値打ちの品は眼力次第で、天神さんの縁日には骨董品やガラクタを売る露店がたくさん並ぶ。その地域は境内の東端とそのさらに東を南北に走る道路沿いと境内の北側の道路の南側が中心だ。

境内の西は梅苑とさらにその西は紙屋川が流れていて、筆者はめったに見ることがない。それで北野天満宮の境内は国宝となっている本殿の西側よりも東側が賑やかで、楼門をくぐると真っすぐ北に向かう小径があるが、西にはそういう道がない。筆者はいつも北野天満宮を訪れると本殿から西側の区域を歩くが、楼門は本殿の南東にあって、楼門を北に入ると道は二手に分かれ、斜め方向の北西に進むと本殿の正面から南に延びる道に着く。今年2月25日はそのように歩いて本殿に至ったが、本殿前の三光門に至るまでの間、参道両脇に伴氏社よりも大きな、そしてほとんど同じ大きさの4つの社が左右対称にふたつずつ並んでいることに気づいた。とにかく正面に立って写真だけ撮り、投稿の際に神社の名前を調べればいいと考えた。3か月も経ってようやく先ほど北野天満宮のホームページでそれらを確認したが、50の摂社、末社が本殿を取り囲むようにあって、順に番号が振られている。先の4つの摂社は本殿に至るまでに必ず前を通り、また大きな2対の狛犬のように参道の両脇に位置しているので、存在感は大きいが、ホームページの番号では1から4が割り当てられている。筆者が最初に撮ったのは参道の東側にある福部社、次が老松社、そしてその向かい側にある火之御子社、白太夫社といったように時計の針回りであったと思う。今日の1,2枚目の写真はその順に並んでいるはずだが、ホームページの番号で言えば4、2,1,3の順で、火之御子社が1に相当し、摂社としては最重要格と見てよい。重要度は社の大きさに比例しているのが普通かと言えば、そうでもなく、参拝者の目につきやすい場所にあるかどうかが重要だ。祭神と神得を順に書いておくと、1「火之御子社」は火雷神で、雷除けと五穀豊穣、2「老松社」は島田忠臣翁で、これは植林・林業の神、3「白太夫社」は度会(わたらい)春彦翁で、子授け、安産、4「福部社」は十川能福(そごうののうふく)、金運、開運招福だが、本殿北側にも老松社はふたつあり、また白太夫社もあるが、本殿西側北端には福部社がある。同じ祭神を祀っているのであればまとめればいいと思うが、それを許さない事情が摂社が設置された時代にあったのかもしれない。ともかく、だぶって祀られていることはそれだけ北野天満宮では重要な摂社ということになりそうだ。これら3、4の摂社は庶民に馴染みの御利益があって、1と2よりも重要度が劣る感じがするが、実際1、2よりも南にあって、1と2よりも後に設けられたのであろう。となると、さらに南側にもう一対の神社をという気にもなるが、設置場所がない。

2月下旬から4月中旬にかけて京都文化博物館で「北野天満宮信仰と名宝」展が開催されていて、その期中に同館に春季創画展を見に行き、4階にエレベータ―が止まって扉が開いた際、真正面の壁に国宝「北野天神縁起絵巻」では最も有名な暴れる雷神と逃げ惑う公卿たちを描いた清涼殿への落雷場面を拡大したポスターを見た。同じ場面は2001年に京都国立博物館で開催された菅原道真公1100年祭記念の「北野天満宮神宝展」のチラシにも使われたが、筆者はどちらの展覧会にも行かなかった。天神とは雷のことで、大宰府に左遷された道真の怨霊が京都にいろいろと災難をもたらしたので、その霊を鎮めるために天神信仰が始まった。摂社の第一番が火雷神であるのは、道真を本殿に祀る以前にこの地に五穀豊穣の神として雨を伴う雷神を祀っていたことによる。つまりもともとの雷神に道真を付会させた。老松社の植林・林業の神は今では馴染みがないが、家を建てることを初め、木工芸品や仏像など、木材は生活のあらゆるところで必要であったことから理解出来る。また木を切った後に植林しなければ豪雨の際に山が崩れることも知っていたことによる。この神社の3月12日の例祭にたぶん今も林業関係者がお参りしているのだろうが、木造の家は今では工場で作られたパネルで組み立てることが主流で、大黒柱は夫婦共働き時代でもあってなおさら死語になりつつある。さて、今日の3枚目の写真は竈社で、これは5の番号がついている。縁日の露店商が並ぶ道路に出る前に、本殿東の小径の北の突き当りで撮った。鳥居が3つも並んで広々としていて、1から4とは違う意味で別格だ。庭津彦神(にわつひこのかみ)、庭津姫神、火産霊神(ほむすびのかみ)を祀り、台所の守り神だ。主婦はもちろんのこと、料亭や食堂など、火を使う職業の人がお参りするだろうが、台所の神を祀る神社はほかにもあり、また伏見稲荷大社前では初午の日に火伏せの神として台所に祀る伏見人形の布袋像を売る店が江戸時代にはたくさんあった。京都は何度か大火に見舞われていて、「火の用心」については日本一気を使って来たと言ってよいだろう。京都市内の各学区に消防団があることはその意識の名残で、特に昔洛中と呼ばれた地域で火事を発生させると、近所中から白い目で見られたし、今もそうであろう。だが、消防法が変わったこともあって、先斗町や西陣の伝統的な家並みであっても、火事の類焼を極力少なくさせるために、家を建て替える時には玄関前の道幅を広く取る必要がある。そうして少しずつ歴史的な町並みが変わり、また竈のない家が大半となって、竈社も不要かと言えば、火を使って調理するからには「火の用心」を忘れることにはならない。ゴルフの最中に雷に打たれる災難を避けるために火雷社にお参りする人があるというから、雷や地震など、人間は自然には逆らえない。