薄力粉と強力粉があることは知っているが、どちらも小麦粉だ。小麦粉はメリケン粉でもあるので、名前がいろいろあってややこしいが、小麦の皮の部分を「ふすま」と呼ぶことを知った時、「襖」とどう関係があるのかと頭が混乱した。

そう言えばメキシコに亡命したアメリカの音楽家Conlon Nancarrowを筆者は、「混乱何かあろう」と読み替え、混乱するのには何か原因があり、それを明らかにすればよいとよく思うが、彼の作品は混乱が激しいものがあって、今後もどの曲もよく覚えるようにはならないだろう。人間の手では演奏出来ない彼のピアノ曲からは、人間のロボット性ないしロボットへの憧憬が伝わる。人間技には限界があり、それを超越した境地を求めるのは人間が進化して来た証であろう。人間の手では不可能な、また嫌なことをロボットにさせることは今後ますます拡大化し、人間は好きなことだけして生きて行ける時代が来るだろうが、その好きなことが問題で、退屈のあまり、人殺しを趣味とする人間も増えるだろう。そういう世情の混乱には何か原因があるはずだが、どれだけ文明が進歩しても人間の本質は変わらない。先日、人間がロボット化すれば1万年の寿命を得ると意見するインタヴィーをネットで読んだ。それは電気がなくならないことを前提にしていて、何だかおかしい。人間は停電があることやパソコンが雷で壊れることを知っているから、1万年もロボットを安定して動かすという発想はあまりに滑稽だ。たとえ1万年の間、ロボットに通電可能として、その間に電気代の支払いの滞納によって電気が切られることはあるはずで、1万年生きるはずのロボット的人間は、貧富の差によって現在の人間より平均寿命が短くなる可能性がある。学者の机上の空論は笑い話として聞くべきで、またそんな話は数年経てば忘れ去られる。コンピュータに絵を描かせる試みが以前からあるが、ロボットが最も不得意とするのは芸術だろう。なぜ人間はそれを必要とするか。そのことはまだ解明されておらず、今後もわからないはずで、ロボットがもっと活躍する時代になってもライヴハウスはなくならないだろう。ライヴとは人間が生きていることだ。ロボットが動いていることをライヴと言いたくないし、また言わない。さて、今日から4日間、先月25日に金森幹夫さんの誘いで見たライヴについて順に取り上げる。JR二条駅から北へ2,3分のところにある倉庫のような建物で、スタンディングで200名収容とある。これは超満員電車状態で、せいぜい40人がいいところだ。つまり、広さは平均的なライヴハウスと変わらない。3人で予約するとひとり1400円になるというので、金森さんは桂在住の池島さんを誘った。彼は融解建築のライヴを何度も見ていて、今回も撮影した。彼らに見せてOKが出るとYOUTUBEに投稿するとのことだ。

融解建築のメンバー全員かどうか知らないが、京大卒と聞いた。それを納得させる知的な雰囲気の音楽で、また演奏メンバーもおとなしい感じだ。それは筆者のこれまでのライヴハウス経験からすれば、どちらかと言えば珍しいと思う。ライヴハウスで演奏するとなると、大勢の人の前で自分の姿を見せたいという自己顕示欲がある。それは大阪弁で言えば「ええかっこしい」がだいたいやりたがることで、音楽をやる動機は異性にモテたいという場合が多いだろう。それは不純ではない。むしろ若者ならば生への活力が溢れて好ましい。ただし、「ええかっこしい」だけで終わってしまえば笑い草であるから、演奏の技術を磨く禁欲さは必要だ。それが「格好いい」理由になるが、10年近く音楽活動を続ける場合、初期の「ええかっこしい」から「格好いい」へとそれなりに脱皮しているはずで、またそういう連中がライヴハウスで演奏するだろう。とはいえ、作品は人柄を映すから、初期の段階で「ええかっこしい」の側面が強かった者と、どちらかと言えば「真面目でおとなしい」者とでは、10年後の音楽に個性の差が大きく出て来る。どちらがいいわるいの問題ではなく、演奏する者がさまざまであれば聴き手もそれに呼応し、自分が好きな音楽家を応援すればよい。またそれは誰からも言われずともそうなっている。それで融解建築の音楽を好む人は、その知的で上品な、いかにも京都らしい雅さとでもいったものを聴き取るはずで、そういう音楽は比較的珍しいのではないかと筆者は思っている。彼らが音楽を始めたきっかけに「ええかっこしい」が少しは混じっていたであろうが、それよりも自分たちが好きな音楽を地道に続けて行くという、研究者のような態度があってのことではなかったかと想像する。それは創作に向かって少しずつ時間を重ねることであり、その過程で彼らは確実に実績が得られることを知っている。つまり、一発大きく当てるという山っ気がなく、はったりも感じさせないのだが、それは生活の安定を一方で確保しているからであろう。筆者にとって今回のライヴは3月以来二度目だが、ドラムスが本来のメンバーに戻ったとのことで、彼は産休でバンド活動を一時停止していたと聞いた。全員30代半ばの年齢と思うが、仕事を持ちながら音楽活動をしているのはどの若い音楽家でもほとんど同じとして、産休が得られるのはそれなりに安定した職種であろうし、またその安定性があるので音楽も落ち着いた雰囲気のものになるのであろう。それは「ええかっこしい」のまま刹那的に突っ走ることとは大違いだが、そうであるから音楽もいいと思う人と、反対に面白くないと考える人もある。芸術の中でも音楽は一瞬ごとが表現であるので、特に家庭的にも経済的にも安定しているからといって優れた音楽が出来るとは限らない。

4月末に松本さんから四条高辻のBlueEyesでのライヴを知らせてもらったが、当日融解建築はフルートと鍵盤奏者のふたりが「融解‘木造’建築」という新たな名前で演奏したことを後で知った。演奏の様子はYOUTUBEに投稿されていて、とてもゆったりと落ち着いた情緒豊かな演奏で、いかにも京都らしいのがよい。鍵盤は和音を奏でる伴奏に徹し、フルートが旋律を紡いで行くが、鍵盤楽器が電子音であるので「木造」の言葉はやや似合わない。普段はドラムスにエレキのベースとギターの3人を加えるので、その電気的なイメージを「木造」でも継いだのかもしれないが、ピアノを使ってアコースティックにこだわったほうが面白いのではないか。それはさておき、「融解‘木造’建築」は今後も続けられるようだが、5人編成のレパートリーを全部網羅するというのではなさそうで、またそのデュオの演奏は融解建築の素描的表現とは言い切れず、融解建築としての活動は続く。では「木造」が薄力粉で、「融解建築」は強力粉の鉄筋コンクリートとなりそうだが、後者は電気楽器が増える分、現代建築らしい音で、またアップテンポの曲が目立つ。ただし、ドラムスが力いっぱい叩くというスタイルではなく、サンプリングした音やルーパーを使わず、どの音も実際に生で奏で、室内楽的な和楽アンサンブルの雰囲気が強い。今回フルートの男性は雪駄に白足袋を履いて演奏したが、そういうところにも和への意識が見える。ヴォーカルがない分、それをフルートで代用していると言ってよく、その繰り返しの多いメロディは陰旋法や陽旋法を部分的に使っているような気がした。拍子は手締めの三三七拍子やあるいは五七調や七五調の言葉を連想させる変則的なものが混じり、彼らの思い描く鉄筋コンクリートの建物は和の意匠性に富むようだ。またそうなれば京都を拠点にするのは強みで、仮に伝統を発掘するならばいくらでも使える要素はある。以前は女性がフルートを担当したそうで、男性に代わったことで音楽が変化したのかどうかはわからないが、フルートを中心にするところはライヴハウスで活動するバンドではおそらくきわめて珍しいはずで、それが「木造」のデュオの演奏に拡大しているのは、また「今度何かあろう」と思わせて楽しい。クラシック系の音楽家がいわゆる軽音楽に参入し、またそれを侮らずに個性的な作品を書いてライヴハウスで演奏する方向がもっとあっていいが、ジャズを学んでいなければビートの取り方がおそまつになりやすく、軽音楽とはいえ、そのハードルは低くはない。「木造」として活動するところ、フルートと鍵盤のふたりが最重要人物で、彼らが作曲しているのであろう。京都に国を代表する文化のお祭りがあれば、音楽部門にはクラシック畑からではなしに、融解建築を代表格として招待するのがいいのではないか。そういう場にふさわしい典雅さがある。