湿度は漆の乾燥に必要で、それで日本では漆の工芸が発達した。日本には今ももちろん漆の作家はいるが、手仕事は高くつくことや漆の光沢とプラスティックのそれがわからない人が増え、後者で充分という状況になっている。

それに漆の工芸品は手入れが厄介で、またそれを嫌だと考えるほどに使い捨て文化が浸透した。そうなれば人間も使い捨てになるのはあたりまえ過ぎる。そのうち国も使い捨て、地球もそうだということになるに決まっている。使い捨ては正しいということで、結婚すれば即離婚、そしてまた結婚離婚を繰り返すことが正しい生き方とされるし、実際そうなって来ている。「使い捨て万歳!」と大声で連呼するロック・バンドが人気を博し、そのバンドがすぐに使い捨てされることが格好いいと思われるかもしれないが、人間はそもそも使い捨てで、人生100年であっても一瞬とさして変わらない。使い捨て文化が世界中であたりまえになり、プラスティックがミジンコのように細分化されて人間の体内に取り込まれても何とも思わない人間に「進化」して、今後も漆製品が求められるのはごくごく一部の金持ちだけのものとなるが、そのことさえも怪しい。手仕事と言えば友禅染めもそうだが、プリントでどんな柄も安価で量産出来るので、わざわざ複雑な工程を経て手で作っても大多数の人にはその価値はわからない。またわかっても買えない人ばかりで、手仕事の技術はどんどん後退するが、伝統工芸とは元々ごく一部の人が携わるものという見方もある。だが、伝統的な技術によって伝統工芸だけが作られるという見方は間違いだ。京都に外国人観光客が急増し、彼らのキモノを着ている姿をよく見かけるが、彼らにすれば本物でなくて充分で、2,3時間だけキモノ文化を楽しみたいのだが、そこに本物の手描き友禅のキモノを着ている人が混じっても、日本人も含めてまずそのことを悟る人はいない。それが現実で、京都の伝統工芸は街中を歩く限り、見当たらない。そう言えば先月筆者は下の妹と甥の結婚式で隣り合わせに座ったが、下の娘が今年2月にアメリカから一時帰宅し、キモノを着て北野天満宮で撮った写真を妹が見せてくれた。筆者30代前半の梅の文様の訪問着で、藍とピンクと胡粉だけで染め、妹が着ればいいと思って本仕立てした。またそれに合わせて円形のストールも染めたが、それらを娘が着て北野天満宮に行くと外国人観光客の取り巻きが出来た。そのひとりのフランス人男性のデザイナーは、「日本に本物のキモノを見るためにやって来たが、梅が咲くこの神社にあなたのキモノはとてもよく映え、感動した」といったことを話して写真をたくさん撮ったそうだ。デザイナーであればそのような気節感を表現する手描き友禅の訪問着のよさがわかるが、20代の女性のそういうキモノを着る若い女性の姿を北野天満宮で見る機会は皆無に等しく、そのデザイナーは運がよかった。
そう言えば3月下旬に東京で結婚式に出席した時、40人ほどの男女の集団を見かけた。少し先に宴会を開く団体で、彼らがゆっくりと通り過ぎるのを筆者はソファに座って終始眺めたが、全員が上品で、また知的に見えた。そこに振袖姿の2,3人が混じっていて、彼女らの顔やたたずまいの美しさにも強い印象を受けたが、キモノはどれも手描き友禅で、それだけでもその団体が社会的にどういう階級にいるかがわかった。その振袖は貸し衣裳ではなかった。また半世紀以上前の時代色を帯びた安物ものでもないことは、見る人が見ればわかる。ということは世間の大多数の人にはわからないが、何事もその大多数に属することを誇っては恥をかく。もっとも、そういう人が恥をかく場面すらないほどに人間は棲み分けている。そう言う筆者も自分の専門についてはよく知っていても、漆芸のことはほとんど無知で、わが家にはたぶん漆芸作品と呼べるものはお盆と後、細々したものが少々だ。漆に関心はあって、それを使いたいと思うこともあるが、高価であり、また埃はご法度なので、わが家で使うのは無理だ。漆の作品が似合うのは掃除の行き届いた金持ちの家に限る。それで漆を使った作品にはあまり大きな関心はないが、3月2日に堂本印象美術館に家内と訪れた。この美術館に行くのは割合好きで、たいていの企画展は見ているが、今回は印象の2歳上の兄で漆芸家の漆軒の作品と印象の絵画が展示された。漆軒は印象の死より11年前の1964年に亡くなった。チラシによれば代表作は1939年竣工の豪華客船あるぜんちな丸の一等食堂に置かれた蒔絵飾り扉とのことで、当時の食堂内の白黒写真がとても大きく引き伸ばされて展示されていたが、たまたま写ったという感じで、詳細はわからなかった。この扉は戦禍を奇跡的に免れたが、現在はその4枚全部を使ったキャビネットに作り変えられていて、幅2メートル、縦60センチほどのもので、さほど大きくなく、一等食堂にあった時に目立ったとはおもえない。というのは黒地に菊や桔梗、芒などの秋草を描いたもので、光琳文様とそっくりだ。むしろそのまずい模倣と言ってよい。また模様の配置は完成度が高くない。一般的に工芸家は図案家も兼ねるから、工程の多い仕事に割く作業時間に比べて図案を練り上げる時間は少なくなりがちだ。そのため、陶芸家の富本憲吉のように同じ意匠を使いがちで、またそのことが個性として作家の人気を高めることにもなるが、その意味で漆軒は独自の意匠を完成度させたとは言えない。もっとも、本展は彼の作品は少なく、もっと多くの作品を見る必要があるが、たいていの作品は実用的なもので、売れた後は行方知れずであろう。作家活動を続けるには一般の人が気軽に買える価格の作品をある程度量産する必要があるが、その注文が多ければ大作を手がける時間がなくなる。
ある程度量産したのではないかと思わせられたのが、印象が飛翔する鶴の図案を描いた「双鶴吸物椀」だ。漆軒は蓋つきの黒い椀に金の漆で鶴を直線のみで描いたが、印象はなるべく手間をかけずに兄が描ける図案を念頭に置いたのであろう。印象の絵画は意匠性に富むので、彼は図案化としても一流になれた才能であったが、描くことに憑かれていたので、いわば辛気臭い漆芸に本格的手を染める気はなかったはずだ。それに、漆芸家で有名になるより画家でそうなったほうがはるかに世間では有名になる。印象は図案に関して兄に助言をしたと思うが、兄は兄で日本の漆芸の伝統を守りながらどう新機軸を出すかとなれば、新しい図案を作るしかないことを理解していたと思う。また当時はそれほどに多くの新しい図案が社会に出現していたので、印象も絵画もその動きに影響された面があるだろう。印象の明るい絵画を思わせる「浜木綿」の衝立はチラシやチケットのデザインに使われたが、白い花の背後の海の青さが強烈で、どこか田中一村を先取りした趣がある。こういう写実的な意匠は先の琳派風の秋草とは大違いだが、衝立は飾り扉とは違ってはるかに大きな画面で、絵画的な図案は許される。ただし、こうした写実的な文様はわざわざ漆でやる必要はなく、絵画ですべきとも言える。そこが工芸における意匠のあるべき姿として永遠に問われる点で、写真に近づく写実は工芸には不要だ。多くの工芸が発展して来た日本では、意匠の伝統遺産が豊富にある。またそれらの蓄積からあるべき今後も見える。それを漆軒がさまざまに試みたことは本展の出品作からも垣間見えるが、伝統にかなり近いものから前衛的なものまであって、漆軒の印象は定めにくい。それは漆軒と同時代の他の漆芸家や工芸家の意匠と比較すべきでもあるからだが、そういうモダニズムの日本の工芸意匠を、多くの工芸作家の作品を通じて眺める展覧会はきわめて稀だ。それは本展が珍しいことからもわかる。印象の絵を見る機会に比べて漆軒のまとまった作品の展示は筆者が知る限り、今回が最初だ。絵画は美術で、工芸にもその側面はあるが、絵画の面からは見るべきものが少ないとの考えだ。それはそうなのだが、絵画を前提にそれを純化させたものが意匠でるとも言え、印象が日本の大正から昭和初期にかけての新しい図案の動きをどう見ていたかの検証を彼の絵画から読み解く試みも行なわれるべきで、本展はそのことも考えさせる点でも意義があった。とても気になったことを最後に書いておくと、作によって出来不出来はあろうが、漆軒も印象も書はさっぱり駄目で、光悦と宗達の有名な合作を意識した作や、また詞と絵が交互に登場する絵巻の文字の部分は、正視するのが気恥ずかしかった。画家は独特の味のある字を書くのが相場だが、モダニズムの意匠や絵画に邁進した漆軒と印象は、能筆家になることを目指す気もなかったのであろう。