環境と遺伝が人格を創るとよく言われる。それは運命が生まれた時から定まっていることと同義で、努力して成功するか失敗するかも予め決まっている。
また努力すること自体が遺伝的に決まっていることであって、人間は何も考えずに好き勝手に生きるのがよい。実際みんなそのようにして生きているのではないだろうか。そのことを否定する人はそのような人格を持つように生まれ育った遺伝と環境であったため、他者がとやかく言ってもどうにもならない。さて、
先日ファスビンダーの『マリア・ブラウンの結婚』について書いた。その最初の脚本の結末は、マリアが運転する車が崖から落ちてマリアと夫ヘルマンが死ぬことになっていた。その場面をファスビンダーは1959年制作の本作『年上の女』から引用したのではないだろうか。ファスビンダーが本作を見たかどうかはわからないが、名作とされるので見た可能性は大きい。筆者はこの映画を昔から知りながら、10数年前にビデオを買い、そのまま放置していた。正確に言えばビデオを買った当時、家内がひとりで見ているのを横目で断片的に眺めただけで、簡単な筋立てでもあって、いずれ見直せばよいと考えた。また本作は映画音楽を先に知った。それについてはいずれ取り上げるが、そのきわめて印象的な映画音楽は本作の随所に流れるものの、台詞の多さに画面に釘づけになり、音楽はあまり頭に入って来ない。それはさておき、『マリア・ブラウンの結婚』を見た後、本作を見る気になったのは、先に書いたように結末が女性の運転する車が崖から落ちて死ぬためだ。だが、その凄惨な場面は本作には描かれず、噂の形で主人公の男の耳に入る。本作は不倫の物語で、夫のいるフランス人女性のアリスが10歳年下のジョーと恋仲になる。やがて棄てられてやけ酒をあおり、ジョーと最初のデートをした「雀の丘」に車で行き、その崖から落ちて死に、一方のジョーは街の有力者の娘スーザンと結婚するというものだ。これは夫がいながら若い男と肉体関係を持ったアリスに天罰が下ったとの読み方がなされる。それは最後のジョーの結婚式での場面からも補強される。牧師がジョーとスーザンを前に、「結婚を経なくても男女は男と女の関係になれるが、そこには結婚した夫婦のような責任はない……」といったような、倫理を強調する言葉からも明らかだ。アリスは夫に対して背徳を冒したのであって、その不貞行為は、酔って車を運転して崖から転落した事故死あるいは意図を持った自殺であっても、キリスト教の立場からすれば妥当な結末と言える。若い男に逃げられてやけ酒を飲むことはあっても、自殺はあまりに強引な筋立てに思えるところ、ハンナ・シーグラも本作の結末に納得するだろうか。だが、自殺することで若い男の心に後悔の念を起こさせるというのはわからないでもない。アリスは交換教授としてイギリスにやって来て、そこでそれなりに名士のきざな男と結婚する。子どもはおらず、本作では35歳という設定だ。演じたシモーヌ・シニョレは、撮影時は37歳で、年齢相応だが、本作では40代半ばに見える。肉づきがよく、またあまりに貫禄があるからだが、60年前では平均寿命が短く、女性は今よりも早く老けたか。あるいは映画のために老けた雰囲気を演出したかだが、どちらでもあるだろう。一方のジョーを演じたローレンス・ハーヴェイは撮影時は30歳で、映画で描かれる25歳より5歳年長だ。これは納得させられる。野心家のジョーは何物にもひるまずに出世を目指して邁進するが、田舎の貧しい出でそのような自信溢れる25歳という設定は現実的ではない。ジョーの姿はスタンダールの『赤と黒』のジュリアン・ソレルを思わせる。そう言えばアリスとスーザンという年上と年下のふたりの女性は、『赤と黒』ではレナール夫人と令嬢マチルドになぞらえ得るが、本作のジョーはジュリアンのように最後は死なず、スーザンと結婚する。もう少し『赤と黒』と比較すると、軍人か宗教家のどちらかに進むしか立身出世の道がなかったジュリアンと違って、ジョーはイギリスの階級社会の頂点を目指すには、そこに属する娘と結婚することが最も近道と考える。高嶺の花であることはわかっていても、近づきになれさえすれば後は甘言を弄して物にすることはたやすい。箱入りで娘であるほどに男の強い押しには弱いだろう。だが、いかにしてそういう令嬢と出会うか。階級が違えば出会いはまずない。そこを本作はうまく描く。ジョーはイギリス北部ヨークシャー州のダフトンという貧しい工場の街から汽車に乗ってウェスト・ライディングという大きな都市の市役所に赴任する。市の役人であれば給料はしれているが、市の有力者との出会いはある。市議会を左右するほどの実力者ブラウン氏の娘がスーザンだ。ある日ジョーは彼女が豪華な車で市役所にやって来たことを目撃する。華やかな若い女性であるのですぐにジョーは注目し、また彼女が市運営の趣味の劇団に所属していることを知り、早速自分もそこに加わるが、ジョーは田舎訛りのあまり、ブレザーをブラジャーと言い間違えて全員の失笑を買う始末だ。高慢なジョーはその侮辱に傷つくが、それくらいでへこたれる男ではなく、劇団員のアリスにいつしか心惹かれ、また彼女にスーザンとの恋がうまくいかないことを相談したりもする。この時点でふたりの間には恋愛感情はないが、お互い意識しない間に魅せられ合っていた。それはアリスの夫が週末ごとに秘書と浮気の外泊をしていることが広く噂になっていて、アリスもさびしさを抱えていたからだ。そこに自分よりも10歳若い、活力みなぎる豹のようなジョーが現われた。35歳で子どもがおらず、夫が浮気をしているとなれば、妻は心の隙間を埋めたいと思っても無理はない。
アリスが結婚した男は、ジョーが太刀打ち出来ない武勲を戦争で挙げ、また上流階級に属し、経済的に問題はない。それはアリスの身分と釣り合うものだ。教養と美貌のあるアリスが、いわば下品なジョーに体を許し、棄てられた後は自殺するというのは、あまりに節操のない行動で、本作は彼女に対して辛辣過ぎる。その理由は、考えるにイギリスとフランスの歴史的な確執の隠喩ではないだろうか。フランスからやって来た教養と美貌のある女性が、イギリス紳士の夫に浮気され、また田舎出の粗野な男に言い寄られた挙句棄てられるとの設定は、イギリスにとってフランスは何者でもないとの見下げた考えの反映にも思える。一方、イギリスは没落貴族が大手を振る社会ではなく、金儲けを第一と考える野心家の時代になって来たとの社会風刺の見方も出来る。市議会を動かす有力者ブラウン氏は、娘がジョーに言い寄られることに我慢ならず、さまざまな取引でジョーを排除しようとするが、スーザンが妊娠したことを知るジョーは、夫として収まることしか考えていない。結局ブラウン氏は折れてジョーを婿として迎えるが、それはブラウン氏にとっても理想だ。ブラウン氏も一代で地位と財を築き、ジョーとは同類であるからで、ジョーを婿にすればさらに自分の地位も財力も強固になる。ぜひとも階級のトップに到達したいというジョーの思惑は、計画どおりに運び、夢を実現させたが、ひとつ瑕疵となったのは、アリスを死に追いやったことだ。愛情をアリスとスーザンのふたりに同時に寄せたのはいいとして、ジョーはアリスの夫が離婚に応じず、かと言ってアリスと駆け落ちする勇気もない。そのうえスーザンが妊娠し、ブラウン氏が結婚を許可した。スーザンに対しては深い愛情はないが、もう逃げられない。そのことをジョーはアリスに義務として正直に伝えに行くと、アリスからは案の定辛辣な言葉が返って来る。アリスはジョーを意気地なしだとなじる。それはジョーがアリスを愛しているのであれば、ふたりで駆け落ちすべきであって、その行為こそが上流階級の人間に対抗出来る真実だといったようなことだ。この時のアリスの言葉に本作の言いたいことが凝縮されていて、イギリスの階級社会は拝金主義や虚偽が蔓延しているとの考えだ。そしてそのことをジョーはアリスによって知るが、時遅しで、スーザンと結婚して市の有力者となるはずだ。そしてスーザンは何色にも染まる娘であるから、すぐに母親のように、人を肩書や経済力で見るようになるだろう。イギリスの貴族社会も戦後は成金社会に取って変わられることを描くが、これはアメリカ的であり、また戦後の日本と全く同じでもある。『マリア・ブラウンの結婚』も戦後のアメリカ文化に染まって行くドイツが描かれたが、本作も同じと言ってよい。主役の女性がふたりの男の間で死ぬ三角関係の点も同じだが、本作ではスーザンという若い女性が登場する四角関係だ。
アリスとジョーが友人の別荘で4日間過ごし、雨が降りし切る中、ふたりがレインコート姿でずぶ濡れになって野外を歩く場面がある。その激しい雨はその後のふたりの人生の暗転を暗示している。アリスはジョーと抱き合いながら、自分が10歳若ければよかったと言う。ジョーと同じ年齢であれば、まだジョーが他の女に走る心配をしなくて済むとの女心だ。日本では最近10歳年下程度の男と恋愛したり、同棲ないし結婚したりするカップルは珍しくないが、35歳の女と25歳の男という設定は今でも真実味がある。筆者が25歳の頃、35歳の女性はとても年配に見え、眼中になかった。また当時35歳の女性は25歳の男を色目で見ることはなかったと思うが、筆者が気づかないふりをしていただけかもしれない。それが今では48歳のタレント女性が24歳の男と結婚し、7年暮らして男から別れを切り出される。その理由は「子どもがほしい」だ。本作のアリスは夫との間に子はなく、ジョーと結婚しても子どもを得られない可能性が大だ。35歳ならまだ妊娠は出来るだろうが、60年前ではそれはかなり微妙で、それでアリスはスーザンがジョーの子を孕んだことを知って、単に棄てられた以上の決定的な敗北感を味わったのではないか。そこでジョーに向かって、「真の愛を貫けば、成金の上流階級連中の鼻を明かせる」と訴えたところで、本作の最初からきわめて現実的な男として描かれるジョーにとってはその言葉は理想に響くだけであろう。だが、妊娠出来ないかもしれない35歳の女が25歳の人生これからという野望のある男と駆け落ちすることが非現実的かと言えば、アリスは教授の資格を持っているから、ふたりはお互いに自立し合いながら暮らすことは出来る。ジョーはアリスと逃げれば職を失って生活が成り立たないと口にしたが、アリスにすればそれは言い逃れであって、愛があればどこでどのようにもふたりで生きて行けるとの考えであった。そうした愛に生きる真実さは、拝金主義者の虚飾に唯一打ち克つもので、アリスの思いはそこにあったが、もう35歳という負い目があった。人妻であることの負い目は描かれないが、それほどに夫婦としては修復不可能なほどに冷めていたのであろう。だが、やはり筆者はアリスの行動がわからない。教養や知性を持つアリスが、10歳若いだけの男に言い寄られて身も心も許すだろうか。今の日本では男にとって女は若ければ若いほどいいとの考えが蔓延しているようだが、若さに他に代えがたい価値があると見る考えは虚しい。アリスもそう思っていたと思うが、生身の若い男が出現し、甘い言葉を連発されると、もう愛に生きたいと思い、見境がなくなった。それを愚かと見るのか、あるいはさっさと次の若い男を見つければよいと考えを切り替えるアリスが却って愚かなのかどうか、ともかく30半ばの女性の不倫は厄介ということだ。
本作は原題が「ROOM AT THE TOP」で、これはジョーが目指す最高の階層の意味だが、「ROOM」を女性の象徴と見れば、本作ではスーザンになる。だが、アリスから見れば自分がジョーと愛を貫けば、それこそが最高の部屋である生活となり、自分も最高の女になるとの思いが反映している。本作は『マリア・ブラウンの結婚』に比べてとてもわかりやすい。若い女に敗北した35歳の妻の悲劇で、アリスは自殺するほどでもなかったと、たとえば現実的な考えをするジョーは思うだろうが、そういう俗物的な思いや行動を見返す思いがアリスにはあった。それだけ正直であったということだが、先に書いたようにそのような仕打ちでジョーを徹底的に打ちのめしたとも言え、女の激しさ、怖さを描く。アリスが次々と若い男を漁る女であれば、ただの卑猥な物語になって、そういう話は人知れずに巷に常に溢れ返っている。誰にもばれずに浮気すればいいというのが、今では10代の女の子でも常識として抱き、それどころか自分の性を少しでも高く売ろうとしている。そんな時代にあって本作はあまりにも時代遅れで、また嘘っぽいと謗られるだろう。現実はとにかく生き抜き、それには男も女もせいぜい利用し合ってセックスを謳歌し、ついでに金儲けが出来ればもっと言うことなしだ。そう思えば『マリア・ブラウンの結婚』もさらに理解し難く、なぜ主人公は死ななければならないのか。同作も本作も、愛とは何か、真実とは何かを問う。貧しい出のジョーにとっては、愛よりまず金持ちとしての生活だ。それは今の日本に蔓延する思いだろう。愛とは豊かに暮らせるお金があっての贅沢な感情で、真実とは金だ。そこでアリスはブラウン氏の生活を喝破してジョーに言う。贅沢な物に囲まれ、高級レストランで食事するブラウン氏は、全く『マリア・ブラウンの結婚』のマリアと同じだが、俗物のブラウン氏はいいとして、マリアはそういう高級な生活に真実を見ていなかった。その点はアリスも同じで、彼女らは真実の愛を何よりも欲した。そしてマリアはそれが男同士の愛の前にあって看過されるものであると知り、アリスは若い男が簡単に自分を棄てて若い女に走ったことに絶望する。だが、映画としては『マリア・ブラウンの結婚』がはるかに謎めいていて、同作から本作のアリスを見つめると、若い男に棄てられたくらいで自殺するなと言いたい。ジョーは俗物であり、俗物のブラウン家に入ることはふさわしい。アリスがジョーの究極の愛情を得られなかったとしても、知性や品性でジョーは自分にふさわしくなかったと思えば諦めがつくではないか。筆者は60代半ば過ぎの老人だが、若さだけが取り柄の女性には興味はない。そういう女性が知性や品性を重視しない30代半ばになれば、さらに筆者は幻滅し、同じ場所にいたくない。なので、アリスに酔いつぶれてほしくなく、毅然としてジョーを放ってほしかった。