補足の形になるが、
4年前に投稿した「北野天満宮」で取り上げていない社について、今日と明日に分けて書く。使う写真は今年2月25日の撮影で、その日は天神さんの縁日に久しぶりに訪れた。

北野天満宮は境内が広く、すべての摂社や末社の写真を撮ってブログで取り上げるとなると、「大阪天満宮」のように「その9」以上の回数になると思うが、気長に制覇したい。2月25日は梅が満開であったが、今はわが家の裏庭の梅の木に青い実が出来ている。季節を外すと投稿する気分が失せるが、以前書いたように、撮った神社の写真を合間を見ながら順に使って投稿する。さて、2月25日はいつもの縁日のように露店が並ぶ境内東の道ではなく、大鳥居をくぐって参道を北に歩いた。楼門に至るまでのその参道両側にも臨時の店は並ぶが、どれも食べ物を扱い、また庇つきの屋台で販売するので華やかさがある。その屋台の隙間から見えたのが今日の最初の写真だ。これは縁日でなければもっと目立つと思うが、屋台が隙間なしに並ぶ中、さすがにこの鳥居を遮ることは出来ないので、参拝者がぎりぎり利用出来るように屋台が設えられ、却ってその隙間の奥にある鳥居や社が目立つ。右手に駒札があり、「末社 伴氏社」とある。「ともうじしゃ」と読み、祭神は「菅原道真公の母君」で、「子どもの成長と学業成就を守護」と書かれる。説明をかいつまむと、「かつては石造りの五輪の塔があったが、明治の神仏分離令によってそれは北野天満宮南隣の東向観音寺に移された。石鳥居は鎌倉時代の作で、国の重要美術品に指定され、台座に刻まれた珍しい蓮弁で有名」とあって、さすが京都と言うべきで、鎌倉時代の鳥居が参道沿いにしかも縁日の屋台のすぐ背後にある。この鳥居は京都の三珍鳥居のひとつとされていて、他に2か所は京都御苑内の厳島神社、太秦の蚕の社(木嶋神社)で、数年前にすでに訪れている。たまたま伴氏社を見つけたことで、3つとも見たことになる。縁日における参道の屋台は江戸時代でも毎月25日は営業が許されていたのであろう。月に一度ならば菅原道真の母も鬱陶しいとは思わないはずで、また普段以上に多くの人が参拝するからには、この伴氏社はより見つけられやいやすいかもしれない。東向観音寺はこの伴氏社から西50メートルほどにあって、北野天満宮の境内西端に接する住宅地を歩かなければわからない。筆者はそこを歩いたことがないが、すぐ近くにあっても長年知らないままであることは人生にはいくらでもあって、伴氏社にも筆者は長年気づかなかった。2枚目の写真は社の前から北西方向を臨み、20メートル先にある梅苑内の梅花が見えるので撮った。菅原道真の母を祀るとなればどこに神社を設けるのがふさわしいかとなれば、やはり参拝者がまず踏み入る参道の、しかも梅苑のすぐそばしかない。小さな社だが、道真のように有名ではなく、妥当な扱いか。