普段よく歩く人は山登りも苦にならないかと言えば、そうではないだろう。40年ほど前に六甲山に登ったことがあるが、とても苦しかった。ところが山頂の平らなところに至ると、街中を歩く気分で早足になった。

平地を歩くことに慣れていても、斜面は別であることを知った。そういう筆者なので登山は全く関心がなく、富士山に登りたいとも思わない。昨日書いた家内の親友Kは家族で大晦日に富士山の山頂で新年の旭日を見ようとし、天候不順のために見られず、来年こそはという思いになったと聞いた。結局御来光を拝めたのかどうか知らないが、練馬に住んでいることが富士山に登る気持ちを起こさせたと思う。京都や大阪に住んでいればよほどの登山ないし富士山好きでなければ大晦日に家族で登る気になれないのではないか。さて、昨日の続きを書くと、富士山のきれいな形とはほど遠い植樹した塚には、頂上まで細い登山道がジグザグに続いていて、途中に「〇合目」を記す小さな江戸時代のものらしき石標が点在していた。てっぺんには今日の最初の写真のように埋め込みのプレートに標高が記されていて、「37.76メートル」とある。富士山の百分の一だ。これはこの地の精確な標高が測量によって明らかになってからの築塚であることを想像させ、元々あったものを明治になって富士山の百分の一まで嵩上げしたか、逆に削ったのであろう。地面からは十メートルないはずだが、地面を見下ろすとそれなりに登山をした気分になれる。頂点はコンクリートが敷かれ、数人が立つほどの面積がある。古い石の小さな祠がコンクリートの台座上に置かれ、背後を鉄枠が囲む。こうしたミニ富士は江戸時代半ば以降、各地に富士講が出来たことによって造られた。今はすぐ隣りの民家がもっと高く、迫力はなくなっているが、周囲に家が建て込まない頃は子どもの遊び場にもなって近隣では目立った存在であったろう。植樹は根が張って塚全体を大雨や地震で崩れないようにするために必要で、また殺風景さを免れているが、富士山を思わせるには邪魔なものだ。頂上の様子は近年の整備を思わせるが、樹木は手入れをせねばならず、地元住民の世話が偲ばれる。上りと下りとでは道が違い、また下りるほうがひやひやする。高齢者が毎日上り下りするのは富士山には登れないが同じ御利益があるとの考えと、また足腰の運動によいからだが、バランスを崩すと怪我をするから、そういう事故が数回あれば利用が制限されるだろう。そう考えると、江戸時代は富士山のようにもっと斜面がなだらかであったのではないか。富士を模すのであればそうすべきだ。また江戸時代は隣りの住宅はなかったか、あっても平屋であったはずで、塚の裾を大きく広げることは出来た。そうでなければ誰もこの塚を富士の縮小とは思わず、むしろ嘲笑したであろう。戦後は家が建て込み、この神社も肩身が狭くなって来たことを想像する。

江戸時代の京都の画家は富士をよく描いた。富士講が上方にあったとは思えないが、旅行ブームが湧き起こって上方の人々が伊勢のさらに向こうの富士山を見に行こうとしたことは充分考えられる。実際池大雅は登っている。標高3776メートルが「みななろう」の語呂で喧伝されたのは明治以降のはずだが、この語呂はあまりによく出来ていて、陸軍の測量部は1,2メートル程度はさばを読んだのではないか。
測量の時期や方法によって数メートルの差はあって、現在は四捨五入して3778や3775メートルという結果もあるが、3776と大差ないのでそれで通っている。3776で思い出した。先日金森幹夫さんのメールに富士市のアイドル・グループ「3776」がかなり面白く、全部で3776秒の収録時間のコンセプト・アルバムもあり、ザッパ的な演奏をするとのことだ。さて今日の2枚目の写真は富士塚のすぐ東にある鳥居で、階段の突き当りに社がある。塚のてっぺんからこの社は真横に見えたので、この階段は登らなかった。左の鳥居をくぐって右手に金属の案内板があった。3枚目の写真がそれで、文字が判別出来ないが、階段の上の社は「天祖神社本殿」のようだ。2枚目の写真は、階段の途中右手に塚の頂部にある祠とほとんど同じものがある。左右に並ぶ鳥居にはそれぞれ「旧川越街道」と「浅間神社」の駒札があって、前者には、この神社前の道は戦国時代に太田道灌が川越城と江戸城を築いた頃、双方を結ぶ重要な役割を果たしたと書かれる。続きはつぶれている文字があり、「江戸〇には中山道板橋平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷の宣伝にも一役買いました……」とあって、川越や板橋がどこにあるのかわからない筆者なので以下の文章に関心が湧かないが、最後を引用しておく。「通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。浅間神社の富士山、大山不動尊の道標観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。」続いて「浅間神社」の駒札はかなり癖のある字体で読みにくい。祭神の木之花開耶姫命、そして境内社として天祖神社と神明社が並記され、どちらも「大日霎貴命」が祭神となっている。続いて「當社は明治先代に上宿地に築かれ、徳川五代将軍綱吉の頃には時を挙げての祭典もあり、又古く此の地は宿場町として大変な賑わいを見た。……なお、山は明治の前に第一回、明治五年六月に第二回に築造がなされ、……昭和二年六月第三回の築造により現今の様態を呈するに至った。」とあって、前述の塚の裾野がもっと広かったのではとの筆者の想像は間違いのようだが、もう少し富士山らしい形に出来なかったものか。