人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●過去の未投稿日に投稿する場合があります。最新の投稿は右欄の最上部「最新投稿を表示する」か、ここをクリックしてください。

●平川晋とZERO RECORDS
配便で何でも届くとはいえ、ホームレスは住所がない。ネット社会ではその住所に当たるものを自分で獲得するので、ネットの世界に存在しなくても現実もそうであるとは限らない。ライヴハウスでまたに出会う明石のSさんはスマホもパソコンも持っていない。



●平川晋とZERO RECORDS_d0053294_17161952.jpg
彼は高齢者ではないが、「風風の湯」の常連はみな筆者より上の世代で、ネットに自分の居場所を確保していない。FACEBOOKで昔の友人知人と出会えるという話をよく聞くが、筆者のような60代では無理だ。長年気になりながら、一生会うこともない友人知人が誰しもあるはずで、また中には彼らが死んでいる場合もある。だが、死んだ友人知人のことをたまに思い出しても、彼らが死んだという実感がない。長年会わずにどこかで生きている友人知人と同じであるからで、長年会わないことはお互い死んでいることとあまり変わらない。それに長年会わない間にお互い死ぬのであるから、長年会わないことは死んでいることと同義としてよい。とはいえ、生きているのか死んでいるのかがわからないまま、長年会わない人のことを思い出すと、気になる。そしてネットで調べるが、ネットに載らない情報は現実のほんのわずかな断面に過ぎず、ネット情報は何の助けにもならない場合のほうが多い。こう書くとネット時代に生まれた世代は「そんなバカな、ネットで何でもわかる」とそれこそ井の中の馬鹿な蛙の考えをするが、ネットは痒いところにまず手が届かない。それに間違いも多い。それはともかく、今日は「神社の造形」に投稿しようと思って先ほど2枚の写真を加工した。加工はトリミングのことだ。このブログに載せる写真は9割以上が500×360ピクセルにしていて、撮ったままの写真を縮小してもそのサイズにならず、トリミングをしなければならない。写真はすべて筆者のそれなりの美意識の産物で、たまに他人が投稿したひどい構図や写りの写真を見ると、その人の文章までひどく思える。自分の顔や姿がきれいに写っているかどうかを気にする以前に、まず写真がきれいな構図や色合いをしているかに配慮したほうがよい。と言いつつ、先月24日、伏見深草のAnnie‘s Cafeに行く途中で見かけた今日の最初の2枚は、祠の前が駐車場だ。筆者が望む場所に立てず、不本意な構図になった。この祠の左手に地蔵の祠があって、ふたつが同じ屋根の下に置かれていた。帰宅して地図で名前を調べるつもりでいたのに、ヤフーでもグーグルでもそれが表示されていない。祠のどこかに小さな文字で「白竜」ないし「竜神」の文字があったように記憶し、新高瀬川沿いであるからなるほどと思ったが、正しい名称がわからないので「神社の造形」には投稿しない。それはそうとこの新高瀬川に至った時、まざまざと思い出したことがある。今日はそのことについて書く。
●平川晋とZERO RECORDS_d0053294_17164407.jpg 1970年代後半、筆者はレコードを三条河原町の十字屋で買った。79年だったと思うが、そこのレコード部の店長の平川晋(ひらかわしん)と顔見知りになった。当時エレクトーンがブームで、梅津の従姉の長女がそれを買うというので筆者は同店で品定めをした。その時、水田さんという大津在住の若い美女が応対してくれて、彼女は梅津の従姉の家に運び込まれたエレクトーンの調子を見るために市バスに乗って来てくれた。彼女を西浦町のバス停で迎え、一緒に梅宮大社の際を歩いて従姉宅まで行き、彼女の作業が終わった後、また一緒にバス停まで歩いたが、平川の話をすると、笑いながら「名物店長ですね」と言った。とても目立つとの意味だ。筆者は彼と個人的に付き合いがありながら、写真を1枚も撮らなかった。それで彼の「名物」ぶりを写真で紹介することが出来ないが、少年ナイフや須山公美子といった平川が世に出したミュージシャンが彼の写真を持っているか、あるいは現在どうしているかを知っていると想像するが、そう言えば去年11月1日、筆者は須山の演奏を目の当たりにしながら、彼女に声をかけ、平川を通じて昔彼女のデビューLPを買ったことを伝えず、また平川が現在どうしているかを訊ねなかった。彼の現在が気になって先ほどネットで調べると、情報がわずかしかない。2003年の「2ちゃんねる」に、「ゼロレコードの平川晋さんッテ なくなられたんですか?」という問いがあるが、誰も生死を知らず、2003年の時点で消息不明になっていたようだ。家内も平川と何度と会っているが、年齢は今年64か5のはずだ。京大の理学を出たが十字屋に就職した変わり種で、その理由を訊くと、他にめぼしい就職先がなかったと言われた。彼を知ってレコードを仕入れ価格で買うことが出来た。それに、ザッパのアルバムの日本盤が出るとその解説と対訳のコピーもしてもらった。筆者は輸入盤を先に買い、日本盤も買うならばその金を他のレコードに費やす主義であったからだ。それはともかく、平川は十字屋にいつまでも勤めるだけでは面白くないと考え、個人で輸入盤を仕入れるなどの仕事を始めた。81,2年の頃だ。当時筆者はまだ息子がおらず、家内と梅津に住んでいて、筆者が勤務する染色工房に平川がやって来たことがある。平川は寡黙だが、笑うツボはよく心得ていて、筆者はいつも彼をなるべく朗らかにさせようとよく話しかけた。独立してからも同じように輸入盤を安く買えるようにしてくれたが、レコードを受け取るために彼の借家に行った。彼がどちらに先に住んだのか記憶が曖昧だが、1軒は阪急の長岡京か西向日駅から西へ徒歩15分ほどの今里にあった。ふたりでその住まいに向かう途中、彼は小さな店で夜の食事のおかずを買った。その時、独身生活特有のわびしさを感じた。
 もう1軒の住まいは京阪の伏見稲荷駅を降りて真西に進み、新高瀬川を越えてすぐの雑然とした区域の下川原町にある一軒家であった。その平川の住まいを、先月24日、同じ新高瀬川沿いの名称不詳の神社に遭遇した時、まざまざと思い出した。先ほど調べると、今日の写真の鳥居のない神社から北100メートルほどだ。筆者が最初に訪れた時期は、「変身キリン」というバンドを見出し、また平川自身が自宅の庭で秋の虫の音色を録音した「sh」というレコードを発売したばかりの頃で、まだ少年ナイフのレコードを作っていなかった。なので、1983年と思う。「sh」は「SHIN HIRAKAWA」の頭文字だが、当時筆者は彼へ手紙をよく書いていて、そこで彼のことをザッパの「FZ」に倣って、「sh」と呼んでいた。また彼は筆者の手紙によって文才を認めたのか、媒体に書くべきといった提言をしてくれたこともある。それはすぐにザッパについて初めて書いた文章「大ザッパ大雑把論」となった。また前述のように、その文章を書いたもうひとつのきっかけは、当時のザッパの日本盤のライナーを彼がコピーしてくれ、それによって八木康夫が次回のアルバムではザッパ・ファンの文章を採用する云々と告知したことを知ったからだ。話を戻して、数回行ったことのある下川原町の家で、ある日20代半ばの女性がいて自作のEP盤を見せてくれた。ジャケットは1匹のリスが栗をつかんでいる童画で、曲名は「栗とリス」であった。平川が創ったZERO RECORDSからの発売ではなかったが、当時自主制作レーベルがぽつぽつとあったのだろう。きわどいタイトルのこのレコードが当時どれほど話題になったのかは知らない。彼女の芸名も記憶していないが、ネットにその「栗とリス」についての情報はない。平川の深草と長岡の住まいには数千枚のLPが詰まったレコード棚が居間にあって、「HALF JAPANESE」という厚さ3センチのボックス・セットの背の文字がやけに目についた。それがどういう音楽かアルバムを聴かせてもらわなかったが、自主制作レーベルを立ち上げる構想を、そうしたマイナーなミュージシャンの音楽を聴く中で育んだのであろう。当時の筆者はマイナー・レーベルにさっぱり関心が持てず、少年ナイフの音楽にも感心しなかった。その理由を平川に言ったことがある。ビートルズなどを聴き慣れた耳からは、録音が貧弱で、同じことはたとえばタイガースなど日本のロックにも感じると。平川は笑顔でその批判を聞いたが、彼は日本のよさがあると信じていたであろう。ビートルズに比べてはるかに経費をかけられず、技術の遅れも当時は仕方がなく、安っぽい、スカスカな音に日本らしさがあると開き直るしかなかった。実際そういう音が却って欧米では斬新に聞えたのであろう。少年ナイフは一気に世界へ駆け出て行った。
●平川晋とZERO RECORDS_d0053294_17173879.jpg
 ネットによれば平川のレコード発売は1989年で終わっている。彼の故郷は可児市で、正月はそこに帰省すると聞いたことがあるが、それが何年のことはわからない。少年ナイフのレコードを発売し始めた頃から疎遠になり、やがて少年ナイフのレコードがCDになったことを知ったが、マスター・テープは平川のものであろうし、彼がCD化の権利を有していたはずなのに、CDには彼の名前がない。まさか1989年頃に亡くなったとは思わないが、音楽に関係する仕事を続けているのであればネットにその情報があっていいのにそれがない。それを不思議に思ってこれを書いているが、少年ナイフがメジャーに移籍した時、平川との関係がどうなったか。彼にすれば自分が見出したミュージシャンが世界に進出することは本望だろうが、メジャー移籍したのでもう平川が不要というのであったならば、それは何となく仁義にもとる話ではないか。筆者は少年ナイフの活動だけではなく、須山公美子の音楽にも関心が持てず、平川との縁は途絶えた。30年ほど経って平川が住んだ薄暗い平屋の家からほんの少し南にAnnie’s Cafeが出来て、平川が注目した若いミュージシャンのライヴは1980年代初頭に比べてはるかに今は接しやすくなり、少年ナイフ登場後に生まれた者が今はライヴハウスに出演する大勢だ。平川と音信が途絶えて筆者はザッパにますますのめり込んだ。80年代初頭、平川が注目したミュージシャンに筆者が同じように関心を抱き、ライヴハウスに通っていれば、筆者は別の人生を歩んだかもしれないが、35年経てライヴハウスを瞥見している。ところで、1年ほど前から名刺を入れた箱を探していたが、先ほど半狂乱になってまた探すと、本の谷から見つかった。名刺の束を1枚ずつ繰り、平川のものを探した。それが3枚目の写真で、裏面は同じデザインで英語表記、名前は「SHIN HIRAKAWA」となっている。ゼロ・レコードの設立時、筆者は請われずにそのロゴをデザインした。0を発見したインド人の、民族衣装の男性が人差し指をCDに突っ込んでCDを回している上半身のイラストだ。それを手紙とともに送った。結局彼はCDをゼロに見立てた無難なデザインを採用した。名刺の中央のもので、これはこれでよく目立つ。「ゼロ」と聞いた時、「ゼロからの出発」よりも「ゼロに帰する」という悪い予感を抱いたが、そのことを彼には言わなかった。名刺は大阪の谷4に事務所をかまえた頃のもので、当時寺田町によく行くと言っていたことを思い出す。京都から大阪に移住し、その後のことがわからない。最後に会ったのはたぶん1989年と思うが、音楽への関心を失うことは考えにくい。生きていれば何らかの情報をネットで発信していると思うが、先に書いたSさんのように、大の音楽好きであってもネットに無関心な人はいる。
by uuuzen | 2019-06-18 23:59 | ●ライヴハウス瞥見記♪
●ムーンゴッタ・2019年6月 >> << ●『年上の女』

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2026 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?