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●『マリア・ブラウンの結婚』
んでからその人の真価が定まると言われるが、ほとんどの人は無名であるから、近い身内がみんな死ねば誰も覚えていない。そういう人たちは、死後に高い評価がなされても本人はそれがわからないのであるから、生きている間が楽しいことが何よりだと思っている。



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これは真実だが、人間は苦しいことが皆無な状態での楽しいことばかりではあり得ない。家内は昔、姪が大阪のヒルトン・ホテルで盛大な結婚式を挙げた時、今が一番華やかで楽しい時だと姪に言った。姪はびっくりし、また怪訝な顔をして、これからもっといいことが続くと言い返したが、3年経たずに離婚した。結婚は契約で、厳粛なものだが、夫婦3組に1組が離婚する昨今、別れても戸籍が汚れない同棲のほうが手軽でいいかもしれない。特に男にとっては結婚するより便利かつ気楽だ。同棲は結婚と実質は同じ生活をするので、同棲を繰り返すことは何度も結婚することと同じと言えるが、戸籍の汚れを気にしないのであれば、何度も結婚すればよい。とはいえ、神の前でお互い誓いの言葉を述べる結婚式は、やはり特別な儀式で、周囲に夫婦と認められ、そのことで自分たちも責任を感じる。結婚生活は薔薇色で、楽しいことの連続かと言えば、苦しいこともかなり多く、またその苦しさがあるからこそ、薔薇色が感じられる。「風風の湯」で家内が去年知り合って数か月よく話した女性は、子どもを2,3人産み育て、数年前に熟年離婚した。そして家内に夫のことを「とんでもない男だった」と語ったそうだ。数十年も一緒に暮らしながらそのことがわからなかったことが筆者には不思議だが、「とんでもない」ことをうすうす感じながら暮らし続け、離婚する少し前に我慢の限界を超える決定的な嫌なことがあったのだろう。とはいえ、離婚はお互いの考えの相違によるから、筆者は双方に責任があると考える。お互いの愛情が不足していたのであって、これは相手を変えてもうまく行くことは少ないが、一度離婚すると次こそはとかまえるし、離婚によって学ぶこともあるので、嫌なことを以前より我慢するだろう。結婚は我慢だ。その連続の中に喜びを見出すものだ。それは責任感がお互い乏しい同棲では得られない。今日は1年ほど前に見ながら感想を書かなかったファスビンダーの1978年に撮影された映画『マリア・ブラウンの結婚』について書くが、この映画は翌年の『ベルリン・アレクサンダー広場』を見てから感想を書くほうがいいと思い、DVDを目立つ場所に取り出しておいた。そしてようやく一昨日見たが、忘れている場面が多く、1年前とは違って多くのことを考えさせる。それでも何をどう書いていいかの困惑のほうが大きい。興行的に成功を収め、ファスビンダーの代表作とされているが、わかりやすい映画ではない。愛とは何か。男と男、男と女のそれを描き、その点で『ベルリン・アレクサンダー広場』と共通する。
 主役マリア・ブラウンはハンナ・シグラが演じた。ファスビンダーは最初ロミー・シュナイダーを起用したがり、彼女が演じれば映画の印象は大きく違ったと思うが、ハンナはハンナで頑張っていて、却ってよかったのではないか。脚本は珍しくファスビンダーが手がけなかったが、原案は彼のものだ。ハンナは映画の結末についてファスビンダーに抗議し、少し書き替えられた。だが、マリアが死ぬところは同じで、ハンナはマリアは死ぬべきでないと思ったので、結末は不満であった。最初の脚本ではマリアは夫ヘルマンと一緒にドライヴに出て、ハンドルを恣意的に切って崖から落ちて自殺することになっていた。結局マリアの屋敷の中で不注意に消し忘れたガス・コンロの爆発によって死ぬのだが、ファスビンダーにすればハンナの意向を少し取り入れて自殺を採用しなかったことになる。とはいえ、マリアがガスの火を不注意で消し忘れたか、あえてガス漏れを生じさせたかについては、映画を見る者によって考えが違うだろう。筆者はマリアの不注意と見るが、不注意になるほどマリアの気持ちが夫の告白によって大きく揺れたと言え、マリアが計画して歩んで来た人生が、自分の予想外のところで自分が疎外されていることを知った時点で、これまでの人生を虚しく思ったことは想像出来る。そしてそうなれば自殺するしかなさそうだが、それでもハンナはマリアの人生は強い意志によるものであって、自殺する女性ではないと言いたかったのだろう。この点でハンナとファスビンダーの考えが違ったことは、両者の異性観や結婚観の差を思わせる。ハンナがこの映画の結末に幻滅したとすれば、それは男同士の友愛が女が入り込めないほど人生を賭けたもの、つまり純粋なものであることを知ったからであろう。『ベルリン・アレクサンダー広場』と同じように、ファスビンダーは男同士の愛を中心に描くのだが、本作を見るどの女性もその男同士の愛をさっぱり理解出来ないと思うのではないか。それでハンナはアンナが生き抜く結末を求めたのであろうが、彼女の考える結末であれば、その後マリア夫婦はようやく仲睦まじく暮らして行くかとなれば、隙間風が入ってやがて離婚するだろう。それでは映画の題名にはそぐわず、また別の物語となる。ファスビンダーが描きたかったのは、逞しい女性を主役にしながら、結婚とは何か、そこに他の男が入り込むとどうなるかということへの興味だ。また本作はマリアと夫の姓を入れ替え、さらにマリアに言い寄るオズワルドも女として見てもよく、男と女に特有の愛というものをファスビンダーはあまり意識していなかったように思えるが、マリアを男、ヘルマンとオズワルドを女と設定すれば本作は成り立たない。女同士には男同士に芽生える愛が存在し得ないとファスビンダーが考えていたからで、それで本作の原案を書いたが、そこには『ベルリン・アレクサンダー広場』の影響が大きい。
 本作の筋立てを簡単に書いておくと、ヒトラー政権末期、マリアはヘルマンと結婚するが、1日半のみ一緒に暮らしただけで夫は前線に行く。戦争が終わってマリアは待てど暮らせど、夫は還って来ず、やがて戻った親しいヴィリーからヘルマンは死んだと言われる。戦後の食べ物や暖を取る物が不足する時代、マリアは母と一緒に暮らしていて、家財を少しずつ売って飢えと寒さを凌ぐが、金を多く稼ぐためにアメリカ人専用のバーに雇ってもらう。そこで知り合った黒人に言い寄って英語を覚え、やがて妊娠する。ある日ふたりで抱き合っているところにヘルマンが入って来る。呆然としたマリアはヘルマンに殴り倒され、ヘルマンと黒人が組み合う中、マリアは黒人の頭を背後から瓶で殴って殺してしまう。その罪をヘルマンが負い、そして服役する。マリアは彼が出所した時のことを夢想しながら、より金を稼ごうと考え、懇意にしている町医者を訪れ、妊娠した子どもを堕す。そして自由の身となったマリアは、次の世界に進む。列車に乗った時、金持ちが利用する空いた車両にうまく紛れ込み、そこでフランス人の織物商オズワルドに出会う。彼はたちまちマリア魅せられ、彼に雇われることになる。英語が話せる彼女は大胆な経営方針をオズワルドに吹き込み、会社は大きくなって行く。そして彼女は自分の働きにふさわしい給料をオズワルドに求めながら、自ら彼と肉体関係を結ぶ。ただし、それは彼女からの能動的な行為で、愛あってのことではないと彼に言い、また彼女はヘルマンにオズワルドと関係したことを話す。ビジネス・ライクなマリアにオズワルドはますますのめり込み、ある日マリアに言わずにヘルマンに面会に行き、約束を交わす。それは自分の余命は2,3年で、その間マリアとの関係を持続出来させてもらえれば、財産を半分遺言で残すというものだ。ヘルマンの刑期が終わった日、マリアは彼を迎えに刑務所に行くと、出所したと言われ、手紙をわたされる。そこにはヘルマンがしばらカナダで暮らし、毎月マリアに薔薇の花を1本送るとあった。マリアは郊外に立派な屋敷を購入し、そこで暮らし始め、毎月届く薔薇の花を大きな花瓶に順に差し続ける。2年ほど経った頃か、ヘルマンが屋敷を訪れる。1日半で停止していた結婚生活が再開するので、マリアはどこかへ旅しようなどと喜びを隠さない。そこにオズワルドの会計士が訪れ、オズワルドの死を伝え、遺言を伝える。財産の半分をマリアに、もう半分は自分の望みを受け入れてくれたヘルマンに与えるという内容で、それを聞いたマリアはヘルマンがカナダに行った理由を初めて知る。そして笑顔を表わさないどころか、オズワルドの遺産をヘルマンに与えると言う。ヘルマンも同じことを言い、ふたりは大金に関心がない。そしてガス・コンロからのガスが部屋に充満しているのも知らず、マリアはタバコに火を点け、屋敷は爆発炎上する。
 1日半しか一緒に暮らさなかった夫婦が戦争で離れてしまうことは日本でもあったであろう。そして妻が夫の帰りを待ち続けることも珍しくなかったが、同棲では男女はそのようなひたむきな思慕を抱かないであろう。連合軍が爆撃する中、マリア夫とヘルマンが結婚の書類に署名する場面から本作は始まることは、結婚の意味の大きさを示す。一方、結婚しなくても簡単に男女は性交するもので、マリアもそうするが、そこにはやむにやまれない理由があるように描かれる。男に寄りかかるためだけであれば、彼女は売春婦になっていた可能性が大きく、それでは映画にする必要もないとファスビンダーは考えたはずだ。つまり、マリアは結婚した貞淑な妻であり、一緒に暮らしていなくても結婚を重視している。そして、金を稼ぐという現実問題に意欲的だ。本作は戦後のドイツの復興における若い女性の生態、および男社会への進出とその成功を描き、映画の大部分はマリアの生活を描写するが、彼女がこだわり続けた結婚生活がどういうものであったかを考えさせる。マリアはヘルマンが死んだと思って黒人兵と一緒に暮らすが、ヘルマンが戻らなければアメリカに移住していたであろう。それが黒人と抱き合っているところにヘルマンが帰還するというバツの悪さで、彼女は言い訳を考える間もなく、黒人の頭を瓶で叩き割る。その行為は、夫が生きているのであれば、好んで黒人兵などと一緒になるはずがないとの意思表示で、マリアにとって結婚は破れていなかった。ところがひとりの男を殺したことで、復員したヘルマンが身代わりになって服役する。これはヘルマンによるマリアへの愛だ。マリアはそれを感じるので戦後復興の中、裕福になろうとする。金持ちになって生活に不自由のない暮らしに夫を迎えるためだ。彼女はまだ若く、男なしでは生活は出来ないが、肉欲に溺れず、ドライな関係で、ビジネスのパートナーとしてより親密になったほうが何かといいだろうとの打算だ。これは淫らではなくむしろ禁欲的で、彼女はその思いを確信していたので獄中のヘルマンにありのままを伝えられた。そこで彼が妻の不貞行為に幻滅すれば、そこで離婚が成立していた可能性があるが、マリアの眼中にあるのは夫のみだ。夫を待ち続け、手に入れた屋敷でようやく一緒に過ごせるようになったのは、結婚式から10数年経ってのことだ。だが、裕福になりまた一緒に暮らせるようにもなったにもかかわらず、マリアはすべてを失う。そこにどういう必然があったかだが、夫がいながら他の男と肉体関係を持ったマリアに罰が下ったと読み解くのは間違いだろう。屋敷に転居した際、マリアの母は一緒に暮らせると思っていたのにそれがかなわず、屋敷を牢獄と野次る場面がある。母には若い愛人が出来ているのだが、愛の前には過分な経済力は必要ないとの考えが透け見える。それは戦後の復興そのものを懐疑的に見るファスビンダーの思いだ。
 では、マリアが10数年頑張って築いたのは砂上の楼閣で、ヘルマンが帰還しなくても独身を通して慎ましく生きるべきであったかとなると、それはあってはならない物語で、現実にもなかったであろう。マリアが黒人兵士と恋に落ちるのは戦後ドイツの文化をよく表わしている。日本も同じであったからだ。以前に書いたことがあるが、戦後の東京では米兵に言い寄る金持ち夫人がたくさんいたそうだ。鬼畜米英が一夜にしてひれ伏す王侯貴族に変わった。そのことを最も体現したのは女性で、しかも裕福な家庭の夫人であった。マリアがバーで黒人と踊る場面には、グレン・ミラーの音楽が鳴る。マリアは恋人の黒人兵を殺すが、彼から得た英語力がものを言い、アメリカのナイロン・ストッキング製造機械を何台購入すれば売り上げが最もいいかという商談で大胆な提案をする。男なら躊躇することを却って女は平気で、その目先が利く才能によってマリアは成金になって行く。豪華なコートなど、まず衣裳が変わり、そして豪華なレストランにひとりで通う。ところがそういう彼女はどこか怒っているように見える。金を得ても心が満たされないのだ。オズワルドはあくまでもビジネスの同胞であって、体を許してもそこに心はない。あるいは心を込めようとしない。それはヘルマンのことを思うからか。あるいは結婚しているという呪縛のためか。どちらでもあるだろうが、では結婚とは何か。それは毎日一緒に暮らし、そこに愛情を感じることだ。彼女には夫がいても一緒に暮らすことが出来ない。そこで浮気して肉欲を満たしても苦しいだけだろう。あるいは現実ではさっさと他の男と一緒になって、1日半しか一緒に暮らさなかった夫を捨てる場合のほうが圧倒的に多いだろうが、ファスビンダーはそういう月並みなことには関心がなかった。もっと極限の話を描くことで、結婚や愛の本質を問いたかった。本作で存在が希薄なのはヘルマンだ。彼は復員した時、マリアが黒人兵と抱き合っているのを見て、妻、女の現実に幻滅したであろう。いくら自分が死んだものと思われていたにしても、対戦国のしかも黒人を相手に妊娠したのであるから、普通の夫なら怒らないはずがない。だが、離婚しないどころかマリアに代わって罪を被る。そのことにマリアはヘルマンにさらなる愛情を覚えたはずだが、彼女は知り合ったオズワルドにまた体を許す。そしてそのことを悪びれない。ヘルマンのその時の心境は、女は男なしでは生きられないということで、理解を示しつつ、幻滅もしたであろう。ファスビンダーは女とはそういう生き物だと思っていた。極端に言えば女はみな売春婦なところがあるとの考えだ。先にマリアは男のようだと書いたが、それは売春婦的なところが少なく、また男のように物事を計画し、進めて行くからだが、女が男社会で成功するにはそれが必要であることは今も変わらない。
 ヘルマンはオズワルドの申し出をなぜ受けたのか。マリアから肉体関係を持ったと聞いていたので、刑務所から出て2,3年程度ならマリアの前から姿をくらまして、マリアとオズワルドのビジネスの関係をそのまま続けさせてもいいとの考えだろう。また本作には描かれないが、ヘルマンはオズワルドの人間性に惚れたのだろう。またそうであるから改めてマリアがオズワルドに身を委ねたことも理解し得た。ここには自分の女を他の男に与えて喜ぶマゾヒズムが隠れてもいるが、それは妻を自慢したいからでもある。妻は自分の所有物であるから、自分の思いひとつで他の男に抱かせてもいいとの考えは、倫理上は妻にとってはえらく迷惑な話だが、そうは思わない妻もいるだろう。マリアはそうであったかだが、彼女は積極的にオズワルドに抱かれたのであるから、夫に他の男の存在を見せつけるサディスティックな性癖がある。そういうマリアであるから、ハンナはオズワルドからの遺産が手に入った後、自殺せずに生きて行くと考えたのだろう。マリアがヘルマンを想い続けたのは、自分をも愛するからで、そういう人間は自殺はしないものだ。ではファスビンダーは女心を理解しなかったのか。それはあり得る。彼は男で、同性愛者でもあったからだが、マリアを死ななければならない脚本にしたのは、彼女の敗北感を表現するには欠かせなかったからだ。金持ちになる夢をかなえたのに、なぜ敗北したのか。そこをハンナは理解しない。男のように振舞って成功したマリアは、その気になれば長年夫を待たずに男に不自由しない生活を送れる。そう考えるのが現実的でまた世の中は実際そうだろう。だが、マリアは結婚という形にこだわり続ける健気さがあり、そこに他者は入り込めない、つまり夫あるいは自分が浮気することはないとマリアは思っていた。そのゆえ、夫がオズワルドと自分のことで約束するとは考えもしなかった。マリアは理解出来ない同性の愛を知り、それが人生全部を賭ける重いものであることを悟り、自分の存在が夫とオズワルドの間で軽く感じられたのであろう。ヘルマンが服役後に他の女性とカナダで暮らしていたのであればマリアは赦せたかもしれないが、自分についての男同士の約束の前にはどうしようもない。そこには自分の意思はない。オズワルドがヘルマンに求めたのは、2,3年の猶予で、その間オズワルドはマリアを自由に出来るかと言えばその保証はなかく、おそらく抱き合うことはなかった。マリアと仕事することだけで満足し、財産の半分を与える遺言を書いた。このオズワルドの気持ちをファスビンダーは理解し、また描きたかったのだろう。女は打算的に金のある男と結婚するのが常識とされるが、マリアもヘルマンも金に関心はない。オズワルドもそうだ。そういう者の中に真実の愛が育まれる。
 本作には『ベルリン・アレクサンダー広場』に登場する俳優がたくさん出ている。ファスビンダーが戦後の闇市の商人としてわずかに登場する点も面白いが、『ベルリン』の「エピローグ」に登場するファスビンダーはもっと疲れて見える。休みなく仕事をし続けた彼は、本作のマリアに自分を投影したであろう。本作をドイツ史として見る態度も必要で、冒頭にヒトラーの白黒写真、最後には戦後の歴代の首相の顔がネガポジ反転で表示される。その意味がわからなかったが、解説を読むと、1954年にドイツは再軍備し、またワールドカップのサッカーに優勝した。そのラジオを中継が最後の屋敷の場面では流れ続ける。ヒトラーでむちゃくちゃになったドイツが10年後にはまた軍を持ち、サッカーでも世界一になったが、その高度成長とともに成り上がったマリアは屋敷と夫を得たのに死んでしまった。それはファスビンダーが戦後の経済成長を冷ややかに見ていたからであろう。最も大事なものは愛だが、マリアはそれも得られなかった。あるいは字感じなかった。夫のためにと頑張って来たことは何であったか。理想的な死を迎えたのは、マリアに出会ってからのオズワルドのようだが、彼もマリアの愛は拒まれた。だが、マリアを愛することで幸福であった。愛は自分の思いであって、相手から与えられるからこちらも与えるものではない。そのオズワルドの愛をマリアは屋敷で会計士からオズワルドの遺言を読み上げられた時に知った。それは自分がヘルマンに与えた愛情とどう違ったのか。夫はなぜオズワルドの申し出を断って、服役後はすぐに自分と暮らさなかったのか。離れて暮らし続けるのは夫婦とは言えないではないか。マリアがそのように不満に思って当然で、自分が愛を許していないオズワルドに夫が魅せられたであろうことに幻滅したと考えるしかない。離婚の原因はいろいろあるが、浮気は妻が別の男、夫が別の女という形であって、本作のように夫が別の男と結託することは純粋に精神的なものであるから、浮気という軽い言葉で片付けられない。その意味で同性の愛に理解のない人には意味不明の作品と言える。だが、筆者の友人Nは、同性愛者ではなかったが、女好きであっても女を全く信用せず、男は男にしか絶対にわからないことがあると信じていた。そのことを筆者は折りに触れて思い出す。筆者はと言えば、家内と長年暮らしていて、家内はおそらく「とんでもない」ことをし続ける筆者であると呆れ果てているが、それも含めて赦すしかないと思っているだろう。そういう境地に至るのは数十年はかかり、また結婚しているからでもある。それがいいかわるいかは人によって考えが異なり、数年ごとに相手を変えて同棲するのも新鮮でいい。あるいは結婚も十回くらいすれば普通の人の何倍も人生が楽しい。たいていの人は死ねば何も残らないのであるから、生きている間に生を謳歌することだ。
by uuuzen | 2019-06-14 23:59 | ●その他の映画など


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