は演奏後にCDを購入しながらそのことを演奏者に訊ねたところ、確かに山下達郎の音楽は好きだとの返事があったらしい。だが、山下のように朗々と歌い上げず、ほとんど地声でささやくように歌うところに特徴がある。これは他のメンバーが歌う場合も同じで、ステッカーにある「ドリーム」や「スイートネス」「TWEE(澄ました)」という言葉を体現している。またそのためにメンバーはみなおとなしく、行儀よく見えるが、実際にそうなのだろう。そこでインドネシアにディープな地域があり、そこに音楽を目指す若者がいれば、パンク・ロックをやるのかと想像するが、楽器を購入し、暇を見つけて練習することは経済的余裕があってのことで、まだそういうバンドは出現していないか、いても少ないのではないか。またピンポン・クラブが英語で歌っているのは現地人だけに向いておらず、国際を意識してのことだろう。その点は日本のミュージシャンよりも逞しいが、ステッカーには「インディー・ポップ(自主製作ポップ)」と謳っているので、メジャーになることを夢想はしていないのだろう。それはインドネシアではポップ・ミュージックの需要が小さく、最初からメジャーとなることを諦めているためか、あるいは「インディー」ならではの自由を旨としているためかはわからないが、どちらでもあるだろう。「インディー」であるからには知る人ぞ知るの存在で、ピンポン・クラブの一例のみでインドネシアの若者のポップ音楽を推し量ることは出来ないが、山下達郎の音楽を好むのであれば、日本のシンガーソングライターの曲に影響を受けていることになり、そこに日本より遅れた音楽事情があると言えるが、これはインドネシアが日本文化をどのように見ているかに関係する問題でもあって、近年は同国からの観光客が増加傾向にある日本なので、両国のインディーの音楽家のピンポン的な交流も増えるだろう。そして自ずと歓迎される音楽には差が出るはずで、両国のインディーの音楽を聴き続けると人と文化の差がわかるに違いない。そしてやがてユーロ・ビートとは違うアジア・ビートが誕生するかと言えば、英語で歌うことが主流になれば、結局はドナ・サマーに源流があって、アジアは欧米の模倣から真の創造に至らないという見方をされるかもしれない。ガムランにしても百年以上前にドビュッシーが自作曲に取り込んでいて、ヨーロッパは探求にかけては徹底した歴史を持っている。ピンポン・クラブの曲はどれも似ていて、その点ではダンス音楽と言ってよいが、他の要素を探求し、変化し続けることを意図してほしい。