客と思った人物が出演者だと後でわかったが、出演者の服装はいわゆるステージ衣裳と呼べる雰囲気のものから、今日取り上げる福岡からやって来たふたり組「SCREAMING CAR SHOW」(叫ぶ車のショー)の女性「Izumi Haruna」(以下、いずみさん)のように、Tシャツとスカートにスニーカーという普段着までさまざまだ。

いずみさんの姿を店内で最初に見かけた時はてっきりお客さんだと思った。彼女の相方のギタリスト「Yoshida Hajime」(以下、吉田さん)も同じくナイキのスニーカーを履いていたので、いずみさんの近所に買い物にでも行くような服装は、それなりにステージ衣裳であるのだろう。そのことから想像出来るのは、彼らの音楽が普段着的ということだ。「普段」を「普通」と捉えるとして、「普通」は定義が難しい。人さまざまであるからだ。一応は大多数の人の様態と言っておけばいいが、ライヴハウスで演奏する若者たちはその大多数に入っていることを拒否するだろう。彼らの「普段」や「普通」は彼らの考えに基準がある。それは大多数の普通の人から見れば「過激」なものだ。「過激」には悪いイメージがあり、「普通」からは忌避されるが、そうであるから憧れの対象にもなる。ミュージシャンは他の職種の人とは違って独特のオーラがあるとよく言われるが、それは「普通」ではない「過激」さだ。またそれはミュージシャンでなくても持ち合わせている場合がある。ヤクザやヒモ、ダメンズと言われる男たちだが、彼らを熱烈に愛する女性が一部にいるので、うまく均衡が保たれている。ヤクザやヒモとミュージシャンを同列に置くと誤解を与えかねないので、そこに芸術家や舞台人も含めておくが、役所勤めをするような安定した職業に就きたいとは思わない連中と思えばよい。もう少し書いておく。先日亡くなった家内の妹の夫は寿司店を経営していたが、全くの職人で、そのあまりに真面目な生活態度を、家内の姉は筆者に向かってよく揶揄する。「ああいう男の人のどこがいい?」 この言葉に対して筆者は毎回無言で微笑むが、義姉がその言葉を発するのは、筆者が義妹の夫とは全然違う生き方をしているからだ。つまりは筆者が「普通」ではなく、「過激」なところを持ち合わせていることを知ってのことだが、ただしヤクザやヒモ、ダメンズは論外で、あたりまえのまともな生活をしていることを前提にしたうえでの「過激」であるのは言うまでもない。話を戻すと、いずみさんと吉田さんは常識人としての生活を送りながら、音楽は「過激」さが露わで、車が猛速度で、あるいは急停止して悲鳴を上げるようなスリルを楽しんでいるところが感じられる。またふたりは相性がよさそうで、演奏に年季が入っているように見えるのは、夫婦か恋人であるからかと勝手な想像を巡らす。
一見したところ、いずみさんはどこにでもいそうなごく普通の女性のようだが、それだけに彼女の演奏する姿は過激さが増して見える。もっと奇抜な衣裳と化粧であれば、案外客はそのたたずまいに気を取られて音楽をさほど過激とは思わない。もっとも、彼女は過激な音楽と思われることを普通と思っているはずで、自分の身近な生活の中から詩を書き、音をサンプリングし、打ち込みもする。それは日常に潜む狂気を音楽で表現するというのではない。そういう異常性を狙う「はったり」は彼らの演奏には感じられない。目つきやファッション、物腰で格好をつけたがる人物がよくいるが、そういうのに限って中身は大したことがない。いずみさんはパソコンとそれにつないだシークエンサーを操作しながら歌うが、その様子は動きが乏しいのでミュージシャンらしくない。そこがライヴでは物足りなさではあるが、今YOUTUBEなどで彼らの録音を聴きながら思うのは、ライヴはそれとは全然違って迫力が何倍もあったことだ。これはどの音も爆音的に鳴らしていたからでもあるが、おそらくCDと同じ曲であっても、ひとまずギターの音を省いてのことだが、同じ音を鳴らしていないだろう。会場では彼女の奏でる音はとても種類が多く聞こえた。ボタン操作ひとつで同時にいくつかの音を鳴らすことや音の切り替えを頻繁に行なうことが可能だが、リズムを保てば打ち込みやサンプリングもある程度の即興演奏は出来るであろう。ともかく、彼女の作曲は、身の周りで気づいたことをごく短い詩として書き留め、それに音を重ねて行く段階で当初の感覚はどんどん色合いが増え、厚みを増して行くもののように思える。それは彼女にとって料理のようなものだろう。彼女の演奏に筆者はザッパの自宅スタジオの名前「Utility Muffin Research Kitchen」を思い出した。台所を音作りに使わずとも、今はノート・パソコン1台でたいていどんな音でも出せる。彼女は自ら集めて加工した音を、ボタンを押せばすぐに取り出せるようにしかるべき場所に集めていて、そのボタン操作の組み合わせを変えれば曲はほとんど無限に作り得る。実際彼女の演奏はどの曲も雰囲気が似ていて、ある曲の一部を別の曲のそれに置き換えてもあまり不具合は生じないだろう。それは一部とはいえ、その一部が何度も繰り返されるリフであるからだ。リフAからリフBへと交代する場合、リフBである必然はさしてなく、リフCでもよい。となると、彼らの曲の大きな特徴はリフと言えるが、実際そのとおりだ。そのリフやその元となる音形をいずみさんはパソコンで作り、それをライヴではパソコンから取り出す。その伴奏に彼女は詩をほとんど力まずに歌い載せるが、その詩もリフに呼応して繰り返しがほとんどだ。また喜怒哀楽を描いたものではなく、日常で何気なく感じる気分や視覚性の断片だ。

ふたりとしては2018年に活動を始めたが、ふたりともキャリアは長いだろう。ステージでの様子を見ていると、いずみさんが主役で、吉田さんは補佐に思えたが、ライヴではギターの音はかなり目立って、ラップトップから流れる音色と拮抗していた。そしてやはり予め録音された音ではない、生身の人間が奏でるギターは迫力があった。CDではどこからどこまでが打ち込みによる音かわからない。また吉田さんのギターはいずみさんから繰り出すリフを模倣せず、吉田さんが書いたものだろう。その技術はとても手慣れたもので、筆者はキャプテン・ビーフハートの『トラウト・マスク・レプリカ』の幾多のギター・リフとその組み合わせを連想した。ただし、SCREAMING CAR SHOWの音楽はパソコン時代の技術を最大限に使ったもので、客の前で楽器を演奏する技術を持たなくても、また主婦であっても時間と興味があればある程度同様のものを作り得る。そして、主婦では絶対に真似出来ない部分が吉田さんのギターで、これがあることによって「過激」が増している。5曲演奏されたと思うが、最後は「ケチャップ」で、いずみさんは演奏の前に「ガラスが割れる音がしますから注意してください」と語った。いずみさんは台所でグラスを割ってしまい、そこでその音を収録して使おうと思ったのではないか。ジョージ・デュークの1986年のアルバムの冒頭曲「BROKEN GLASS」のイントロに同じ音が使われるが、その失恋をテーマにした歌詞を伴なうダンサブルなファンク・ミュージックとは違って、「ケチャップ」は「ケチャップがないから ぐるぐる回るサニー 聞けばすぐわかるのに」の歌詞を繰り返し、聴き手には意味を把握するだけの情報が与えられていない。またガラスの割れる音は頻繁に使われ、掃除機のような音も混じる。そして繰り返しの多い曲であっても踊れるものではない。「冷蔵庫」という曲も台所につながっているが、ガラスを割るのと同じく、台所仕事の失態を描く。歌詞は「冷蔵庫入れ損ねた パンとかジャムとかチーズ、ヨーグル どんどん腐ってく 細胞壊れてく」という短いもので、台所仕事は苦手だが、代わりに曲が生まれたといったところか。それは冗談だが、表現する意欲があれば、画家よりも音楽家のほうが今はやりやすいかもしれない。パソコンで絵を描くことも出来るが、まだ筆と絵具で描くことが主流で、それにはある程度の広さを持った場所やまとまった時間が必要だ。一方、いずみさんのように、ライヴで自作を披露するのに、楽器を演奏する必要はなく、パソコンに音を少しずつ蓄積すれば、それを絵具のように取り出して大音量で鳴らすことが出来る。だが、ニューヨークで活躍するイクエ・モリなど、そういう音楽家は珍しくなく、いかに目立つかは共演する音楽家次第とも言える。その意味でいずみ・吉田のコンビは迫力満点の珍しい音楽を聴かせる。