歓喜は元気、元気は根気、根気は熱気、熱気は歓喜と、まあどうでもいい連想を書いたが、歓喜、元気、根気、熱気が溢れる7人編成のバンドの演奏というのがhenrytennis(ヘンリーテニス)で、彼らは東京からやって来た。

昨日書いた「キツネの嫁入り」のマドナシさんとは10数年前からの知り合いで、彼に頼んで今回のライヴが実現した。そのことをステージで上手に陣取ったギタリストでリーダーらしき奥村祥人さんが演奏の途中で語った。先ほどYOUTUBEを確認すると、その先月25日の演奏が池島さんによって全部投稿されている。それを見れば筆者がこれから書く感想を読む必要はないが、文章はひとつの娯楽であり、筆者は変な名前のヘンリーテニスにあやかって、「変理手にす」の精神で、変な理屈をこねたい。まず、管楽器を3人配したバンドは珍しいだろう。東京からやって来るのは経済的にも大変で、26日は大阪でライヴがあると聞いたが、神戸その他でも演奏しなければもったいない。そう言えば思い出した。昔ジョニ―・ギター・ワトソンの来日ライヴを京都のライヴハウスで見た時、客は10数人で、演奏者もそれに近いほど多く、筆者は最前列で迫力を堪能した。ギターを弾くスーツ姿のジョニーは筆者の膝に何度か触れながら客席を少し動き回り、その1,2日後、ステージに姿を見せた途端急死した。他のメンバーたちには最低最悪の来日であった。それに比べるとヘンリーテニスの演奏は客が大いに沸き、ライヴは成功であったろう。またそうであったので池島さんの録画が公表されたはずだ。さて、サックス類やトロンボーンは束になると何と言っても明るく、華やかだ。最初の曲から筆者は60年代のジャズ・ロックの代表シカゴの演奏を思い浮かべたが、それから半世紀経ち、ヘンリーテニスが彼らの影響を受けたとは考えにくい。そう言えば初期のシカゴの演奏を受け継ぐバンドがあるのだろうか。彼らは「サタデイ・イン・ザ・パーク」の大ヒットによってポップ路線に様変わりし、世界的人気を不動にしたが、初期を知る者には断然初期の曲がいい。これは難しい問題だ。わかりやすい音楽によって大人気と大金を得ることがミュージシャンの最終的な夢なのか、あるいはそれを成功とは考えずに自分たちしか出来ない個性的な音楽をやり通したいのかだが、大ヒット曲は狙っても書けないので、やはり大ヒット曲を放つことは大きな才能と見る向きがある。また大ヒットがなくても固定ファンに長らく愛されることはあるので、結局のところ自分の気の済むように音楽活動をすることが何よりだ。ただし、メンバーが多いと全員揃っての練習が大変で、経済的な問題が重くのしかかる。奥村さんはその経済事情を少しでも改善するために物販を用意していると語ったが、TシャツがSSとLXサイズしかないとのことで、笑いを誘っていた。

初期シカゴのギターは音がとても大きくて図太かったが、奥村さんのギターの構え方と爪弾き方には癖があって、音はあまり大きくなく、その上品さがよい。彼は遠目には「オタク」の風貌で、関心のあるものにのめり込むタイプに見える。つまり、好きな音楽を徹底的に研究する性質で、筆者は彼が聴いて来た音楽の種類や幅について想像が及ばない。半世紀の間、アメリカのジャズ・ロックも変化して来たはずで、ましてや日本となるとアメリカには到底実力はかなわないだろうが、その代わりに日本的な特長を持つ。それはすべての日本のミュージシャンに言えることだが、ジャズやロックの日本的解釈としての優れた個性の作例となると、筆者には知識がない。先日「ベイビー・メタル」について少し触れた。そのヴォーカルの人形的な「かわいい」女子が欧米人にはメタル・ミュージックのイメージを塗り替えることに衝撃があったことはよく理解出来る。ただし「色物」としての扱いに近いのではないか。メタルそのものが元から色物の塊と見ることも出来るので、「ベイビー・メタル」については欧米人でも賛否があると思うが、たとえばヘンリーテニスのジャズ・ロックないしジャズ・プログレとでも言える器楽アンサンブルは、色物として見られる何かで特徴づけられるのかとなれば、それはないだろう。三味線でも使えば日本を売りにしていると見られ、またその面白さで歓迎されるかもしれないが、彼らはいわば正統な方法でジャズ・ロックに挑戦している。そこに勝ち目があるのかないかとなれば、日本という辺境の地にもジャズ・ロック・バンドがいるという程度の認識にしかなり得ないほどにアメリカにはその歴史が長く、また恐るべき才能を持ったミュージシャンが掃いて捨てるほどいるだろう。そこで何で勝負すべきかだが、よほど変な理を手にし、戦略を練らねばならない。その「変理手にす」の意識は「色物」「イカモノ」を目指せというのではないが、「ベイビー・メタル」のようなポップ感覚は学んでよい。奥村さんの「オタク」っぽい真面目な雰囲気はいいとして、もっと弾けていい。衣裳や舞台上の動きに凝るのはどうだろう。別の言葉を使えば、「クレイジー」さがほしい。彼らの演奏には、きりりとした、あるいはスリリングな、また凄みと言ってもよい迫力が不足している。それは月並みな言葉で言えばカリスマ性だ。芸術行為は理詰めで何事も成功するとは限らない。その理を変調させる思考も必要だ。彼らがステージに上がっていたのはほとんど1時間近かったが、奥村さんの話はユーモアがなくはないが、少々長過ぎて間延びしていた。その時間を演奏に使い、またもっと客を楽しませる工夫をしたほうがよい。ステージに上がっている間は語りも演奏のうちで、話術は楽器を演奏するのと同じほどの才能が欠かせない。
ネットに奥村さんへのインタヴューがある。今斜め読みしたが、最初にビートルズを聴いたとある。インタヴュアーは「少年期からディープな音楽リスナーだったんですね」と発言しているが、奥村さんはビートルズ以降は筆者がほとんど聴かない、あるいは全く知らない音楽を聴きながら、近年は「SNARKY PUPPY」というジャズ・バンドに魅せられ、それで管楽器を3人揃えた。また「音楽の進化に付与したい」、「自分が能力としてやれるのはポップ」との発言は、「ポップ性豊かなジャズ・ロックによって音楽の進化に痕跡を残したい」ということになる。「音楽の進化」は後進に影響を与えることで、これはCDが残る限り、それを聴いて衝撃を受ける人が現われる可能性はある。ポップ性はビートルズの音楽から感化を受けたであろう。ビートルズは誰からも歓迎されやすい明るい音楽だ。ビートルズとヘンリーテニスは筆者にはなかなか結びつかないが、ポップ性を指摘されるとなるほどと思う。また、そうであれば彼の音楽は管楽器を使わない方向を目指せば現在とは全然違ったものになることであって、それを聴いてみたい。それはさておき、前述の日本的な強みは「ポップ性」としてよく、これは「かわいい」の言い換えでもある。となれば、彼らの音楽が切れ味鋭いアメリカのジャズに比べて軽い印象を与えるのは道理で、軽さを持ち味とするしかない。これは「頼りない」の意味も含むが、「軽々と演奏する」という「力みのなさ」と捉えることも出来る。筆者はジャズには詳しくないが、たとえばアンソニー・ブラクストンのようなそれこそ「変理手にす」の才能は日本からはまず生まれようがなく、また求められてもいないことを感じる一方、彼のような音楽がジャズから出て来ることにジャズを生んだ国の矜持を思う。それはザッパもしかりで、彼が「ジャズ・フロム・ヘル」を作ったのは、いかにジャズを愛しているか、またその世界で少しでも痕跡を残したい願望の表われだが、日本にいてジャズに挑戦するのは隔靴掻痒の面が強く、深刻ぶっても聴き手は「かろみ」を感じるだろう。その意味で奥村さんは実に正直で、ある意味、「ベイビー・メタル」と通じている。あるいは通じざるを得ない状況に誰もがある。その「かろみ」は300年前に芭蕉が到達した理であって、そのことを顧みると三味線を使わずとも日本らしさを付与出来るだろう。先に筆者が衣裳や振りにこだわったほうがよいと書いたのはその思いからで、日本の古い伝統にいくらでもヒントある。世界に出て自己主張するには、あたりまえに思っている理を変化させ、それを手段として持つしかない。「ヘンリーのテニス、変なの」「どこが?」「ボールでラケットを打つのよ」「面白いじゃん!」「ラケットがロケットのように飛んで来るのよ!」「球技じゃなくてロケット技ね」「理を変えたら駄目よ」「その理を変えるのよ」