トリノ・オリンピックが始まってすぐ、先月12日に「白い恋人たち」の音楽について書いたが、14日の深夜、同映画の放送があることを知って録画した。10数年ぶりのことか、改めて見ると思うことが多かった。今回はそれについて書く。
映画はオリンピックで開催された6競技を一応全部紹介していたので、かなり盛りたくさんな内容だ。しかもストーリーのある劇作品ではないので、画面のつながりは記憶しにくい。特徴的な場面はいくつか覚えていた。それはたとえば前にも書いたように、シルヴィ・バルタンがちらりと映ったり、あるいは最後の最後でフランスの国旗がふたりのおじさんによって畳まれる場面だ。さきほど録画を見たばかりだが、やはり同じ印象があって、楽しい画面が多いのであっと言う間に終わったという気がする一方、見方によってはいつ終わるかさっぱりわからない起伏の乏しさのために、とても長いようにも感ずる。これは、あるお祭り的な出来事の会場でその一部始終を収録するドキュメンタリー的映画としては仕方のないところだ。監督が勝手に競技を割愛したり、また会期とは別の日に撮り直すといったことが出来ず、すべての画面はいわばたまたま得られたもので、それを後でスタジオ内で綿密に編集構成して、どうにかドラマティックな映画としてまとめるしかなかった。撮り直しが利かない点で映画に生々しさを付与するが、逆に荒っぽさも浮き彫りになる欠点がある。だが、結果としてはどれほど大量のフィルムを費やしたのだろうと思わせられるほど映像は吟味されている。全部がカラーではなく、モノクロも数分の1はあって、これがまた適当に画面の流れに新鮮な変化をもたらしている。このことはカラーが写真でもTVでもあたりまえになった今なら、見え透いた効果狙いに受け取られるだろう。だが、1968年においてはまだまだモノクロ・フィルムは健在で、この映画でも芸術的効果を狙ってあえてモノクロを使用したのではないだろう。そんな意味から、過渡期な時代はかえって面白いものを生むと言える。過渡期とはいつでもそうだと言えるので、言葉を足せば、1968年はその割合が「強く」「大きく」あった。
このグルノーブルにおける第10回冬季オリンピックは、6競技35種目、参加人数1159人の規模であった。今年のトリノは7競技84種目で、人数は2500人以上で、38年経って倍の種目と参加人数となった。競技で増えたのはカーリングだ。種目ではスキーにおけるスノーボードがある。スノーボードがオリンピックに登場した時は冗談かと思った。スキー板によるどこか紳士的な雰囲気のある滑りに比べて、ほとんどレジャーの遊びに見えるからで、実際選手たちはみなヒップホップ・ダンスでもやりそうな雰囲気があって、どうもオリンピックにそぐわない感じが今もする。それでも金メダルを獲得するほどの技術を得るには、遊び感覚で適当にやっていていいはずはない。そんなことを大いに見せつけられたのが今回のオリンピックであった。それでも、グルノーブルではまだこのスノーボード種目はない。そのことが映画を古風なものに感じさせながらも、どこかきりりとした印象をもたらしていたように感ずる。カーリングは今回日本はかなり頑張って、その競技特有の面白さを茶の間にかなり浸透させたが、何年か前のTV番組で、この競技で使用するあの丸くて重い「石」が日本で作られていて、しかも1個数十万円もすると知った。日本も競技用の道具を提供するだけでなく、早く優秀な成績を収めてほしいと思ったものだが、ヨーロッパが先んじる伝統の厚みをそう簡単に打ち破ることは出来ない。歴史に対抗するには同じように歴史が必要だ。それはさておき、筆者がこのカーリングを初めて知ったのは1965年、ビートルズの映画『ヘルプ!』によってだ。ビートルズの4人はオーストリアのアルプスで雪の場面を撮影したが、その時、映画の筋書きとは何の関係もないが、カーリングもしたのだった。丸い石の固まりが氷のうえを滑って行くのに合わせて、ビートルズのメンバーがほうきのようなもので氷の表面を忙しく掃いている姿がとても印象的で、日本でもやっている人があるのかなと思った。カーリングがいつオリンピック競技として認められたのかは知らないが、ビートルズが同映画でわずかながらも実演したことは、世界に知らせるにはかなり大きな貢献があったのではないかと思う。
ところで、ビートルズはオーストリアのどのあたりの雪山にロケで訪れたのだろうか。ドイツに縁の深いビートルズを思えば、旧西ドイツ南端のバイエルン・アルプスの首都インスブルックあたりかと想像する。アルプス山脈はオーストリアから西のスイスに連なり、そしてさらに西南方向に曲がって地中海に達するが、スイスを越えるとアルプス西はフランス、東はイタリアで、両国はアルプスを介して国境を接する。グルノーブルはアルプスの西の麓、トリノは東の麓で、ふたつの都市を直線で結ぶと150キロほどだ。これは日本で言えば金沢と長野のような関係で、思いのほか近い。今回この映画を見て面白かったのは、競技以外の映像がなかなか巧みに配置されていることだった。一般の人々や裏方が盛んに登場し、人間味溢れるものとなっているのは、たとえばアンリ・カルティエ=ブレッソンの庶民的な写真を味わうのと同じ思いがする。そんな中で、特に目を引いたのは、チロル風の衣装を身につけた人々が民族歌曲を野外で歌ったり、またビア・ホールでビールの飲み比べ大会をする様子だ。チロルはオーストリアの州のひとつだが、ビールの本場である南ドイツのバンエルンからは近く、そのバイエルンからはアルプス伝いにグルノーブルまで300キロほどの距離であるので、同じような風俗がグルノーブルにあってもおかしくない。現在の国境ではなく、かつての公国単位で考えると、アルプス沿いの地域は同じ文化圏であったからだ。もうひとつ、同じようなことで気づいたのは、フラメンコを踊る貫祿充分の女性が歌う劇場が映ったことだ。冬のグルノーブルになぜスペイン的なフラメンコかと意外に感ずるが、ローヌ川の分流に位置するグルノーブルから南方100キロはアビニョン、さらに南に行くとアルルがある。同地はアルフォンス・ドーデの短編集『風車小屋だより』で有名で、そこから地中海沿いをぐるりと西に200キロほどのところがスペインのバルセロナであることを思うと、フランス北部とは全く違う文化圏の南仏が改めてわかる。つまり、アルプスの麓でしかも地中海からはかなり奥地に入ったところに位置するグルノーブルだが、ローヌ川によって地中海とはつながっていて、ここは南仏の文化も盛んというわけだ。
さて、映画は最初、「白い恋人たち」の3拍子のメロディが男性の口笛で吹かれるシーンから始まる。そして「この映画は公式なドキュメンタリーではない」といったただし書きが出て、楽隊の演奏シーンからすぐさま聖歌リレーのシーンに続く。聖火を運ぶ少年少女、青年男女はみな色白で赤ら顔をしていて、いかにも田舎の純朴な様子が伝わる。どこかドイツ人っぽい顔立ちだ。彼らが寒い中をひた走る時、主題曲の音楽が聞こえて来るが、これは前に書き忘れたが、シングル盤には挿入されない序奏部分から始まる。映画の挿入音楽は他にもいくつかあって、これら全部を収録したLPにはひょっとすればこの序奏部分も収録されているかもしれない。シングルでカットされたのはただ長くなるという理由からだと思うが、映画では、弦楽器によって奏でられるこの序奏の、風がたゆたうようなメロディがとても効果的で、これがなければ映画の幻想的でロマンティックな映像美は半減したことだろう。また、序奏だけではなく、一旦音楽が終わった後、木管楽器主体によるリンクのメロディもある。これが終わるとさらに最初からもう一度主題曲が繰り返されるが、そうなるとこの曲の本当の姿は7分程度の長さがあるだろう。序奏もこの中間部のリンク・メロディも、本体の主題曲とは同じ調性によっているが、このような映画とシングル盤の差は、同時代の作品としては『ドクトル・ジバゴ』にも例があって、やはり映画ではレコードにない別の特徴的なメロディが付属していた。これは有名な「ララのテーマ」を知っていて映画をまだ見たことのない人にとってはちょっとした衝撃で、映画を見た後は、そのレコードにはないメロディがずっと脳裏に焼きついて忘れられなくなる。その意味で収録時間の短いシングル盤はかなり罪づくりなものだ。話を戻して、この特徴的な音楽は今回さらに発見があった。それは映画では2度登場したが、その最初はごくごく小さな音量に絞られて、ジャンプ競技の練習光景の背後に流れた。メロディはかなり教会音楽風で、その中にこの「白い恋人たち」に通ずる特徴的な旋律があった。もちろん、本当の教会の中でのパイプオルガンの演奏ではなく、それをハモンドオルガンか何か、もっと手軽な音で代用はしているし、どこかジャズっぽい雰囲気もあるが、それでもメロディのうねりは教会音楽に共通するものだ。つまり、フランスの教会音楽からフランシス・レイはアレンジしてこの主題曲を作ったという推察が可能なのだ。また、この教会音楽的なメロディはさらに大胆にアレンジされて甘いジャズ的なムード音楽となり、それも映画では2度別々のシーンで使用されていた。
そのひとつは、グルノーブルにやって来たバックパッカー姿の日本人男性が盛んに町の光景や人々を写真機で撮影する場面に効果的に流れる。それは珍しいものを見つめ回すような視線が感じられて、好意なのではあろうが、何だか日本人の典型を見ているようで気恥ずかしい思いがする。ほかにもこの映画では日本人はよく登場し、その顔、身振り、声といった全存在がフランス人の目から見れば、まだまだユニークなものであったことがうかがえる。この点においては、1968年はまだフランスにとっては日本は江戸や明治時代同然であったかと思いたくなるほどだ。今では中国の選手も冬季オリンピックに出るのでそんなことはないが、何しろまだ60年代のことで、アジア人というものがヨーロッパからは不思議な存在に見えたのだろう。開会式が始まる前に日本人選手たちのくつろぐ姿を撮影したモノクロの場面があって、背後から聞こえる日本人女性の笑い声は、明らかに編集によってしつっこくリピートされたもので、その黄色い声がよほどクロード・ルルーシュ監督の耳には異様に響いたのかもしれない。こうした編集は音声、あるいは音楽だけではない。映像にもたくさんあって、明らかにドラマティックな効果を狙って、別々の時間に撮影したものをひと続きにモンタージュしている箇所があった。その意味で監督は最初に「ドキュメンタリーではない」とわざわざ断ったのであろう。このオリンピックで大活躍をしたのは、フランス人のジャン・クロード・キリーだ。彼は滑降、回転、大回転の3つで金メダルを獲ったが、キリーの表情は何度もアップになり、しかも特別の歌詞つきの映画音楽まで書かれて挿入された。その歌詞はなかなかいいものだが、ここでは吟味する余裕がない。キリーを初め、合計3人の滑降や回転競技をそのまま選手が滑るのと並行しながら滑りつつ撮影した画面があったが、これがこの映画における最も圧巻だ。そのスリリングさに一体どのようにして撮影したのかと誰しも思う。最初は滑る選手の前方、そして途中で選手が撮影者を追い越すが、そのまま一定の距離を持ってカメラマンはゴールまで走る。妨害になっては大変であるから、これは練習の際に撮ったものをうまく合成したものかとも思ったりするが、選手のスピード感をそのまま伝える工夫としては前代未聞のもので迫力がある。だが、女性選手の大回転では優勝者のオルガ・パールが1分40秒87の記録で、映画が撮影していたある選手の場合、これには当然及ばない記録であったにもかかわらず、映画では出発からゴールまで切れ目なしに撮影して、それが1分15秒の長さしかなかった。つまり、大変な急速に見えている映像は、明らかに早いコマ送り処理をしてあるわけだ。
書きたいことはまだまだあるが、最後にひとつだけ加えておこう。このオリンピックはド・ゴール大統領の参列を得て、2月6日に開会式があった。そして13日間の会期だが、映画では新聞の第1面が2度映った。グルノーブルの町角で新聞売りがオリンピックの記事が載ったものをカメラに向かって見せるのだが、2回とも新聞トップの右欄はヴェトナム戦争に関するもので、これは監督が意図したわけではないのだろうが、それでもフランスとは縁の深いヴェトナムの、しかもその現在の不幸な歴史から目をそらさないという意思が感じられた。ちらりと映ったのでこれは曖昧だが、記事のひとつの見出しは「Vietnam:negociatin dan l’air」で、これは当然北爆についての協議だ。だが、まさにこのオリンピックの時期からはアメリカによるB29による北ヴェトナム爆撃は激しさを増し、しかもその飛行機は沖縄から飛び立っていた。その戦争による恩恵を日本本土は以後何年間も受けたお陰もあって、経済の高度成長はうなぎのぼりに上昇し、グルノーブルの次の冬季オリンピックは1972年に札幌で開催された。もちろんその前の1970年には日本で万博があったし、1975年には沖縄の海洋博も続く。アメリカの北爆に抗議して日本の学生が大騒ぎをし始めるのもこの1968年からだが、ノンポリであった筆者は、演説上手で先生たちを吊るしあげる学生たちが、すんなり真面目になっていい就職先を探し当てることに躍起になっていることに幻滅していた。最後に書いておきたいのは、主題曲のコーラス版の歌詞だ。前はフランス語の歌詞がないので、「白い恋人たち」という言葉が歌の中に実際はあるのかどうか調べられないと書いた。その後、ネットで簡単に見つかった。また映画ではこのコーラスは最後で歌われ、そこでは字幕がついているのでそれなりにわかる。結果を言えば、「白い恋人たち」は日本の独創だ。実際はただの「恋人(l’amour)」と歌われる。日本のシングル盤ではこの最後ヴァースは、「だが 13日の日々 フランスの白い恋人は片時も忘れない 彼らと並んで続いていたゲームを」となっている。「並んで続いていたゲームを(Les jeux suivraientleur cours…)」を深読みすると、ヴェトナム戦争のことでもあり得る。