蔦が繁茂する写真を盛んに撮って「緑のタペストリーと絨毯」と題して投稿していた。それが3年前の7月の「その30」で止まったままになっている。その月からブログへの投稿が滞りがちになったからでもあるが、暇を見つけて未投稿の日を埋めようと思いながら、その投稿空白日がどんどん遠ざかる。
そうなれば意識から薄らぎ、これは長年会わない人をあまり思い出さなくなることと同じだ。物理的に離れることは忘却にはよいが、長年覚え続けていて、いつか手に入れたいと思うことは誰しもあるだろう。人間ならば数十年も経てばお互い容貌が激変し、会えば幻滅することが大で、過去のよい思い出だけにしておいたほうがよい。筆者が長年気がかりになっていることは読書に関しては特に多い。半世紀前に読みたいと思いながらそのままになっている本がいくらでもある。そういう本は増える一方で、死ぬまで気になりながら読まないことが大半だろう。今日は22日に読み終えたヴァージニア・ウルフの代表作とされる『ダロウェイ夫人』について書く。この本を読む気になったのは、彼女の短編集の半ばに『ボンド通りのダロウェイ夫人』があったからだ。それを読んだ後、巻末の解説を見ると、「長篇『ダロウェイ夫人』に先んじて『ダイアル』誌一九二九年の七月号に掲載された」との説明があって、それではその長編を読もうと思ったことによる。それが3,4年前のことだ。同短編集は半分読んだままで『ダロウェイ夫人』を買ったが、他の本に目移りしてすぐに読む気になれなかった。それはともかく、ヴァージニア・ウルフの本を最初に手に取ったのは10代半ばで、その象牙色地に赤文字の装丁を覚えている。変な名前の小説家がいるものだと思った。一方、アメリカ映画に『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』と題する小説や映画がある。これは『ダロウェイ夫人』の著者とは何の関係もない。ちなみに同映画を見ながらこのブログに感想を書かなかった。話を戻して、ヴァージニアの小説をようやく読む気になったのは、富士正晴が著作で『オーランドー』を誉めていたからだ。早速その小説を買って読み始めたが、これも半ばで読むのをやめた。それで『ダロウェイ夫人』は筆者が初めてまともに読んだ彼女の作品となった。読み始めたのは母が病院から一時帰宅したのを見舞った今月8日の夜で、その時は全体の6分の1しか読めなかった。18日から続きを読もうと思い、結局また最初から読み始めて丸4日費やした。今日の写真のように、「風風の湯」の前にある桜の林や嵐山の中の島南端などの、誰とも顔を合わさない半ば日陰の場所で読んだ。天気はよく、連日2,3時間費やした。桂川沿いの枝垂れ桜の下にある大きな石の上に寝転がって読んでいると、知らない間に寝入ってしまい、自分のいびきで目覚めたのが20分後といった気ままな読書で、4日間は大いに楽しんだ。
6月中に集中して読み終えたかったのは、本作が6月のある朝から夜までの1日の出来事を描写するからだ。となれば、丸1日で読むのがいいのだろう。舞台となっているロンドンはウェスト・ミンスター地区から北に隣接するバッキンガム宮殿やセント・ジェームズ公園、さらに北のボンド通りやオックスフォード通りといった、観光客が必ず訪れる地域で、筆者も歩いたことがある。短編の『ボンド通りのダロウェイ夫人』は本作の最初の部分とほとんど内容がだぶっているが、本作は前者の5年後の出版だ。つまり、長編とするのに5年を要した。前述の短編集の最後に『書かれなかった長篇小説』と題する短編が収録され、ヴァージニアはまず短編を書き、それを長編化する態度であったのかもしれない。だが、短編と長編とでは作品の雰囲気が違い、『ボンド通り……』を読んで本作を読んだ気になるのは大間違いだ。本作の読了後、また前者を読み直した。訳者の違いがあるにしても、ヴァージニアが5年間でどのように心を変化させたかが想像出来、またそのことに心が痛む。1923年から28年は第1次大戦後から5年、10年後だ。10年後には第2次大戦が始まるという間の時期で、ドイツの『ベルリン・アレクサンダー広場』が書かれた頃でもある。ヴァージニアの小説手法は当時新しい「意識の流れ」と呼ばれたもので、それが同時多発的にアイルランドのジョイスの『ユリシーズ』や『ベルリン・アレクサンダー広場』、それに画家ではオットー・ディックスの絵画にも反映されているとのことだが、筆者が長い間放ったからかしにしていた本作を繙く気になったのは、ファスビンダー監督の『ベルリン・アレクサンダー広場』を見たからでもある。それはさておき、ヴァージニアは「意識の流れ」という手法を最初に意識して本作を書いたのではない。日々書き進むうちに長編が完成し、そこに「意識の流れ」と呼ぶべき手法が宿っていたと考えた。つまり、明確な手法を手にして書くのではなく、好きなように書き進んだ挙句、そこに手法が見えるという立場だ。このことは創造の過程を考察する場合、なかなか面白い視座を与えている。最初は夢中で取りかかり、やがて明確な意識が見えて来ることはよくある。創造とはそのようなものと言ってよい。これはどうでもいいことだが、このブログの「ライヴハウス瞥見記♪」は、半年ほど経ってそのカテゴリーを独立させ、当初は一投稿当たり1150から1200字の段落を計三つとは決めていなかった。字数を決めて書くことは手法とは呼べないが、それでもその枠に必ず嵌め込むという制限は文章を練ることを強いる。またその必要を思い始めたのは、同カテゴリーに本腰を入れる思いの反映で、文章とは書き手の意図がさまざまに盛り込まれる。それに筆者にしかわからないことをあちこち散りばめてもいる。
本作に顕著な「意識の流れ」の手法は、原語で読めばもっと明確にわかるはずだ。まずそのことを感じた。ヴァージニアの小説には多くの邦訳がある。それは訳者によって思いが違うので当然とはいえ、ヴァージニアの神髄を味わうには英語で読むことが最良だ。そのもどかしさを筆者は『オーランドー』でも思い、読み始めてすぐに原書を確認したほどだ。すると、筆者ならこう訳したいという箇所があちこちあった。そう思うとなかなか訳書を先に読むことは難しくなる。かと言って原書をカタツムリのようにゆっくりと読み進むのでは、ヴァージニアの「意識の流れ」をたどることはほとんど不可能だろう。そんなことを思うと、日本で彼女の小説がまだ地味な存在に留まっていることの理由がわかる気がする。話を少し戻すと、彼女は思いつくまま書き進め、やがて長編が完成していたかと言えば、やはりそうではない。本作は最初の構想とは違って、ダロウェイ夫人とは出会わない若い男女を登場させ、また結末も変えられた。若い男女とは、イギリスの退役軍人と彼がイタリアで見つけた若い女で、本当は本作にはなくてもいい存在だが、ロンドンという大都会にさまざまな人種がいることを示すには効果的だ。またそういう人々も事情や悩みを抱えていて、彼らの行為が間接的にダロウェイ夫人の意識に影響を及ぼすとの見立ては、長編としての膨らみをもたらしている。その退役軍人は精神を病んでいて、ロンドンに出て来たのはいいが、ふたりの医者に診てもらった後、窓から飛び降り自殺する。それは全体の4分3を読み終えた辺りだ。筆者はその自殺の場面にかなり驚いた。そういう雰囲気がそれまでは皆無であったからだ。その自殺の場面でしばし本を閉じ、嵐山の景色を眺めながら、何気ない日常に死が普通に存在していることを思い、一方でヴァージニアの自殺にも思いを馳せた。本作の結末は最初はダロウェイ夫人の自殺で締めくくられるはずが、自殺の役割を若い男性に負わせ、本作最後の場面は、夫人が自ら主催した夜会で若い頃の恋人ピーターと対峙し、またその時の彼の思いが吐露される。それを富田彬の訳から引用する。「「僕も行きます」とピーターは言ったが、しばらくそのまま腰かけていた。この恐怖はなんだ? この有頂天はなんだ? と彼は心に思った。ただならぬ興奮でおれの全身をみたすものは、何ものだ? クラリッサだ、と彼は言った。なぜなら、クラリッサがそこにいた。」 クラリッサはダロウェイ夫人で、ピーターともども50代前半の設定だ。そして彼女には配偶者がいて、ピーターには結婚するインド人の若い女性がいる。彼はダロウェイ夫人のことを忌々しく思いながらも魅せられ続けている。ダロウェイ夫人はピーターが恋人であった頃の何気ない言葉を思い出すことはあるが、そのことで焦がれることはなく、人生のすべてを知ってしまったような空疎な感情を抱いている。
ヴァージニアが本作の最後でダロウェイ夫人を死なせなかったのは、ヴァージニア自身ないしダロウェイ夫人の未来にまだ夢を見ていたからであろう。死はひとまずは他人事だ。そのために本作では若い男の自殺は淡々と描かれ、ダロウェイ夫人は自宅でのパーティでその自殺が話題になってもリチャードに感謝し、また次のように思いにふける。「でも、自殺したこの若い男は――彼のいちばん大事なものをかかえて投身したのだろうか? 「今死んだら、これ以上の幸せはないだろう」いつかわたしは自分にこう言ったことがあった、白のよそおいで階段をおりながら。」別の箇所にはこうも書かれる。「リチャードのおかげだわ、こんなに幸福だったためしがないのも。なに一つとして、十分に手まどって味わってなどいられない。何ひとつとして長すぎるほどつづきはしない。どんな楽しみだって、と彼女は、椅子などをなおし、一冊の本を書棚へ押しこみながら考えた、青春の数々の歓喜におさらばをして、生存の過程にわれを忘れ、日ののぼる時、日の沈む時、歓喜に胸を衝かれる思いで、われを見出すことには、比ぶべくもない。」これは夫に感謝しながらも青春の歓喜がもはやどこにもないことにいら立っている姿だ。ヴァージニアは本作から13年後、第2次大戦中の1941年、59歳で入水自殺する。読者はそのことを知っているので、ダロウェイ夫人とクラリッサを同一視し、またヴァージニアの近親相姦の生い立ちを知れば、なおさら彼女が精神を病んで何度も自殺未遂をしたことがわかる気がする。『オーランドー』は主人公の女性が時空を超えてやがて男性に変化する内容だが、ヴァージニアは同性愛者で、そのことは本作に登場する若い頃の女友だちとの関係でもほのめかされる。しかしその友人は炭鉱夫上がりの大金持ちと結婚し、子どもを5人も産み、また容貌もすっかり変わってパーティにやって来る。ダロウェイ夫人には10代の娘がひとりいて、夫のリチャードは議員で経済的には何ひとつ不自由はない。彼女主催のパーティに総理大臣が訪れるほどだが、夫は閣僚にはなれず、いわば俗物だ。彼女は夫を客観的に冷めて見ていて、夫にないものがピーターにあることを知っている。先に引いた本作最後のピーターの思いはダロウエィ夫人のピーターに対する燻り続けている思いでもあるだろうが、彼女はピーターよりもそういうリチャードを選び、また生涯遊び人のピーターと結婚しなかったのは正解だと思っている。ここには女が結婚するとして、何を最優先の条件とするかの問題が描かれている。ダロウェイ夫人は経済的安定、出世を選んだ。ところが夫に感謝しつつ自殺願望がある。それはピーターと結婚していればどうか。貧しさの中で幸福を見出したかもしれないが、家庭的ではないピーターであるから、別の悩みが浮上したであろう。
ピーターはダロウェイ夫人の生活を軽蔑し、彼女のことを俗物と見ている。それは振られた腹いせではなく、経済的安定を求めた彼女への憐みだろう。とはいえ、ピーターはリチャードにどこか就職先を世話してもらおうと考えていて、先立つものは金という現実がある。そのことは夫人の娘と仲のよい貧しい家庭教師が夫人を見つめる時の内心でも描かれる。となれば、夫人の悩みは何ひとつ不自由のない貴族階級の倦怠と言えるが、彼女は新しい恋人を作る気持ちはなく、そういう話は本作に出て来ない。そこでなぜ彼女に自殺願望があるのかだ。それは還って来ない輝かしい青春の日々がもうないという絶望としか読み解けない。容貌が急速に衰え始めた50代前半という設定もあり、今で言えば還暦過ぎの世代に相当するだろう。パーティを開いても誰がやって来てどういう話になるかはみんなわかっていて、本当の楽しみというものがない。本作の最初は夫人が清々しい朝を迎え、気に入っているロンドンの街を散歩する場面から始まり、最後は彼女の家での夜会だ。この1日は夫人の人生全体の比喩であろう。夫の仕事関係の重要人物や、夫人が人生で知り合った親しき人物はみなパーティに現われるが、そこで心をときめかす何かが起こることはない。ただし、ピーターは客人がほとんど帰った後、夫人と改めて対面して歓喜と恐怖を同時に味わう。この意味をどう読み解けばいいか。ピーターの心を夫人は悟るはずだが、悟ったところで波風は立たないだろう。彼女が家を出てピーターと駆け落ちすることは絶対にない。それどころかパーティを主催する女主として満足しながら、「……恐怖感がある。圧倒的な無力感がある。親がそれを、この人生を、最後まで生きなさい、おちついてそれといっしょに歩きなさいと、渡してくれたばっかりに。わたしの心の奥にはおそろしい恐怖がある。」と思っている。これは短編『ボンド通り……』にも描かれるが、なりたいと思っていた理想の女性の政治家とは違う人生を歩んだからかもしれない。一方で彼女は医者を「他人の魂に暴力を加える」悪人であると嫌悪していて、自殺した若い男が詩人であったり思想家であったりすれば、そういう医者に診てもらったことで人生を耐え難いものと感じたのではと考える。これはヴァージニアに自殺願望があり、精神科医に幻滅を感じていたことの反映かもしれない。ともかく、ろくに患者を診ないで豪華な車を乗り回し、莫大な財を築く医者に批判的で、その後の現実社会はますますヴァージニアが思う悪人が増えたと言ってよい。それはともかく、ダロウェイ夫人は上流階級の生活に幻滅があり、労働者階級は取り上げるまでもないが、本作を読む限りでは自殺はせずに、パーティの後はまた毎日同じような退屈な、そして過去を懐かしむ生活に戻るだろう。
本作の「意識の流れ」が具体的にどういうことかは、読み始めてしばらくすればわかる。章や節に区切られず、稀に1行開けの箇所が3,4つある程度で、すべての登場人物の思いがつながっている。そのために翻訳は難しいはずで、日本語であるので却って誰の思いなのかがわかりやすいはずだ。ある出来事について誰かが思っていることが行替えなしで他者の思いへと転換する場面が頻繁にあり、ヴァージニアは登場人物全員の思いになって全員を高みから見下ろしつつ、その人の内面に入り込んで本音を吐かせる。それは小説家としては当然必要とされる才能だが、本作では誰かが善で誰かが悪といった紋切りはなく、ただ事実を並べて読者に人生の変化、また現状の必然性を感じさせる。全体としては何か大きな主題があるのではなく、圧倒的な魅力を持った人物や劇的な物語もない。上流社会を描くところは『ベルリン・アレクサンダー広場』とは正反対で、ファスビンダーなら本作を映画化しようとは思わなかったであろう。そこで小説として面白いかと言えば、やはり英語で読まねば神髄はわからないと思う。おそらく英語のリズムが素晴らしく、朝から読み始めて夜には読み終えることが出来るだろう。それは彼女の文才により、またそのことは英文学の体系を熟知していることによる。本作には重要な言葉として、最初の方にシェイクスピアが引用される。ヴァージニアは詩にも詳しく、英文学の素養を元に「意識の流れ」と称される新手法を駆使した。先に書いたように、彼女はそういう評論家の言葉に対して批判的で、少しずつ書き進んだ結果、そこに論理のようなものが現われていたというのが真相であると言う。ただし、このことを他の小説や詩を知らない者が、ヴァージニアが好き勝手に想像を広げて書いたと考えるのは間違いで、彼女は素人文学者ではない。そういう者が多少の小説で世界的な名声を得られるほど、英文学の世界は甘くはない。ヴァージニアが自殺した原因は誰にもわからないが、不幸な生い立ちによる精神病だけに帰するのは彼女の才能の過小評価だろう。書くべきことはみな書いた、英文学史にそれなりに名を刻んだという自負はあったはずで、体力と気力が許す限り、執筆に没頭し続けた生涯であったと言ってよい。本作のリチャードのように、理解ある夫に恵まれはしたが、精神の病もあって子どもを産むことは諦めざるを得なかった。そのことは本作のダロウェイ夫人が母性愛に欠ける性質であることに反映しているが、ヴァージニアは本当は産みたかったらしい。本書を読みながらフランスの小説家のユルスナールを思い出した。彼女も同棲愛者であったが自殺せずに80代半ばまで生きた。また彼女もヴァージニアと同じように学校に通わず、家にあった蔵書で学んだ。どこそこの大学出を自慢する者は俗物ということだろう。